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第7話

07.偽りの番と、溺愛生活 07.偽りの番と、溺愛生活  キッチンから戻ってきた三田は、トレイにホットタオルを乗せてきた。怜はそれを受け取って両手で広げる。目の前で湯気がふわりと広がって、思わず何度も瞬きを繰り返す。 「それど……」  どうするのか聞こうとした時、温かいタオルが首に巻かれた。 「!」 「少し肌が荒れてる」  すぐにタオルは外され、肌を優しく拭かれる。 「じ、自分で……っ」  オレは幼い子どもじゃない。怪我の手当だって、食事だって一人で出来る。けれど怜はそのどれもやらせたくないのか、手を出してくる。  そしてそれが嫌じゃないのが問題だった。 「じっとしてろ」  言葉は全然優しくないのに、その手つきと眼差しが優しくて、動けなくなる。 「……肌に優しい素材を探せば良かったな」  オメガだと確認されてから数年付けていたので、擦れた跡が残っているのか、怜の方が痛そうな顔をしていた。 「項が守れるなら、別に何でもいいけど……」  ネックガードなんてどれもおなじだと言えば、今度は怜が眉間に皺を寄せな。 「気に入るものがなければ、また買いに行く」 「え? いや、もうこんなに買ってんのに!?」 「お前が気に入る物がなければ、いくつあっても仕方ないだろ」  そう言って怜はまた袋を開けて、次々に中身をテーブルに置く。その中に柔らかそうな黒革のネックガードがあった。肌にあたる部分に刺激の少なさそうなシンプルなものだ。開閉部分に滑らかな銀色の素材には槌目と呼ばれるデコボコした模様が見えた。  他のものよりシンプルに見えたので、オレは急いで指さした。 「これ、良いと思う」  一番シンプルだし、高そうにも見えなかった。 「これか? ああ、これなら柔らかいな」  怜はオレが差したネックガードを手に取ると、そっと首に巻いてくれた。両手を取られて、ネックガードの両端を握らされる。 「ここに指を置いて、そうだ。これは指紋認証のネックガードだから外す時も同じようにここに指を置いて外すんだ」  冷たい金属の感触が、指に伝わる。これからは自分自身でネックガードを開閉することになる。 「……怜、お願いがあるんだけど」 「なんだ」  オレは思い切って、願いを怜に伝えた。 「まあ、とても良くお似合いですよ」  カウンターの向こうにキッチンがあるダイニングのテーブルに座ったオレに、三田は優しく言いおいてから、深皿に入ったシチューを目の前に置いてくれた。 「ありがとうございます。あ、良い匂い……」 「食欲が出てきたのでしたらようございました。消化に良いもので作っておりますので、沢山お召し上がりください。お首は苦しくないですか? お風呂の後、お薬を首の傷に塗りましょうね」  ネックガードが外れた時、三田も見ていたので、首に擦れた跡がついていたのを知っている。親切心で言ってくれているのはわかるが、あまり他人に触れられたくなくて言葉を濁す。 「え、いや、オレ……」 「薬は俺が塗るから、三田さんはもう帰宅しても大丈夫だよ。洗い物も食洗機に入れておくし」 「そうでございますか。では、わたくしはこれで失礼いたします。明日の朝食は冷蔵庫にサンドウィッチとスープを作っておりますので、お召し上がりください」 「うん、お疲れ様。土日はゆっくりしてください」 「はい、ありがとうございます」  三田は礼をしてキッチンを片ずけると帰っていった。静かなダイニングでスプーンを持ち上げて、シチューを一口頬張る。 「美味しい」  肉とキノコと野菜が柔らかく煮込まれていて、凄く食べやすかった。目の前のカゴには小さめのロールパンがあり、一つ手にとって口に入れる。ふんわり柔らかくてこれも美味しい。  もう一口、シチューを口にしてもぐもぐと咀嚼する。ふと、視線を感じて目を上げると怜がじっとこちらを見ていた。 