93 / 95
第93話
男は煤だらけの頭を熱いシャワーで流す。影だけ蠢くカーテンの先、黒い水が白い肌を伝って排水溝に流れていく想像は容易い。
「ノエル、悪いが洗剤を取ってくれないか?」
「…洗剤?…まさかシャンプーの事か?」
湯気が立ち込める浴室、クラクラと目眩がするのは抑圧している感情が爆発しそうだからだ。
隙間からぬっと差し出された白い手に、そのボトルを握らせる。
「ありがとう」
雫を弾く肌、浮き出た青い血管。曲線などない骨ばった手。その全身はきっと滑やかで美しい。
ノエルの耳は男の一挙一動を聞き逃さないようにと傾けられ、二つの目玉は揺れるカーテンに釘付けにされる。膨らむ妄想にゴクリと生唾を飲んだ。
「…それにしても浴室にまで見張りがいるのだろうか。」
帝都の外れにある閑静な住宅街。高層マンションが立ち並ぶその中の一つ、周辺とするとこじんまりとした背の低い白の建物の十五階の角部屋が二人の新たな住居である。
「…さあ?お前の上司の命令だろう?私は必要だとは思わないけれど」
広くて家具も一式揃っているので不自由はしないだろう。セキュリティは帝都にしては微妙だが、それでもアバナンドールの家よりは優れている。何せどこそこ監視プログラムが赤い光を放っているのだから。
ここはフェルトマイアーが用意したのだとローレンは一言だけ告げて去っていった。
「…ウィルソン、お前は気にならないのか?俺に見られながらでは落ち着いて入れないだろう」
下心を持った男に監視されながら無防備を晒す。もしノエルが逆の立場で、全くその気が無い男に下心丸出しで監視されるとしたなら苦痛で仕方がないはずである。
「お前なら構わない。カーテンもあるしな」
そのカーテンを引き剥がして襲い掛かりそうになる獣をグッと抑えた。この男と行動を共にするようになってから我慢強くなった気がしている。
「……そうか。そういえば落札した王国の人達はどうしたんだ?」
「彼らはヤマダさんのところだ。人手が足りないと言っていたから」
ヤマダ、ノエルの脳裏に浮かんだのは歯抜けの汚らしい笑顔だ。…何故ウィルソンのような美しい男が彼とつるんでいるのか理解不能である。
「お前は不死身の男として狙われているんだ。…目立った行動は控えて欲しい。そうまでして助ける意味があったのか?」
「…王国は私にとって幸せの象徴だった。その名残かな」
きゅっと捻られた蛇口、シャワーの雨が止んだ。
ザッと開け放たれたカーテンから体を清め終わった男が出てくる。
ノエルはあれ程見たくて堪らなかったその体から直ぐに目を逸らした。だが視界の端には捉えている。
ひた、ひたとタイルを裸足で歩く音。
「悪い、待たせたな。…さすが、高級志向なだけある。タオルまでふわふわだ」
男は運良く背を向けている。鼓動が高鳴って、見るならば今だと言わんばかりに目玉が勝手に動いた。
「…ッ!」
思わず息を飲む。それは彫像のような出来上がった筋肉と皮膚に浮かんだ無数の傷。
切り刻まれたように長細い跡、煙草を押し付けられたのか白く細かなケロイド。
想像とは違う、傷だらけの背中。
「汚いだろう。前にはもっと大きな傷がある」
背を向けたまま男はそう言った。ノエルはそれになんと答えていいのか思い付かず、まごまごと口をもたつかせる。その反応は相手を傷つけるだけという事は分かっていたが『汚くない、綺麗だ』というのは嘘だ。
一瞬引き攣った顔は自分でも分かるほどあからさまだった。それ程ウィルソンの傷は痛々しく醜い。
「お前の期待に添えなかったようだな」
振り向いた美しい男は微笑みを浮かべながら動揺するノエルを見ている。ノエル自身も気づいていない感情を見透かしているのだ。
「…そんなつもりは…」
「一体お前は私の体がどんなものだと思ったんだ?」
ぽんとノエルの肩を叩き、バスタオルを羽織った男は一人そこから出ていく。
蛇口からぴちゃんと落ちる雫。排水溝のぽっかり空いた穴。
「…どんなって…」
(…俺はいつも…)
真珠のように白く美しい背中。それにあの顔が付いていて、あの声が響く。肌は弾力があってシルクのように滑らかで。
想像するのはいつも綺麗な背中。
「…お前が何者であろうと俺は気にしない…」
男の言葉は黒い穴に向かって吸い込まれていくだけだった。
ともだちにシェアしよう!

