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第89話
「兄貴!」
男はそうノエルを呼んだ。スタッフの連中ももう止めるきはないらしい。
「やっぱりそうだ!久しぶり!」
彼は嬉しそうにその目を輝かせて、だがどう接していいのかまだ分からない、といった複雑な表情を浮かべる。
『にいちゃん!ピアノ僕にも教えて!』
小さな彼は無邪気にそう言った。
『いいなぁー、僕もにいちゃんと同じのがいい!』
頭を掠める嫌な記憶の数々に、背中から黒い闇に覆われるような、醜い感情が沸き立った。
イアン・アーサー、彼はノエルの腹違いの弟だ。最後に会ったのはノエルが高校を卒業して以来だったか。変声期前の小さな少年のイメージとは違い、別人のように体格や声色もがっちりとしている。…アーサー家の男、という感じだ。大嫌いなアイツに似たシルエットが男を苦しめるのは言うまでもない。
(…八年も会っていなけりゃ当然か)
「…お前、なんでここに…」
「親父に『お前も二十歳になったんだから』ってせっつかれてさ。兄貴こそ何でこんな所に?しかも"商品"としてなんて…。つーか不死身ってなんだよ」
さほど苦労もせず手に入れただろうブランド品を嫌味なく身につけ、何でも出来て、誰からも愛される常に和の中心にいる"羨ましく憎い"存在。
「…関係ない。お前は会場に戻れ」
ノエルはそう吐き捨てて早足で待機室に急いだ。しかしイアンは離れるつもりはないらしく、ノエルの後を執拗に付いてくる。
「待ってよ!なんで逃げんの?」
「関わりたくない」
「…んだそれ。家族に言うセリフか?」
彼は傷ついたように声を震わせた。ノエルの事を本当に家族の一員だと思っている、とでも言わんばかりだ。それが無性に腹が立って仕方がない。
「血が半分でも繋がっていれば家族か。…馬鹿馬鹿しい。」
グッと寄った眉、相手もノエルの一言で腹が立っている。思ったことは全て表情に出る所は昔から変わっていないようだ。
「…はぁ?オレは心配して―」
「あらら〜、廊下の真ん中で喧嘩はやめてよー。」
イアンの背後からぬっと現れた下品で派手な男は、「どーしたの?」と馴れ馴れしく彼の肩に腕を回した。
ノエルは目の前の男がウィリアム・ウィルソンだと直ぐに気がついた。カツラを被っていようが、サングラスを掛けていようが、軽薄で無礼者を演じようが瞬間で分かる。
「うげ!…止めてもらっていいですか?臭いんで」とイアンは直ぐに距離を取った。たしかに男の香水は本来の芳香をかき消す程強い。
「えー!酷いなあ!お風呂ちゃんと入ってるよ」
「…知らねーし。てかあなたなんでここにいるんですか」
「僕は商品受け取りの手続きを済ませたとこだよ。良い買い物したなあ」
彼らが他愛もない会話を交わしている間、ノエルは今回の計画に不満を抱えている。
不死身の男を狙う連中の中にぽんと放って、それも悪目立ちするような格好で一人とは。それに王国民をほぼソールドアウト、行動まで会場一目立っている。
フェルトマイアーが何も考えなしに行動するとは思えないので、これも計画のひとつなのだろう。
(俺を囮にして細かい観察はウィルソンに、…ということか?いや、それなら他の協力者でもいいはずだ)
「とにかく今取り込み中なんで邪魔しないでもらえます?」
「えー、だって僕道に迷ったんだもん。外まで連れてってくれない?」
ウィルソンは演技とはいえやけにイアンと距離が近い。ノエルはチリチリと胸の奥が焦げていくのが分かって嫌になった。ゴリゴリと奥歯が擦り合わされ、二人を引き剥がしたい衝動に駆られる。そんな事をしたらイアンに怪しまれるだろう、彼は昔から人の感情の変化に聡 い。
それを知ってか知らずか男はくるりと身を翻しノエルの肩に腕を回す。
「じゃ、そっちのオニーサンが僕を外まで連れてってね」
「……」
サングラスの奥で三回瞬きをする。ここはウィルソンに任せて脱出を優先すべきだろう。
「分かった。案内しよう」
二人が出口に向かった時、イアンはウィルソンの肩をグッと掴んで制止した。それもそうだろう、『五千万コイン』を支払ってまで落札したのだ。
「兄貴は俺が落札したんだ。勝手に連れていくなよ」
(…こいつが?一体何の目的で… ああ、アレか。いつもの"悪気なく"ってやつか)
ノエルはイアンの事になるとどうも卑屈に物事を考えてしまう節がある。そして自分がとてつもなく醜いバケモノのように感じてしまうのだ。…だから彼らと関わりたくない。
「あにき?そーなんだね。じゃ君も一緒に行こ?」
「アンタが他のスタッフと行けばいいでしょうが」
「ごめんね、僕急いでんだ。ちょっと予定より遅れてるからヤバイかも」
埒が明かない、ソワソワと辺りに首を回す男の予感は的中してしまう事となった。
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