「あ、……なに? 食べ方変だった?」  一応聖母園では箸の持ち方やテーブルマナーも教えられる。アルファに出会って引き取られる確率が高いから、礼儀作法は徹底されていた。 「いや、このパンも食べろ。シチューも食べろ」 「へ!? いや、それはあんたのシチューだろうが! パンだってまた残ってるから、おい! オレの皿に勝手に入れんな!」 「食べないと大きくなれないぞ」 「こんなに食えないよ! 残すなんて勿体ないだろ! 怜が食えよ!」 「……わかった」  残念そうに言った後、怜はシチューを食べ始める。また「あーん」が始まるのかと思って身構えたが、自分の口に入れたのでなんだか少し残念な気持ちが湧いてきた。 「……そんなことない!」 「何がだ?」 「な、なんでもない!」  自分の感情を持て余して思わず叫んでしまった。こんなの変人と同じだ。 「シチュー、美味しいって、こと……です」 「そうか。もっと食べろ」 「た、食べてる!」  あーんをされる前に、自分でスプーンを動かしてシチューを口にする。  美味しくていつもより沢山食べてしまったが、すぐにお腹がいっぱいになる。 「無理に全部食べることはない」 「……うん。でも」 「残したものは俺が食べる」 「ありがと」  残したシチューを渡せば、あっという間に無くなって、今度は食べ終わった食器を二人で食洗機に入れていった。 「これで洗うのか」 「ああ、簡単だろう」  汚れた食器を入れてスイッチを押すだけなんて、簡単だと思ったので頷いておく。 「明日から、オレがやるよ」 「何を?」 「だから、洗い物」 「それは家政婦の三田さんの仕事だ」 「今いないじゃん」 「早く帰って貰いたくて引き受けただけで、本来なら三田さんの仕事なんだ」 「オレにだって、出来ると思うけど!」 「お前の仕事は、健康になることだ。……今はな」  健康、と口の中で呟いてから、自身の体を眺めて見る。どこもかしこも細くて骨張っていて、健康的とは言えない。朝日みたいにほっそりしているけれど、つくべきところに肉がついているようなオメガが怜の好みなのだろうか。 「ガリガリで悪かったな」  こんな体、抱いてもちっとも楽しくなかっただろう。いつも乱暴にするアルファに言われた言葉だった。 「なんの話だ?」 「だから、オレのヒートに付き合うなんて、……だったろう」 「今なんて言ったんだ?」 「だから、オレのヒートに付き合うの、嫌だったろうって言ったんだよ!」  はっきり言って怒鳴ってやれば、怜は思いもしなかった言葉を聞いたように呆気に取られていた。 「別に嫌じゃない」 「嘘つくなよ! 後、慰めなんていらねーから!」  誰だって性格が悪くて、体はガリガリで、ろくに感じることも出来ないオメガなんて嫌に決まってる。 「慰めなんて言わない。何度も言っているが、俺はお前に嘘はつかない」  見下ろされるなんて大嫌いなのに、すぐそばにいる怜を見上げた。切れ長の瞳が細められ、長いまつ毛が頬に影を落としているのが見えた。真摯な眼差しに、怜は偽りなんか言っていないことも、なんだかわかった気がした。 「これからお前の体調が落ち着くまでは、番として接する」 「は?」  ツガイトシテセッスル、ってなんだ? オレの項はまだ誰も噛んでいない。 「あ、園長先生に運命の番って嘘ついたから?」  昼間、ここに連れて来られる前に、そう園長に怜が宣言していたことを思い出す。 「そ、うだ……。お前がいた聖母園はどこか不穏な気配がする」 「そうなんだ。でも、なんで怜がそれを調べているんだ? 警察官なのか?」 「とある企業の総務部に席を置いている。今日来た佐々木さんと同じだ」 「企業の総務部? 総務部ってそんなこと調べたりするんだな」 「……ああ」  社会人って大変だな、オレも後一年半後には社会人になる予定だが、自分に仕事なんて出来るのか不安になる。 「なあ、怜の会社ってオメガいる?」 「いるぞ」 「いるのっ!?」 