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第99話

  車内に流れる誰かの歌はスカスカの歌詞にどこかで聞いた事のあるメロディーだ。これが今の流行なのだろう。そんな曲でも気まずさを紛らわせるのにはちょうど良い。   「いや、あ、今日は…いい天気、ですね!救世主様にはいい、お天気が似合います!」    運転席の男はそう後部座席のウィルソンに声をかけた。特徴的な鷲鼻に、飛び出しそうな出目、切りそろえられたおかっぱ頭、草臥れたスーツの胸元には空白のネームプレート。   「…私は雨の方が好きだ」 「はは!そんな謙遜しなくていいです!」    男はバオン・ドーと名乗った。それが本当の名前かどうかは分からない。   「一体どこへ向かってるんですか」  「……」 「おい」 「………」    バオン・ドーはノエルの問いかけには一切答えない。改めてウィルソンが「何処に向かってるんだ」と問いかけると、声を大きくして答える。   「名無しの拠点です!」    挙動不審に体を揺らし、バオン・ドーはハンドルを握る。    今朝時刻通りドアベルが鳴らされた。…開けてみると様子のおかしいこの男がニタニタと不気味な顔をして迎えに来たのだ。   『会いたかった、救世主様!』と目の焦点が合わぬままウィルソンの足元にしがみついた。困惑するウィルソンの代わりにノエルが男を引き剥がしたのだがどうもそれが気に食わなかったようだ。   「午後からは雨らしいぞ」とノエルがウィルソンと他愛もない会話をしようものなら運転中にもかかわらず後ろにぐるりと頭を向けてノエルを睨みつけてくる。    念の為ウィルソンには帽子とあの品のない赤いサングラスをかけさせて正解だっただろう。   (こんな不気味で気持ちの悪い奴にこれ以上目をつけられても困る)   「あ!!」    そう大きな声で叫んだ男は、ギュッとブレーキを踏んだ。おかげで朝から脳みそがシェイクされる。後ろからは怒号のクラクション合戦だ。   「おい!何だ急に!」 「いや、蝶々飛んでたんです!三時の方向へ!白い蝶々!救世主様に似合う!」 「ふざけるな!…ちゃんと運転しろ!」    バオン・ドーは車から降りてその蝶々を捕まえに行った。実に不安だ、ノエルは本当に彼がフェルトマイアーの言った"迎え"なのか疑い始めた。     「…くそ、一体なんなんだ…。怪我は無いか?」    急ブレーキで首を痛めたらしいウィルソンは、「…また随分強烈な奴がいたもんだ」と眉を下げる。ノエルはその首筋を指先で撫でようと手を伸ばすが、男が車内へ戻ってきたので止めた。   「蝶々、どうぞ」とバオン・ドーは生きた蝶の羽を摘んでウィルソンに差し出す。彼は眉を下げたまま手のひらで包み込むように受け取った。    ゆっくりと発進し始めた車、彼は窓を開けてそっとそれを逃がす。キラキラと建物の反射光の合間、とても優しくて綺麗な横顔にノエルはつい見惚れてしまった。   (くそ、…この変な男が居なければ…)とノエルは自分の指先を口元に押し当てる。 昨日の感触がまだ残っている。柔くて、温かく、…微かな愛情のようなものをノエルは確かに感じた。   (どうして、と聞いても答えてはくれないだろうが)   ノエルの熱視線に気がついたウィルソンはふいっと顔を背けた。穴が空くほど見過ぎてしまったと視線を逸らした。   「救世主様!どんな音楽がいいですか!」 「…その『救世主様』ってのはなんなんだ。私は誰も助けた覚えは無い」    座席に放り投げたノエルの手にコツンとぶつかった指先。その白い指先はぎこちなく控えめで、もどかしくノエルに触れ続けている。   男の急カーブで離れても、直ぐに何事も無かったように引っ付いて離れない。   うるさい、自分の鼓動の音が流行りの音楽よりも。     藍色の目玉は隣の男が何のつもりでそんな事をしているのか確認したい衝動に駆られている。    普段と同じような顔をしているのか、それともからかってイタズラに微笑んでいるのか。衝動に負けた目玉が限界まで右に向けられると、ノエルは心臓がぎゅっと握りつぶされたような感覚に陥った。      太陽の光のおかげか、そっぽを向いた男の首が真っ赤に染まっている。耳も、…恐らく顔も。   (……おいおい、それは予想外過ぎる…お前は恋愛嫌いじゃなかったのか?)    そのような反応を見て、正気でいられる自分を褒め称えたい。混乱と期待が入り交じり、肌寒い季節のはずなのに汗が額を下る。    ドン、ドン、ドン、と叩く鼓動はノエルだけのものでは無い。隣の男も同じ音が鳴っているはずだ。  

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