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第3話
03.目覚めた後と、夢みたいな現実
03.目覚めた後と、夢みたいな現実
ヒートの後の目覚めは、いつだって最悪だった。まだ行為を強要され続けている場合も少なくなかったし、ボロボロに疲弊した体はただ放置されるのが当たり前だったからだ。だから、目を開けた瞬間の気分は、いつもどん底の暗闇に沈むようなものだった。
でも今日は、なんだか違うような気がする。
体はさっぱりとした清潔感に包まれていて、まるで新しい肌に生まれ変わったかのように軽やかだ。確かに、激しい行為の後の重いだるさは残っているけれど、心の底から湧き上がる落ち込みは、不思議とない。
ゆっくりと目を開け、ぱちりぱちりと瞬きを繰り返す。視界に広がったのは、真っ白で無垢な天井だった。柔らかな光が差し込み、穏やかな静けさが部屋を満たしている。
視線を少しずらせば、スタンドに吊り下げられた点滴の容器が目に入った。透明な液体がゆっくりと滴り落ちる様子は、まるで病院の病室そのものだな……とぼんやり考えていると、反対側からカタン……という小さな音が響いた。
ゆっくりと首を回してそちらを覗き込めば、そこにいたのは見知らぬアルファの男性。一気に覚醒のスイッチが入り、体がびくりと跳ね上がる。自分の腕に針が刺さり、点滴を受けていることすら、頭の片隅にもなかった。
けれど、急な動きのせいで視界がぐるりと回り、力を失った体がふわりと崩れ落ちそうになる。
「危ないっ!」
素早く伸ばされた腕が、ベッドから落ちかけたオレの体をしっかりと支えてくれた。温かく力強いその感触に、どこかで同じようなことがあったような……懐かしい記憶がよみがえる。
「あ、⋯⋯れー」
ここで一度目覚めた時にも、同じように体を支えてもらった。その後、ヒートが激しく悪化してしまったのに、優しく、優しく包み込むように扱ってくれた。あんな穏やかで温かなヒートの過ごし方は、生まれて初めてだった。
今も怜は、ベッドのヘッドボードに枕を重ねて、オレの体をそこにもたれさせてくれる。その手つきは信じられないほど優しく、繊細で、触れられるたびに頰が熱く赤く染まるのを止められない。
「俺の名前を、覚えていたのか」
でもその一言で、一気に意識が冴え渡る。
「覚えてるに決まってるだろ!」
「ふうん」
言葉は素っ気なく短いのに、その手つきは真逆に優しくて丁寧で、反応に困ってしまう。自分の姿を改めて見下ろせば、柔らかな患者衣のような服を着せられていた。七分袖から覗く細い腕には、点滴の針が刺さり、外れないよう丁寧にテープが貼られている。
足元にシーツを優しく掛けてくれた後、怜は丸い椅子をそっと引き寄せ、サイドテーブルに置かれたトレーから食器とスプーンを手に取った。
「アーン」
「は?」
「口を開けろという意味だ。知らんのか」
アーンっていうのは、もちろん知っている。親が小さな子どもに食べさせてあげる時に言ったり、物語の中で見たことがある――アルファが大切なオメガにやる給餌のような行為。そこにはアルファの深い愛情、強い庇護欲、独占欲が込められていると聞いたけれど、オレにはこれまで関係のない、遠い世界の話だった。
「知ってるよ! でも⋯⋯」
「なら、アーンだ」
食器の中の、透明に近いスープのようなものを丁寧に掬い、ずいっと差し出される。怜の目は、真剣そのものだ。オレはごくんと唾を飲み込み、ぎゅっと目を閉じて口を開けた。
唇を閉じてスプーンの中身を飲み込むと、ゆっくりと引き抜かれる。それもまた、優しく、丁寧に、オレの様子を伺うような気遣いたっぷりの動きで。
「美味いか?」
怜に問われて、オレは正直に答えた。美味いか美味くないかと問われたら、正直――美味いものじゃない。
「⋯⋯味のないスープ?」
「重湯だからな。今の状態を考えて、食事はこれから始める」
「えっと⋯⋯」
「今のお前の体はボロボロだ。重度の誘発剤に長期間浸された体。それだけじゃない。極度のストレスに晒され続け、痩せ細っている。食事も満足に与えられなかったのか? なんだこの細っこい腕は。折れそうだ」
「ちょっとこの頃食えなかっただけで……」
聖母園では、三食きちんと食事は出されていた。ただ、それを口に入れる気力が、いつしか失われていただけだ。それに学校には通えていた。月に一度のヒートが始まるとそれも出来なくなるけれど、アルファの元に連れていかれるよりはマシだと思っていた。
「今日からは栄養バランスも考えた食事をさせるからな」
「は?」
「アーン、だ」
二回目のスプーンが口元に差し出される。思わず口を開けてしまったけれど、聞き捨てならないことを言われたことを忘れたわけじゃない。ほぼ水分だけのそれを飲み込み、口を開く。
「食事をさせるって、オレは……っ」
「アーン」