「ああ、法令上の義務もあって、毎年採用している」 「そうなんだ。オレも働けるかな?」 「……お前が?」 「うん! 高校卒業後は就職希望なんだ」 「……大学か専門学校には行かないのか?」  問われたことを考えなかったわけじゃない。でも、現状では難しい。 「難しいな。今の高校だって行くの反対されていたんだ。でも、絶対行きたくて色々調べて奨学生制度を利用して行ってるから、大学までとなるとかなりの借金になる。聖母園じゃ、中学卒業したらアルファに買われるのが普通だからな」 「……アルファに買われる? どんな風にだ」 「えっと、アルファが聖母園に来て、相性の良いオメガを選んで、連れて行くんだけど。……もしかして、なんか変か?」  オレも違和感はあった。学校に通う間だけだが、聖母園の外に出るとオメガだからと差別されることはあまりない。けれど聖母園を訪れるアルファ達や園長や職員達は、オメガをどこか物扱いしているように感じていた。 「オメガに選ぶ権利はないのか?」 「オメガに?」  そんなものがあるとは知らなかった。いつだって選択の権利は園長やアルファ達にあるもので、オメガに選択肢はない。 「俺はお前が大学に行きたいというなら行かせるし、専門的な知識が欲しいなら専門学校も良い。働きたいなら職場を斡旋する。だが、今はそんなことは考えずゆっくり体を健康にすることを考えろ」 「う、うん。わかった。あ……ありがと」 「いや……」  キッチンの食洗機の前でずっと話していたことに気づいたのか、怜は「風呂に入れ」とぶっきらぼうに伝えてくる。  廊下に出て浴室のドアを開けると、ホテルみたいな綺麗な洗面所があった。 「あ、オレ着替えないんだけど、怜の貸してくれる?」 「お、俺の服は大きいから、新しいものを買ってきた。後でここに置いておくから、先に入れ。タオルはそこの棚だ」 「ありがと!」  昨日から風呂に入っていなかったので、素直に嬉しい。でもなんとか聖母園に戻って二、三着しかないが着替えを持って来ないとな、と考える。  怜が出て行ったので、オレは服を脱いで浴室に入った。  風呂から出るとタオルと着替えが用意されていた。アルファのくせに、怜は甲斐甲斐しくオレの世話をする。拾った子猫だと本当に思われているのかもしれない。 (違うか。聖母園のこと調べたいって言ってたし、オレになんかさせたいんだろうな)  着替えを用意してくれたことをありがたく思いながら、手に取り身につけると汚れたシャツの袖を洗いはじめる。  その時、ノックの音が聞こえてきた。 ドアの外から怜の声がする。 「入ってもいいか?」  水を止めて手を拭くと、開いたドアから顔を覗かせた怜に返事をする。 「いいよ。もう服着てるし」 「湯冷めする」  そう言って怜は、手に持っていたカーディガンを肩にかけてくれた。柔らかくて温かく、肩からその温もりが体中に広がっていくようだった。 「あ、ありがと……あの、洗濯していいか? 制服のシャツが汚れてるから、月曜までに綺麗にしたいんだ」 「洗濯機の横のカゴに入れておけば良い。三田さんが洗濯してくれる。汚れの落ちないものはクリーニング似出す」 「三田さんって土日も来んの?」 「……来ないな。俺が洗っておく。それより湯冷めするから早く部屋に戻れ。首の手当をするぞ」  洗面所で洗っていたシャツをそのままに、オレは怜に促されるように二階の宛てがわれた部屋に連れて行かれた。  手早く首の手当をされると、もうやることがないな、と思う。だから、つい怜にとってはどうでも良いことを話しかけてしまった。 「着替え、ありがと。凄く着心地良いな、これ」  柔らかくて肌に心地よいパジャマは、部屋着専門店のものだ。肩にかけられたカーディガンもふわりと軽くて温かかった。 「そうか。他の着替えはこっちのクローゼットに入れてあるから、後で確認しておけ。なにか足りないものがあれば俺か三田さんに伝えたらすぐに用意する。明日、制服の替えも届く」 「は?」 