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第105話

 トントン、寝室の扉が遠慮がちにノックされる。そこは別に誰の部屋という訳では無いが、彼はノエルの「どうぞ」という言葉を待っていた。   「…どうした?」    抑揚がなくとも気持ちは出来るだけ優しく、壊れ物を扱っている気分でウィルソンに接する。その神聖で脆い男を自分のものにしたいというなら。   「悪い…眠っていたか?」 「いや、大丈夫だ。シーツを直していただけだから」    ぺたぺたとその素足で傍によれば、ふんわりとシャンプーと男の香りが混ざりなんとも言えぬ匂いになる。   「シャワーを浴びるなら一言言ってくれ。」 「いや…別に私一人でも大丈夫だろう。お前に不快な思いをさせたくない」    ノエルはベッドサイドに突っ立ったままの男の手を引いて「座って話そう」と提案した。それに素直に従う男は隣に腰掛ける。   「…お前の背中の事なんだが、俺は不快だと思ったわけじゃない」 「……」    丸められた拳に優しく指先を滑らせ「もう一度ちゃんと見せてくれ」とお願いをする。 するりとシャツを脱いだ男はノエルにその背中を晒した。やはり酷く傷ついていて、痛々しい跡だ。      怖かった、想像と違うそれが。それで気持ちが揺らいでしまうのではないかと。     「細かい傷は確か剃刀だったかな…。ケロイドは煙草だ。もう随分前の事で曖昧だがね」    作ったような明るい声色で、ウィルソンは自らの傷の事を説明した。しかし言葉尻が震えて、握る拳に力が入っている。       『拒絶されたくない』とその背中は訴えているのだ。       (そうか…、お前も怖いのか)     ノエルはそっとその背中に触れる。滑らかさなどどこにもなかった。柔くもなく、美しいとも言えない。   「…ッ!」 「…痛むのか?」 「いや、…もう痛まないよ」   だが何も変わらなかった。温もりに触れると安心して、彼が同じ人間だということを感じられる。ノエルはその傷一つずつに口付けを落とした。   「くすぐったいのだが…」 「俺はこの傷を付けた人間が許せない」 「…とっくの昔に皆死んでる。」   (もっと早く出会っていたら、…永遠に消えない傷跡を残せたのは俺だった?……って何考えているんだ俺は…)    例え今ノエルがその歯で噛んで上書きしようとも歯型すら残らない。…彼の背中が綺麗なままだったならノエルはきっと自分という人間の欲深さを知らずにいた。   「悪いな。気を使わせてしまって。」 「…他には?傷、あるのか」   ノエルの言葉にウィルソンは体を正面に向けた。俯いた顔に落ちてくる前髪、視線はずっと出会わない。   「これは私の最期の傷だ」    胸の真ん中、そこには一本の赤い傷が縦に走っている。正面の傷はそれだけだが、白い肌に浮くように赤が目立っていた。 「最期の…」  強ばる身体を両腕で優しく抱え込み、ノエルはその赤い傷にも丁寧に唇を寄せた。   「ノエル、それはちょっと…」 「じゃあ何故昨日俺にお前からキスをしたんだ」 「…あー、えっと…」      ようやくその瞳がノエルと交わった。触れた肌が徐々に熱く火照り、頬や耳、首筋に薔薇の花びらが散らされていく。   「今朝もだ。俺の手に触れてそうやって…俺を弄んでいるのか」  「…ッ違う!弄んでなんかいない。…ほら、安心するんだよ」    もじもじと足の指を開いては閉じ、翻弄される(さま)に今すぐにかぶりつきたくなる。   「だったら証明しろ。」 「証明って言われてもな…」 「できないのか?」    ウィルソンがその挑発に乗る必要はない。しかし赤い唇はそっとノエルの頬に触れて、「…これでいいか?」と答えを求めた。   無言の男に不正解を突きつけられた、彼はそう思ったのだろう。こくりと唾を飲み込んで、今度はノエルの唇に身体をビクつかせながら口付けをする。    愛おしい、愛おしい唇で。   「……これでも駄目だろうか?私がお前を弄んでいないと信用出来ない?」    安心するはずの触れ合いに、ウィルソンの体はいつの間にか青ざめている。それもそうだ、彼は自分自身の分裂する感情に振り回されているのだ。    愛情になりつつあるその物体に、彼は愛と名付けない。傍から見ればそれ以外の何にも当てはまらなくとも。   (恋愛嫌いにしちゃ上出来だ)    「気持ちは伝わった」と彼の髪をくちゃくちゃに撫でて、その緊張の糸を解す。   「そ…そうか。良かった。…もういい時間だ。私は向こうで寝るから」 寝室から出てどこで寝ようと言うのか、ノエルはその腕を引っ張ってベッドに連れ込んだ。何かをするつもりは無い、その体を抱きしめて眠るだけだ。   「おい、…」 「…ここで寝ろ。」    体温の高いその男を毛布に巻き込んで、ギュッと抱きしめる。分かりやすく腕の中の男は困惑している。   「お前人がいると眠れないと言ってただろう」 「…ウィルソン、お前こそ温もりがないと寝付けないと言ってた。昨日もまともに眠れていなかったんだろう」 「…まあ、そうだがね。」    ウィルソンは抜け出そうとも考えたが、彼自身温もりがないと良い睡眠を取れないのでそのままで収まることにした。      

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