まるで魔法にかかったように、その言葉に従って口を開けてしまう。
ごくんと飲み込んでもう一度文句を言おうと思った矢先、ドアがいきなり勢いよく開いた。
「西園寺、患者の意識はどうです……ああ、なんだ。求愛中ですか」
「は? 何言ってんだ!?」
見知らぬ人物は少しくたびれた白衣を羽織り、黒ふちのメガネをかけていた。でもすぐにわかる。この人もアルファだ。穏やかな空気の中に、かすかなアルファの気配が混じっている。
「……先輩、誤解だから。それから出来ればちゃんとノックして入ってくれ」
食器にスプーンを突っ込み、サイドテーブルの上のトレイに置いた怜は、呆れたようにそう言ってオレを相手から隠すように立ち上がる。
「食事はこれで終わりじゃないぞ」
「……うっ」
もう食欲はなかったので、これで終わると思っていたのに、見透かされていたようだ。
「ふふ、番への独占欲も溢れてる。良い兆候ですね」
「違う! まだ番ってない!」
「え? まだなんですか? 西園寺、きみインポテンツだったっけ?」
「違うっ!」
今度は怜が怒鳴るように否定する。
「いんぽてんつって、なに?」
白衣を着た男に対してあまりにも怜の剣幕が凄かったのでに問えば、振り返った怜は鬼の形相だった。美形が本気で怒ると、こんなに怖いものかと、呑気に思う。
「お前は、知らなくて、良い!」
「お、おう」
怒鳴られて体がびくりと後ろに下がりそうになる。それに気づいたのか、怜は慌てたようにオレの肩を掴んできた。温かい手が、震えるほど優しく触れる。
「違う! ……お前に怒ったわけじゃない」
「う、うん……」
あまりにも必死にそう言うから、オレも慌てて頷く。オレの言葉を聞いてホッとしたように肩を下ろす怜を見て、不思議に思った。アルファがオメガの機嫌をこんなに気にするなんて、あるはずないのに。
「ふふふ、アルファが壊れていくのを見るのは何度見ても楽しいですね」
「……趣味の悪い」
「いやあ、でもですよ。大学時代、オメガに媚びを売られてもツンと澄ましていた西園寺が、こんな風になるなんて、……あ、ダメだ、お腹が痛いですっ」
白衣を着た悪魔……じゃなかった、アルファが体を折り曲げておかしそうに笑っている。これも見たことのない光景だ。アルファとは常に冷静で落ち着いていて、残忍な存在だと思っていたのに、この二人からはそんな冷たい気配が全然しない。
当たり前の、普通の人間みたいな……温かな雰囲気だ。
「あ、の……」
でも疑問が沢山ある。ここはどこで、なぜオレはここにいるのか、知りたいことが山ほどあった。
「先輩、いい加減笑うのを止めろ。高嶺が話をしたいようだ」
怜はなぜか自分が着ていたジャケットを脱いで、オレの肩にそっと掛けてくれた。なんで? と視線を向けても、怜は先輩と呼んでいた見知らぬアルファの方を見ていて気づかない。
「……これがアルファの無自覚マウントですかー」
「は?」
「それ、無自覚でしょう?」
それ、と指さされ、怜はようやくオレの方を向いて、肩にかけたジャケットを見た。
「え?」
自分の体を見てから視線を動かし、オレを見て驚いたように目を見開いていた。ジャケットをオレの肩にかけたのは、無意識だったのか。
「ジャケットなら返すけど……」
「いや、そのまま掛けていろ。まだ顔色が悪い」
意味がわからなかった。オレの顔色が悪くても、怜には全く関係ないはずなのに。でもジャケットを肩にかけられて、温かくて良い匂いがして、なんだか心が安らぐ。けれど人様の物を借りていると思うと少し落ち着かない。でも、着ていろと言うなら、オレはそれに従うしかない。
「それなら、まあ……」
「ふふふ、本当に典型的なアルファの行動で、笑えます」
「村田先輩!」
「はいはい。私は医師で村田と申します。さて、乃花高嶺くん、きみの状態を私はできる限り調べました。今、きみの状態は落ち着いているけど、それがいつ悪化するかわからないんです。それはわかりますか?」
そう言われても、ピンと来ない。状態と言われたが、月に一回のヒートが少し早く来ただけで、いつも通り聖母園に帰っていれば防げたはずだった。
「……あの、迷惑をかけてすみ」
「違いますよ。これは迷惑なんかじゃありません。苦しむ患者を助けるのは、医師の使命です」
「え?」
最後まで言えなかったのは、村田と名乗った医師が優しく遮ったからだ。柔らかな笑顔で、オレの言葉を否定してきた。
「きみの体、かなり薬漬けにされています。こんな投薬は寿命を縮めることになるし、まるでオメガの体を使って何かの実験をしているようで医師としては見過ごせない。……きみ、まだ若いですよね、初めてヒートが来たのはいつ?」
「……えっと、高校入学前、でした」
「その時のヒートはどれくらい続きましたか? その次のヒートまでの期間はどうでしたか?」
「えっと、三日くらいで終わって、その次は翌月に来ました」