「疲れただろう。少しベッドに横になれ」 「いや、全然、ふぁ……疲れてなんて、ない」  いきなり欠伸が出て、疲れてないと言った言葉が虚しく響いた。怜もそれがわかったのか、口元を緩めて手を伸ばしてきた。そっと前髪に触れ、そのまま目元にある泣きぼくろに指を滑らされた。 「少しだけ目を閉じてみろ。眠くなければ、本でも読んでやろうか?」 「まだ眠くねーし!」  言われた通りにするのがなんだか悔しくて、自分に触れている怜の手を跳ね除ける。 「一人で平気だ!」  ベッドから立ち上がり、肩にかけていたカーディガンに袖を通した。立ち上がった途端、くらりと目眩がする。そのままベッドに倒れ込み、天井を見上げることになった。 「あれ?」 「ほら、足を上げろ」  怜はオレの足をベッドの上に乗せると、布団の中に入れた。首まで毛布を被せられ、上からじっと見つめられた。それからなにかを思案するように眉間に皺を寄せ、口を開いた。 「さっきは……、その、勝手に触れてすまない。俺がお前に許可なく触れようとしたら、殴っていい」 「は?」 「俺は、……いや、なんでもない。後で飲み物を持ってくる」 「……怜、嫌じゃなかったよ」 「え?」  これだけは言わなきゃと、オレは視線を逸らしてベッドの中でそう呟く。 「嫌じゃなかったって、言ったんだ!」  怒鳴ってすぐに布団を頭まで被った。顔なんて見せられるはずもない。きっと真っ赤になっている。  怜に触れられるのは嫌じゃない。それは本当だけど、怜の顔を見て言えるほど図太くもない。 (でも、嫌じゃないことは、伝えたい……)  怜に触れられて不快だから手を弾いたと誤解されたくなかった。それがどうしてなのか、まだ考えたくなくてそこで思考をストップする。 「わかった。ありがとう」  布団の上から手を乗せられた。それが離れていき、ドアが開いて閉じる音が聞こえた後、オレは布団から顔を出す。  サイドテーブルの上に置かれた読書用ランプが淡い光で部屋を包んでいた。腕を布団の上に出して、天井を見上げる。  昨日から怒涛の勢いで全てが変わってしまった。 「偽りの番か……」  番なんて夢見たこともなかった。いつかどこかのアルファに捕まって、奴隷みたいな自由のない扱いを死ぬまで受けると思っていた。 「番……」  僕は運命を待ってるんです!  不意に朝日の言葉を思い出す。自分の心無い言葉も一緒にだ。 「……寝言は寝て言えってな。オレなんかに運命の番なんて、現れるわけない」  ズキンと胸が痛む。けれど、きっと言われた朝日はもっと痛かったはずだ。 「ごめんな、朝日……」  きっと朝日には運命の人が現れる。自分には来ない幸せでも、朝日にはその幸せを手に入れて欲しかった。  ぎゅっと胸を押えて痛みを紛らわせる。 「オレにも……」  運命がいたら良かったのにな、という言葉は出すことすら出来ず、胸の中で消えていった。  静かにドアが開き、怜が部屋に入ってくる。その手にはペットボトルが握られていた。そっとベッドに近づいた怜は眠っている高嶺の顔を覗き込む。穏やかな寝息を立てて眠っている姿に、ホッとしたように表情を緩めた。  額の髪を避けようと指を伸ばしたが、途中でそれを止める。起こすかもしれないし、意識のない今勝手に触れることは出来なかった。  サイドテーブルにそっとペットボトルを置くと、部屋を出る。その眠りを守る為に。 ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎  真っ暗な暗闇の中、いくつもの手が自分に伸びてくる。それに捕まれば心と体を蹂躙されるのがわかっていても、オレには触るなと動くことも嫌だと声に出して叫ぶことも出来ない。ただ震えてその手が、自分を捕まえるのを見ているしかない。  俺はお前を傷つけない。そう言ってくれたアルファがいた。許可を得ず触れた事を謝るようなアルファだった。  