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第109話

 清々しい朝日に動き出す人々は時間に追われて忙しない。その人の波を逆流するのは道を外れているようで男は気分が良かった。   「…あれ?忘れ物ですか?」    欠伸を堪えながら警備員はその男に問いかけた。彼は「ええ」とだけ相槌を打ってそのマンションの中に入っていく。   「……うーん…」 「おい、交代の時間だぞ。…どうかしたのか?」 「え?いやさっきの人ね、…あんな服だったかなあって」        ぐんぐん上るエレベーター。十三、十四…、十五階で開かれる。その男は周りをやけに気にしながら降りる。   (十五階、…一番奥)   所々監視プログラムの赤い光が点滅している。男は左手で相棒を操作し、ほんの数秒で回線を断ち切る。赤い点滅が死ねば一時間ほどは大丈夫なはずだ。    一番奥、その扉も厳重にロックがかけられている。手形IDにデータベース認証、ひと手間かかる仕様だ。それも彼にとってはひと手間で済むことである。   ガチャリ、と重い鍵が解錠された。    慎重に扉を開けて、その空間に微かな生活感を感じる。(…兄貴はここに住んでるんだ)と感傷に浸った。    イアン・アーサーは兄に会うために彼の家を特定してやってきた訳では無い。    開けた扉を閉めると勝手に施錠された。その音にほんの少し驚きながら耳を澄ませ、物音がしないか一分ほどその場に留まった。   (…よし、誰もいない)    良さげな場所に盗聴器をしかけながら一つ一つ部屋を潰していく。まずは玄関、バスルーム、そして寝室。    イアンはすぐさま違和感を覚えた。   (………ベッドが二つ…?それに一つは全くシワがない。綺麗なままだ)  消えぬモヤモヤを放置して、とりあえず使っていない方のベッドの下に盗聴器を仕掛ける。デカい体で器用に設置完了した所で、背後に忍び寄る影に気がつくのが遅れた。   「ノエル、何してる」 「―ッ!?いで!!」    ゴン!とフレームに頭をぶつけ、イアンはその痛みに身悶える。まさか誰か居たとは思いもせず、心臓がバクバクとうるさい。   「…おい、大丈夫か?」    こちらを見下ろす男と目が合った。そいつは侵入者に向かって手を差し伸べている。イアンは転がるように距離を取り、自力で立ち上がった。    ゾッとする程美しい男はその様子をなんとも言えぬ表情で見ている。きっとイアンとノエルを見間違えたことに気がついたのだ、動揺がその目の動きからよく分かった。   「…」 「どうやって入った…?鍵、閉まってなかったか?」 「…」  イアンも動揺していた。まさか同居人がいるとは思ってもみなかったのだ。相手は敵意はなく、ただ困ったように眉を下げている。   「…悪いがここは土足厳禁だ。靴を脱いでくれ」 「…あ、ああ、はい」    このまま警察に通報されるかもしれないのに靴を脱ぐ馬鹿がいるか、とは思いつつ言われるがままイアンは靴を脱いだ。こちらも敵意がない、そう示さなければならない。   「それで、…お前は何故人の家のベッドの下に潜り込んでいたんだろう?」 「実は兄貴に忘れ物を取ってきて欲しいって言われて…でも無かったみたいだ」 「…兄貴?……ああ、なるほどな。仲直りしたのか」    男はすんなりとイアンの苦しい言い分を飲み込んで、ぺたぺたと素足で寝室を出た。   (こいつのデータベースは…)    イアンはその隙に男のデータベースを探る。緊急連絡でもされたら面倒だ。しかしその心配は杞憂で、データベースの登録情報がトミーでは読み取れていない。つまりは男はデータベースを起動していないか、もしくは手元に持っていないかだ。   「なにか出そう。こっちへ」 「いや、悪いしオレは帰りますよ…」 「遠慮は要らない。私が聞きたいんだ、ノエルの事」    男はそう言うと、イアンの手をグッと掴みリビングへ連れていく。その強引さとは裏腹に落ち着いた声は耳障りが良い。   「出すと言ったが大したものは無いがね。我慢してくれ」  ソファーに座らされたイアンは(どうすんよ、この状況)とじんわり手に汗をかいていた。さっきその手を振り払い逃げれば良かったのに、何故そう出来なかったのだと自分を責める。   (…まあ兄貴今日は仕事だとリク・サコダが言っていたし…)   「はいどうぞ」と男が出したのは激甘の砂糖レモンジュースだ。こんなもの誰が買うんだろう、と思ったことがあったがどうやら目の前の男のような人間が買うらしい。   「あんたは兄貴と一緒に住んでるんですか?」 「…ああ。そうだな。」 「こんな事いきなり言うのは失礼かもしれないけど、…男二人で同居?……」 「うーん、何か変だろうか?」    向かいに座った男は気だるげに頬杖を付いてこちらを観察している。視界がぼやけて強制的に焦点がその男に合わせられるような不思議な感覚。   「変、というか…友達か何かなんです?あんたと兄貴は…」 「友達?どうかな…今まで私が友と呼んだ人間とは少し違うような…」     唇を指先でなぞる仕草、その造形の美しさにドキリと心臓が絞られる。