それからずっと月に一回のヒートに苦しめられている。月に一回訪れるヒートは、自分にとって当たり前だと思っていた。
「その時診断した医師は誰ですか?」
「えっと、園でお世話になってる先生だとしか」
そう言えばどこの病院かもわからない。オメガはあまり外に出るのは望ましくないと、聖母園に直接出向いてくれた医師の診察を受けていた。
「……怪しいですね」
「え?」
「きみの名前は乃花高嶺くん、で間違いないですよね?」
「はい……」
ヒートの熱に侵されている時に怜に名乗っただけなのに、どうしてこの医師が知っているのか不思議に思う。けれどすぐにその理由がわかった。
「きみの同行者……、確か田中朝日くんだったっけ? 彼が色々教えてくれたんです」
「佐藤です」
日本中にありふれた名前という共通点があるが、全く似てない名前を告げられなんだかどっと力が抜けた。
「そうだった。佐藤朝日くんだったね。彼がきみのことを色々教えてくれたんですよ」
「朝日が?」
「ええ、倒れたきみがここに運ばれた後、必死になってきみを守ろうと西園寺に噛み付いていたのはおもし……とても、真摯だったよ」
今、面白いって言ったかこの医者。でも朝日に迷惑をかけてしまったことで、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。せっかくカフェに誘ってくれたのに、ろくに飲むことも出来なかった。
「きみを勝手に連れていくなとか、僕の父は佐藤建設の社長だぞ、高嶺に何かしたら絶対に許さないとか脅してきたの、おもし⋯⋯アルファ相手にオメガにしては勇気ある行動だなあと思いました」
「朝日……」
朝日が某有名企業の坊ちゃんなのは知っていたが、その名前を使うのをものすごく嫌がっていたことも知っているので、それだけ朝日は焦っていたのだろう。本当に申し訳ない。
「ところで佐藤建設って、あの佐藤建設?」
「……さあ?」
どの佐藤建設を言ってるのかわからないので、オレはとぼけておく。朝日の秘密はひとつも言わないぞ。
「ふむ。まあいいでしょう。で、きみの体なんですけど、このままだと命に関わります」
「は?」
「近頃、目眩とか吐き気、頭痛なんか頻発してませんか?」
それはしていたので小さく頷く。
「今行っている点滴を十日は続けて様子を見ましょう」
「十日?」
「ええ、体の中の⋯⋯そう、毒素を流さないといけませんからね」
「毒素?」
「ええ、高嶺くんと今飲んでる薬は相性が悪いみたいです。ですから、もう飲まない方が良いです」
「そうなんですか?」
「ええ、血液検査の数値に出てますからね。あ、すみません。運ばれてきた時に血液検査したんですよ。覚えてますか?」
「いえ、全然……」
オレが覚えているのは、一度目が覚めて怜と話した時と、その後はぼんやりしている。
「そうですか。では、今の点滴が終わったら帰っても大丈夫ですけど。毎日来られます?」
「連れてくる」
オレがなにか答える前に、怜が即答していた。
「いや、オレ毎日なんて来れないよ!?」
「どうしてだ、お前の体の為だ」
「……そんなこと言われても、聖母園で診て貰ってるし。外の病院には掛からないようにって言われてるし」
「……ビンゴじゃないかなあ、これ」
「え?」
「なんでもないよ。で、西園寺、どうする?」
「毎日連れてくる」
「ん、よろしく。それじゃあ、まだ点滴残ってるから、もう少し休んでてね。終わる頃にまた来るから、……今からエッチなことしちゃダメだよ?」
「誰がするか!」
からかわれているのは明らかなのに、怜は全力で否定していた。ほんの少しだけ、胸が締め付けられるような痛みが走る。ぎゅっと胸もとを掴むと、それに気づいた怜がその手を優しく握ってきた。
「具合が悪いのか?」
「ち、違う……っ」
「胸を押えていただろう?」
「そ、それは……その、具合が悪いとかじゃなくて……ちょっと休みたい」
そう言ったら怜は無言でオレの肩を抱き、体をベッドに優しく横たえさせてくれた。温かな腕に包まれ、心が溶けていくようだ。
「え? あの……」
「目を閉じろ」
「え、でも……」
「眠っていい。何も心配はいらない」
目を閉じさせる為なのか、怜の手がそっとオレの目を覆った。優しくて、良い匂いのするその手に、初めて味わう深い安心感が広がる。
本当は起きて聖母園に帰らなきゃならないのに、もう意識を保っているのが難しい。まぶたが重く、心地よい眠気が体を包む。
「眠っていい……俺が、いるから」
意識がちゃんと起きていたら、お前がいるからなんだっていうんだと怒ったと思う。でも今は眠くて仕方ないし、その声があまりにも優しくて、素直に頷いてしまった。
「うん……」
そう呟いてから、意識が静かに、穏やかに沈んでいった。まるで優しい夢の中に落ちていくような、温かな闇だった。
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