心地よい香りと、優しい声音、動作もこちらを気遣うもので、初めて安心という言葉を知った。 「い、や……」  自分に触れるのはあいつ以外は嫌だ。伸びてくる手から逃れるがいくつもある手がまた自分を捕まえようとする。めちゃくちゃに暴れてその手から離れる。 「嫌、だっ!」  誰か助けて、と心の中で叫ぶ。誰か、誰か、と必死で逃げて、ひとつの名前が浮かんでくる。 「れ、い……怜っ!」  ぎゅっと体を抱きしめられた。 「高嶺、大丈夫だ。ここにいる」  その声で目が開いた。ふわりと香る匂いを吸い込んで、ホッとした。今までのことは夢で、自分に触れるのは怜だけだった。 「怜……」 「なんだ?」 「抱きしめてて……」 「……わかった」  ゴソゴソと怜の体がベッドの中に入ってきた。体を捻って怜の方を向く。その胸に顔を埋めて、大きく呼吸した。胸いっぱいに大好きな香りが広がって幸せな気分も広がっていく。 「良い匂い……」  呟いた後また眠くなってしまった。体を包み込むような腕も心地よい眠りに誘っているようだ。 「……おやすみ」 「!……ああ、おやすみ」  目の下の泣きぼくろにキスされたような気がする。擽ったくて、嬉しくて、幸せで、大嫌いだったそのホクロだって愛おしく思えた。  目を閉じていても唇が微笑むのがわかった。胸の奥が温かくて、心底安心できる場所だと心が感じていた。  すうっと眠りの底に沈みこむ。  あれは夢だった。もう怖い夢は見ない気がした。  あれ? と思う。体が動かないし、なんだかとっても温かい。良い匂いがして、その幸せな感覚にまた目を閉じようとしたオレは、体を包む柔らかいシーツが、自室として使っている聖母園の擦り切れたシーツと違うことに一気に覚醒する。 「……っ!」  目の前に美麗な寝顔を確認し、オレは悲鳴を上げそうになる。でも口に手を当ててそれを我慢した。 (れ、い……?)  落ち着いて見れば、目を閉じて眠っているのは怜だった。そおっと顔を上げて、顔を覗き込む。長い睫毛に縁取られた瞳は閉じられていても、その秀麗さは隠れていない。顔の輪郭や、眉毛、鼻、唇の形も完璧だった。 「綺麗な、顔……」  これぞアルファといわんばかりの、整った造作をしている。  気がついたらその頬に指先で触れていた。 「起きたのか?」 「!」  怜に声を掛けられて自分が何をしたのか理解する。怜の顔からパッと手を離して、これからどうしようかと不安になった。 「ふ、不埒な真似はしてない!」 「は?」  素早く起き上がった怜は、オレから体を離して何もしてないという意思表示の為か手を上げた。 「お前が抱きしめてくれと言ったからそうしたのであって、俺の意思じゃない!」 「はあ!? オレがそんなこと言うはずないだろ! 嘘つき!」 「なっ!? 本当にお前が昨日そう言って……もう良い! 朝飯用意するから、着替えてこい!」  怜はベッドから飛び降りると、クローゼットの方を指さしてから部屋を出ていった。 「オレが、抱きしめてくれって言ったって? そんなの……」  ふと、昨晩の幸せな夢を思い出す。暗闇の中で沢山の手に捕まえられそうになり、必死になって助けを求めた。その時、怜の名前を呼んだ気がした。 「もしかして、あれ……夢じゃなかった?」  ベッドの上に起き上がって、周囲を眺める。昨日自分の部屋だと言われた場所だった。起き上がっても目眩はしなかったので、言われた通り着替えようとクローゼットの前まで歩く。  扉を開いて呆然とする。そこには様々な服がこれでもか! というように下げられていた。  怜の服かな? と思いつつ、タンスを開けるとそこにもぎっしりと服が詰め込まれている。  どれも新品みたいで、取り出してみればオレのサイズにぴったりだった。  怜とは身長がかなり違うから、もしかしてこれは全部オレの着替えなのだろうか。昨日外出から戻ってきた怜が三田に車の中の買ってきた荷物を整理するように言っていた。  それがこの服の山だったらどうしよう。 