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第110話

 革靴が極限までしなる。一秒でも早く家に帰りつかなければ、その思いを嘲るように強い向い風が吹き荒れた。胸騒ぎは収まらず慌てた男は駆け足でマンションのフロントを通り過ぎた。    エレベーターがようやく開き、十五階一番奥の部屋、煩わしい認証を終えて男は靴を脱ぎ捨てる。   「ウィルソン!」    その名前を呼んでリビングへの扉を開けた。男は実に滑稽な顔をしていた事だろう、服はぐちゃぐちゃで汗をかいて息も上がっている。   「おかえり、一体そんなに慌ててどうしたんだ?」  何事もない、ウィルソンは届いた荷物を床に散らかしていつも通りにそこにいる。   「…良かった」    男の体をぎゅっと抱きしめて、もう一度存在を確かめた。その手はノエルの背中を優しく一定のリズムで叩く。    ふわっと微かに香ったのは嗅ぎなれぬアンバーウッドの香水。   「…おい、誰か来たのか?」 「まさか。ずっと私一人だった」 (…詰められた荷物に匂いが付いていた?それに掃除ロボット、…誰か俺のアバナンドールの家に行ったということか)    ロボットを見詰めるノエルの顔をウィルソンは両手で自分に向ける。   「お前仕事は?」 「…抜けてきた。胸騒ぎがしたんだ。…お前に何かあったんじゃないかって」 「いくら心配だからと言って仕事を投げ出すようなことをするな。お前の評価に関わるだろう」    ウィルソンはするりとノエルの腕から逃れて、床の荷物を片付け始めた。男は(良く考えれば監視プログラムもあるから大丈夫、か)と自分を納得させる。   「……なぁ、ヒラキは…あいつはまだ見つからないのか?」  こちらに見向きもせずに彼はそう言った。   「……ああ。」 「…そうか。あいつが逮捕されたら、…」   避難所での殺人、エレモアシティー市長の娘の誘拐、余罪も探せばありそうだ。デリカロッドの五名の殺人に加え、バッジ付きの捜査員二人を殺害。全ての罪がヒラキ・ライトの犯行だと確定したとしたなら終身刑だろう。精神鑑定で異常が認められ措置入院の可能性もある。   「あいつの中の別の人間がやったんだ。だから…」 「…ああ、そうだな…。」   『ヒラキを罰から守るためにベン・カインに自首させたのか』…とノエルは聞けなかった。そして他の罪も誰かに擦り付けるつもりであるなら、ノエルはその行動を止めなければならない。   「…これ以上罪が重くなる前に俺が必ず捕まえる。…ヒラキさんももう一人の自分が好き勝手しているのは止めて欲しいと思うはずだ」    背中は何も物言わず、ただ孤独に揺れるだけだった。      

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