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第77話
弱々しく叩かれた扉。だがノエルはデスクに向かったままうんともすんとも反応しなかった。
時刻は七時十五分を回ったところだ。あれから一時間ほど経過していたようだ。
「…入るぞ」
誰も良いと言っていないのに勝手に開けて背後から近づいてくる男にノエルは「入ってくるなと言ったはずだ」とピシャリと言ってやる。
だがふわりと甘い香りを漂わせその男はノエルの背中に恐る恐るの抱擁をするのだ。シャワーでも浴びたのだろう、髪が濡れて水滴が首筋に落ちた。
「なんの真似だ」
「いや、その…さっきは言い過ぎた。」
きっとこうやって抱き締めたら許してもらえるとウィルソンは思っている。実際にノエルはその肌の感触に劣情を覚えているのだから。
「…そういえば丸く収まると思っているのか」
「そんなつもりでは…」
「じゃあ一体何故あんなことを言ったのか説明しろ。」
ウィルソンは小さく唸り、その頬を甘えたように擦り付けた。ノエルの機嫌を取っているのだろう。
「ムカムカした。お前が庇うから腹が立ったんだ。」
「それで?」
「強要は良くないと分かっているが…抑えが効かなくて」
ヒラキが以前に言っていた。『親しければ親しいほど自分と同じ感覚を強要する』と。つまりそれはノエルが彼の親しい人間の枠に入っているということだろう。
「ヒラキさんにも同じような対応をしていたのか」
「……そうだな。アイツはお前と違って気が弱い、何度もそれであいつを苦しめたんだ」
顔を後ろに向けると、不安そうに揺れる青い瞳と目が合った。ヒラキが家庭を持つことを諦めている理由を作り出していると自覚と罪悪感があるのだ。
確かにノエルはウィルソンの言葉に苛立ったり傷付いた所もある。だが自分の事で不安そうにしている男を放って置けないのだ。
(…ヒラキさんも似たような感覚だったのかもな)
「全く難儀なもんだな…」
ノエルはその頬に優しく触れてることで心が満たされ、だがどんどん貪欲になる。ふとまた過去の交際相手の彼女を思い出した。あの時の自分では手に入らないから諦めたが、今は手に入れられないからこそ執着している。
(違うとしても過去に嫉妬されていると解釈すればムカつかなくなってきた)
その洗いたての髪をくちゃくちゃに撫で回して、硬かった表情筋が緩むのが分かる。「からかうな」と少しうざったそうにノエルの手を退けたウィルソンは真面目に話を続けたいようだ。
「人としてお前に嫌われたくない」
それは今のノエルに取ってとても都合の良い言葉だ。この男は全て『人として』と付ければ愛の告白も受け入れそうである。
「……俺はお前が人として好きだから心配するな。」
ウィルソンはホッとしたようで強張った肩を脱力させた。細くない骨と、筋肉に覆われた体。低く落ち着いた声色。何もかも今までの恋人達とは違うがその美しい顔を隠したとしてもノエルは他のものなど目に入らぬほど心酔している。
「…これから色々な人間と関わる機会が増える。私が狂った時お前に止めてほしい。」
「分かった。だが本当に大丈夫なのか?課長は非人道な実験はしないと言っていたが、不死身を研究するのに果たして人道から外れないことなどあるんだろうか。」
「うーん、多少の傷は仕方がない気がするな」
不死身を一体何に利用するのか聞かされていないままウィルソンが了承してしまったせいでノエルはまだ彼らの行おうとしている計画の全貌を知らない。
「俺は多少の傷も嫌だ。」と男の白い腕に浮かび上がった血管を指でなぞる。この腕が、その体が他人の手で傷つけられることを想像しただけで腹が立って臓物が煮えるのだ。
「フェルトマイアーは約束は守る男だからその点については心配しなくていいと思う。」
「俺が言うのもなんだが何故そこまで課長を信頼しているんだ?」
「アイツとは長いんだ。昔から色々世話になっているし」
「……そうか」
ノエルはそう言いつつフェルトマイアーを心の底から信頼するというのは危険だと考える。あの薄ら笑いを浮かべた上司がどうも他の目的を隠している気がしてならないからだ。
帝国に対抗するためにウィルソンを兵器にでも仕立てるつもりなら国外逃亡も視野に入れて裏で準備を進めなければ。
「そういえば、ヒラキはどうなったんだ?」
「多くは語れないがサコダが捜索している。」
「……そうか。お前の同僚は王国民の血が混じっているのか?」
「確か彼はクォーターだったはずだ。それがどうかしたのか?」
「いや…ヒラキは…今のあいつは大の帝国嫌いでね。クォーターならギリギリ大丈夫のはずだ」
目線が泳ぎ、再び彼の体に緊張が見られる。あの時ウィルソンは自分より体格が劣り、冴えないヒラキに対して尋常ではない様子で怯えていた。そして今も、本人がいないのに自分を守るように体を抱く。
ノエルは知りたかったが、この話には踏み込んではいけないような気がしてぐっと堪える。
「今後の計画は課長の指示があるまでお預けだ。…俺はシャワーを浴びてくる」
立ち上がったノエルの腕をウィルソンは引き留めた。ほんの少し込められた力は頼りなく、藍色の視線が向けられると逸らす顔。
「どうかしたのか?」
その問いかけに、彼はこう言ったのだ。
「…お前の安心が欲しくなった」
理性に揺さぶりをかける男に、ノエルは喉の奥を引き攣らせながら生唾をゴクリと飲み込んだ。しかし何でも思い通りにいくと思わせてはいけない。
ウィルソンの頬に軽く口付けをして、「俺たちの関係ではこの位がちょうどいいはずだ」と微笑んだ。
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