「高嶺、……まだ着替えてないのか」  ノックの音がして振り返れば、ドアを開けて怜が部屋に入ってくる。それからオレが手の取っていた服を取り上げて少し思案した後、他の引き出しを開けてパンツを取り出す。 「このシャツならこっちのパンツが合う。これだけじゃ寒いから、このカーディガンを着ていろ」  怜が選んだ服を渡してくるから勢いで受け取ってしまった。 「あのさ、怜……このクローゼットの服だけど、もしかして全部オレの服?」 「そうだ」  違うと言って欲しかった。クローゼットの中はそれほど狭くない。その中にぎっしりと服が詰まっていた。 「一応、すぐに着られる物を揃えたが、これからもっと寒くなっていくから、その都度揃えよう。欲しいものや必要なものがあれば言ってくれ」 「いや、こんなに必要とは思えねぇけど!?」 「なぜ?」 「なぜって……、聖母園に置いてる服を取りに行こうと思ってたし」 「いや、必要ない。しばらくは……、俺が良いと言うまで、聖母園には近づくな」 「なんで、……あ、そうか。調べるって言ってたもんな。でもそれならオレが聖母園に行ったほうが話は早いんじゃないか?」 「……お前が今やるべきことは、体を治すことだ」  その言葉はオレをピシャリと締め出したようで、胸が痛くなる。 「……」  手に持ったままだった服が皺になるくらい握りしめてしまった。それに気づいた怜が、その服を取ってベッドに放り投げる。 「いいな?」  返事をしないことに苛立ったような再度の問いかけに、オレは唇を噛み締めて答えない。 「おい、わかったな?」  乱暴に腕を掴まれて目を見開く。一瞬で血の気が引き頭の中が真っ白になり、体がびくんと震えるのを抑えることが出来なかった。 「っ! すまない」  それに気づいた怜は、さっと手を離してくれた。 「べ、別になんとも思ってない! 聖母園に荷物を取りに行くのは、諦めたから。もう、わかったから!」 「あ、ああ……高嶺」 「着替えたら下に行けばいいんだろ」  怜は何か言おうとしていたが、オレも目の前でピシャリと扉を閉めるように、怜から視線を逸らす。わかっている。医師でもある村田もオレの体はボロボロだと言っていた。でもオレは怜に無条件で何かを与えられる存在じゃない。  聖母園にいたオレなら何か役に立てることがあるなら、それをやりたかっただけだ。でも、怜には不要だと言われた。それがなぜかとても悲しかった。 「高嶺」 「なんだよっ! わかったって言っただろ」 「……無意識だったんだ」 「は?」 「無意識にお前の腕を掴んでいた。逃げてしまうかと思って」 「そうかよ」 「多分これからもお前に触れてしまうことがあると思う。だがその度に気がついて、謝る」 「そこは触れないようにする、じゃねーの?」 「触れないように、努力する」  まるで幼い子どもが叱られた時みたいに、落ち込んでいる怜を見てオレの胸から痛みが消えた。 「別に気にしなくていーよ! あんたはオレを心配して言ってくれたことくらいわかってる。触られるのも嫌じゃない。ただ驚いただけなんだ」 「すまない」 「いいって! なあ、聖母園のこと調べるんだろ? どうしてもオレが必要ならその時は使ってくれ。あそこにはまだオメガが沢山いるんだ。オレより年下の子がいっぱいいるんだ」 「……わかった。その時は相談する」 「うん、よろしく」  手を差し出せば、怜はその手をまじまじと見つめて、それからそおっと握りしめてくれた。  オレが不快に思っていないか、驚かせていないか、観察するみたいにじっと見つめて、オレが嫌がってないことを確認するとホッとしたように表情が緩む。  その表情がとても綺麗で見惚れてしまう。  こんなに優しいアルファなんて初めてだった。オレのことを一番に考えていると感じさせてくれた。 「あ、のさ」  そこまで言った時、腹の虫が盛大に鳴いた。腹が減ったと自覚したら、ますます鳴き始める。 「朝食にしよう」 「うん。