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第38話

 鏡に映る自分はやけにスッキリした表情で、目の下の隈も薄くなっている気がする。  洗面所で顔を洗ったノエルはそんなことを考えながら、気になる傷口を服を捲って確かめた。    胸の右下辺り、じんわり滲んだように赤黒い痣が肌に浮かび上がっている。痛みは無い、傷口は盛り上がっているが、その痣のせいで殆ど目立たない。ただ見た目が悪いだけだ。   (……そのうち消えるだろう)    D医師が言うには臓器の損傷は無いらしいので運が良かった。痣の一つや二つ、命に比べればどうってことは無い。    とぼとぼと御手洗を出て、長く暗い廊下を歩く。そこは以前ヒラキ・ライトに話を聞きに来た時に訪れた病棟だ。まさか自分が入れ替わりで入院する羽目になるとは予想していなかった。    静かで不気味な廊下は、恐らく本当に看護師や他の患者は居ないのだろう。それにエレモアシティーは朝と言う概念が無いので時間の感覚がおかしくなる。…暇で暇でどうしようも無いのだ。   (まあ明日には退院出来るから我慢だ)    青色の札が下がった病室の扉の先には何一つ楽しくないベッドが置かれている、そう思って開けた。   「―ッ、お前…」 「体の具合はどうだ?」    ベッドに腰かけ背を向ける男は、ノエルが部屋を空けた数分の隙に忍び込んだのだろう。   「……随分遅いお見舞いだな」と男が顔を見せなかったことに対して嫌味を言うと、彼は眉を下げて両腕を広げる。それは抱擁を求めているのだ。誤魔化しにも取れるがノエルがそれを断る理由もない。 その体をそっと抱きしめると、柔らかい髪が首を触り、甘い香りが鼻腔を擽る。   「良かった、お前が生きていて」    背中に回った腕は優しく、ノエルの体温を確かめるのだ。    (俺を殺そうとした奴が言うセリフか?…気持ち悪いと言った男によく抱きつける)    ノエルの感情を受け取るつもりもないくせに、と非難したくなる気持ちも勿論ある。だが彼は恋愛を酷く毛嫌っているだけで、親愛に対しては否定的では無いのだろう。   (前に家族を守りたい、と言っていた)    恋愛対象として見ていないだけで、ノエルはきっと彼の"何か"には違いない。   「あのカルトの子供はちゃんと処分したから安心してくれ。」 「…全く物騒な話だ。」 「本当に申し訳ない事をした。私の勝手な感情でお前を…」    向けられた瞳は罪の意識に苛まれている。自分の勝手な行動でノエルが負傷したのだから当たり前だろう。だがノエルは男の罪悪感よりも、ぶくぶくと膨れ上がる欲望に支配されている。    頭の中ではどうやって目の前の男を自分のものにするかしか考えていない。恋愛だろうが親愛だろうがノエルにとってはどうでもいい。   (…何処までなら許される?)    恐る恐る指先でその赤い唇の輪郭をなぞった。…どうやらそれは問題ないらしい。少し大胆な行動に出ても良さそうだ。ノエルは彼の頬に思い切って唇を寄せてみる。    男の肌とは思えない滑らかさとハリ、想像以上の感触に、理性がブチブチと全身から剥離されていく。   「…どうした?傷が痛むのか?」    引き攣った表情は、"発作"が起きる寸前だ。触れ合うのはセーフだがキスはアウトらしい。…だがウィルソンが突き放さないのはノエルに対して後ろめたさがあるからだろう。   「…そうだな。俺は下手をしたら死んでいた、…おかしな痣も…どうしようもなく不安だ。」 「そう、か。そうだよな。すまない、…」     伏せられた瞼に口付けを一つ、二つと落とす。その度に男の強ばる体に気がついていた。過剰な反応は加虐心を刺激する。      付け入る隙を見つけた、その罪悪感に。      ノエルが唇を奪おうとした時、彼は左手で咄嗟に唇を庇った。   「それは…違うと思うのだが」 「俺が安心出来ると言ったら?」 「……いや…でも…」 「頼む、俺を安心させてくれ」   ノエルは乱暴にしないよう、優しくその手を退かす。再び現れた赤い唇はわなわなと震える。嫌悪や罪悪感、恐怖でぐちゃぐちゃの表情に構わず口付けた。    触れるだけの優しいキスは、男の心構えをさせる準備運動のようなものだ。   「…もう、いいだろう」と顔を背けようとするウィルソンを逃がす気などない。あくまで優しい手つきでその頬を捕まえて、もう一度、今度は深く口付けをする。    そのガッチリ閉まった歯列を舌先で擽って、怖がって逃げたその体をぐっと抱き寄せた。一瞬の隙を見て空いた口内に舌を滑り込ませる。縮こまった舌を絡め取り、嫌がる体を押さえつけると、支配欲が満たされていくのだ。    一度覚えたら忘れられぬ強烈な快楽。     「…ッ」    爪が食い込むほど握られた拳は今にも殴りかかりそうだが、自責の念がそれを許さない。それはノエルにとって都合が良いだけだ。このままベッドに押し倒して…とまでは流石にいかない。      ―トントントン、と弱々しいノックが邪魔をする。    すぐにガラリと開けられた先に突っ立っている冴えない男は、密着する二人を見てお見舞いの果物の詰め合わせを地面に落とした。 「…えっとなに、…してるんだ?」と至極真っ当なセリフを吐く。    赤く濡れた唇、乱れた服、どこをどう見ても情事に耽ろうとしているとしか見えないだろう。   「再会の喜びを分かちあっていただけだが。ヒラキさん、貴方こそどうしてここに?」    平気で嘘をつくノエルの言葉などヒラキは聞いていない。俯いたまま動けないウィルソンの腕を強引に引っ張って、ノエルから引き剥がす。そして自分が盾になるようにノエルの前に立ちはだかった。    実に鬱陶しい。ノエルがギロリと睨むとビクリと肩を強ばらせて怯む癖に、絶対にその場から動かない。   「俺はレミさんから貴方が撃たれて入院したと聞いて…」 「……なるほどな」    恐らくサコダが彼女に余計な事を言ったのだろう。そのせいでいい所を邪魔された。   「…これ、お見舞いの品です。もうすぐ面会時間も終わるので…帰ります」    彼はテーブルに落とした果物の詰め合わせを置くと、ぼんやりとしたウィルソンに「おい、帰るぞ」と部屋から押し出した。   「…お大事に」と形だけヒラキは告げると、逃げるように男を攫っていく。   「……………やはり邪魔だ……」    昂った鼓動が冴えない男のせいで冷める。ヒラキはノエルに対して酷いことをしている訳では無い。ウィルソンの存在が無ければ気にも留めない道端の石ころだ。   (あの二人がどのような関係なのか調べる必要がありそうだ)   美しく輝く宝石の隣に石ころではその価値も下がる、とノエルは勝手にそう思い込んで、ギラギラと嫉妬の炎を燃やした。  

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