相手は男だがそんな事は美しさの前には関係がない。   「ノエルはどんな子供だった?」 「どんなって…何でも出来て、それでいて自慢ひとつしない、……」 「憧れの兄貴?」 「…そう。特にピアノが上手で、何回もコンクールで賞取ってたな」    男はノエルの話を興味津々で聞いている。イアンも中々ノエルのことを誰かに話すという事が無かったから自慢したかった。   (あの家で兄貴のこと話すと葬式みたいな空気になるし…)   「勉強もスポーツも、顔色ひとつ変えずに熟してて」 「うんうん」 「いつも何考えてるか分からない、周りはそう言ってたけど案外分かりやすい時もあると言うか…」 「お前は良くあいつのこと分かってるんだな」    イアンは心地の良い相槌についつい警戒心を忘れかけた。本来の目的を忘れてはいけない。ここへは不死身の男について探りに来たのだ。   (でもこの人が知ってるとも思えないしな……)   ゴンゴン、と壁を突く音がしている。そして床を滑る車輪、うるさいモーター音。    イアンが視線を地面に向けると、そこには挙動のおかしい掃除ロボットが壁に向かって何度も突進していた。   「悪い。うるさかったかな」とそれを男は抱え、電源を落とす。   「壊れてるんです?」 「少し調子が悪いようだ。」 「見せて、オレ直せるかも」    男からそれを受け取る。誰かが殴ったように凹んだボディー、埃まみれのブラシ。ダストボックスを開けるとそこに張り巡らされた配線と小型銃。   「あんたこれ改造してんの?銃内蔵とか物騒じゃない?」 「護身用だ。何があるか分からないだろう。」 「まあ確かに念には念をって奴か、…何か工具あります?」      黙々と作業するイアンの手元を男はじっと見ている。あまり人に見られながら作業しないのでやけに緊張した。   「…ああ、センサケーブルが断線してる。絶縁テープとかないです?」 「残念ながら引っ越したばかりで何も無い」 「じゃあハサミとカッターは?」 「それならあったと思う」    イアンは断線している部分をハサミで切って、手際よくカッターで導線を顕にした。あとはネジって纏めたら応急処置は完了だ。やりづらさを感じながらぎゅ、ぎゅっと最後のネジを締めて電源を入れてみる。   『システム起動中…システム起動中…』    掃除ロボットは『清掃ヲ開始シマス』と正常の動作を始める。   「おお、どうやら直ったようだ。」 「電圧が合ってなかったんじゃない?定期的に見た方がいいよ」 「うん、そうするよ。ありがとう」    ふと浮かべる優しい笑顔に収まっていた動悸が再開する。純粋で、穢れなど知らぬ真っ白、イアンはこの男にそのような印象を持った。    顔にかかった白金の髪を指先で捲り上げたのは完全に無意識だった。その瞳と目が合って自分が何をしているのか自覚してすぐさま手を引っこめる。   「ん?どうした?」 「いや、何でもない!ごめん…勝手に」    男は全く気にしておらず、平気な顔をしている。普通ならば何かしらアクションを起こしそうなものだが、触られる事に慣れているといった様子だ。   吸い込まれそうな瞳、何故その目がこんなにも近く見えるのか。そしてどうして自分の体は縛り付けられたように動かないのか。    触れた唇は温かい。微かな甘い香りが鼻腔を擽る。   「…………は??」    何が起こった?イアンは唇に残った感触に驚愕した。あろう事かこの男、初対面の男の唇にキスをしたのだ。   「…いやさすがに面食らうんだけど」    イアンは自分が人からよくモテるという事を自覚している。時々同性から好意を向けられることもあった。    色んな人間と遊び慣れているイアンですらその唐突さには動揺を隠しきれず、更に男の態度にも困惑した。何せ彼は自分でしておきながら   「…違う」    と眉を下げるのだから。   「…ああ、すまない。今のは忘れてくれ。」    屈辱的なのに心臓が不整脈を起こしている。遊び慣れている男が男相手にどのような対応をしていいのか分からないのだ。   「…忘れろってオレ何と比べて違うって言われてんの?キスされてそんな事言われたの初めてで…まさか兄貴と比べてる?」 「…そう言えば冷蔵庫の奥にケーキがあったんだ。取ってくる。」 「待てって!兄貴とそういう関係なの?」    逃げようとする男の服の裾を掴むと、ポロリとポケットから汚れた身分証明書が落ちた。イアンはそれを拾って思わず「あ!」と声を上げる。そこには見覚えのある冴えない王国系の男が写っていたのだ。   「ヒラキ…ライト…」 「お前、こいつを知ってるのか!」 「え?……ああ、うん。とある場所で…あんたこそこの人の事知ってんの?」   胸の奥から絞り出した声で「私は…どうだろう」と俯いた。どんな顔をしているのか気になって、懲りずにまた邪魔な髪の毛を退かす。    目が合った。無垢で濁りのない瞳、その左右対称の顔を苦しそうに歪ませる。   「…ただ数回顔を合わせただけの顔見知りだ。」            

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