着替えてから下に行く」 「ああ、待ってる」  怜はオレを助けてくれると言っていた。態度で言葉でそれを証明してくれる。ベッドに放り投げられた服を手に取った後、なんだかおかしくなる。 「ふふ……」  笑えるのを嬉しく感じる。急いで着替えて朝ごはんを食べようと思う。  靴下まで履いてスリッパに足を突っ込むと、オレは意気揚々と階下に降りていく。  昨日入ったダイニングに顔を出せば、怜が両手でスープカップを持ってテーブルに並べていた。 「あ、手伝わなくてごめん」 「温めるだけだ。手間じゃない。座ってろ」  テーブルには二人分のカトラリーが並べられていた。なんだか新婚夫婦みたいだなと考えて、急いでその考えを振り払う。  言われた通りに席に座れば、目の前に湯気をあげるカップを置かれた。サラダとオムレツもあり、テーブルの真ん中には昨日三田が言っていたサンドウィッチが置かれている。  具沢山のスープから、ふわりと香るコンソメの匂いが美味しそうだ。  前に座った怜が、じっと見つめている。カップを両手で抱えて一口飲む。 「……美味しい」 「オムレツはオレが作ったんだ。食ってみろ」 「え? 怜が!?」  真っ白な皿には、こんもりとしたオムレツが乗せられていた。スープを置いてフォークに持ちかえる。  一口食べた後、その美味さに一瞬動きが止まる。ジャガイモやチーズ、ベーコンが入っていて、上にケチャップがかけられた食べ応えのある卵料理だった。 「美味い!」 「そうか。朝のうちに研究所に行って、点滴を打つぞ」 「え?」  美味しくてもう一口とフォークに乗せたオムレツを食べようとしたオレは、その言葉に動きを止める。ずるりとフォークからオムレツが落ちて、皿の縁を汚した。 「落ちたぞ」 「朝のうちって、今日土曜日だけど」 「先輩が研究所で待っていてくれる」 「……わかった」  村田がわざわざ休日に処置してくれるというなら、素直に点滴を受けに行くしかない。 「でもさ、オレ今なんともないんだけど」  いきなりヒートが始まって、怜がその熱を収めてくれてからいつもより体調が良いくらいだ。 「昨日の朝の点滴がまだ効いているだけだ」 「……」  本当は行きたくないと言いたいけれど、怜がオレの為に言ってくれていることもわかっているし、わがままを言えるような立場でもない。それでも納得出来ない顔をしていたのか、怜が提案してくる。 「わかった。点滴が終わったら、どこか遊びに連れて行ってやる。欲しいものを買いに行っても良いぞ」 「……海でも?」  この邸宅に来る途中に見た海を間近で見たかった。出来れば砂浜に降りて、直に足の裏で砂の感触とやらを感じてみたい。 「良いが、もう少し厚着をしてからだ。あと、海に入るのは無しだ」 「えーっ! 何でだよ!」 「風邪をひく。もう少し暖かい季節なら良いが」 「砂浜には降りても良い?」 「……それくらいなら。ただし、せめて半分は朝食を食べてからだ」  そう言って怜は落としたオムレツをフォークに乗せて口元に運んだ。オレは口を開けてそれを食べると、次のオムレツをフォークに乗せようとしている怜から皿を持って遠ざけた。 「自分で食える」  そう言ってやれば、怜はハッとしたようにフォークを取り落としそうになった。 「な、俺は、あーんなんて、しようとしてないっ」 「したじゃん」  指摘してやれば面白いくらい動揺していた。 「別にいいけど、それってアルファの癖みたいなもん?」  今まで適切な相手として会っていたアルファと、一緒に食事なんてした事がない。だからオレはアルファのことがよく分からない。 「癖……いや、オメガなら誰でも良いという訳ではなく……」 「あー、オレが偽物の運命の番ってことにするんだったよな。なら良いよ。普段から練習してないとボロが出るかもしれないもんな」  噂でしか聞いた事のないアルファからの給餌行為なんて、自分にはきっと二度とないことだ。もし誰かの番になったとしても、それは自分の意志などないものだろうから。  聖母園でアルファに見初められ番として出ていく時も、オメガ達に笑顔なんてなかった。 「偽物なんかじゃ……」 「え? なに?」  怜の言葉が途中で止まった為、どうしたのか聞いてもはぐらかされた。その代わり、怜は席を立ってオレの隣の椅子を動かしてすぐそばに座った。 「なんでもない。それならほら、あーんだ」  差し出されたオムレツを口に入れる。柔らかくて美味しくて、飲み込んだ後にも幸せな気分が残る。近頃食事は動き続けるために必死で口に入れるものだった。  一口大のサンドウィッチを口元に運ばれ、口を開ける。すぐそばに座り、じっと見つめてくる怜の視線を受けながら食べるのは結構恥ずかしい。でもこれは偽りの番を本物らしく見せる為の練習みたいなものだ。  いつか、なんて儚い夢は見ないけれど、一度くらいアルファに溺愛されているオメガというものをやっても良いだろうと考える。 「あーん。……もぐっ。……これ、美味いな」 「そうか。食べられるだけ、食え」 「うん。あ、次はスープが良い。あーん」 「あ、ああ……スープだな」  今だけのこととはいえ、甲斐甲斐しく世話をされるのは、なんだか楽しく思えてくる。怜の方を向いて口を開けているだけで、美味しいものが食べられるのだから簡単なことだ。少しばかり羞恥心がチクチクするが、今は他に誰も見ていないのだから放置する。オレが食べるのがゆっくりだからか、怜は自分の食事も進めている。  スープもオムレツも半分ほど食べたら、もうお腹いっぱいになってしまった。それでも食後の苺だけは、三つ食べれた。 「ご馳走様でした。片付けはオレがやるよ」 「一緒にやった方が早い」 「そう?」  立ち上がってあっという間にテーブルの上を片付けて、食洗機のスイッチを押す。次は洗濯だなと思って昨日使った浴室に歩いていけば、ちょうど洗濯が終わったのかお知らせ音が響いた。 「え?」 「乾燥まで終わっている。アイロンは後で良いだろう」  制服のズボンとシャツはハンガーにかけられて、浴室乾燥にされていたのでそれほどシワは目立たない。 「怜が洗ったの?」 「他に誰がいる。普段は三田さんがやってくれるが、俺は一人暮らししたこともあるし、一通り家事も出来る」 「アルファって、家事なんてしないんじゃないの?」 「……うちでは、必須技能だ」 「必須、技能……?」 「ああ、まあ、それは良い。上着を取ってこい。研究所に行くぞ」 「……わかった」  少しでも時間をかけたかったが、もうやることがない。早く行って早く済めば海に行けるのだから、それを目標に頑張ろう。二階に上がって、クローゼットを開けてコートを眺める。濃いめのグレーの薄手のコートなら、今の季節でも大丈夫だろうと手に取った。軽くて肌触りが良く、着ると暖かく感じた。部屋を出て、階下に降りると階段を降りたところに怜が待っていた。カジュアルなジャケットを羽織っていて、きっちりしすぎない休日の装いだ。  あんなの別にかっこいいなんて思ってない。アルファなんだから容姿が整っているのは普通のことだ。でも、ならなんでこんなに視線を逸らすことが出来ないのだろう。 「それにしたのか」 「え? ……あ、うん。他のが良かった?」 「いや、似合ってる」  そう言って怜は歪んでいた襟を綺麗にしてくれた。 「昨日、渡すのを忘れていた」  差し出されたのは手のひら大の大きさの、長四角の板……スマートフォンだった。 「なんで?」 「持ってないんだろう? 不便だから買ってきた。使い方がわからならければ、後で教える」  そう言いながら促されて、車庫に連れて行かれた。昨日と同じように助手席に乗せられ、シートベルトを締められる。  でもオレはシートベルトより手の中のスマートフォンに意識を持っていかれてた。 「パスワードは261005だ」  車はスムーズに走り始めていたが、オレの意識は全くそっちに向いてない。言われるままにパスワードを打ち込み、ホーム画面が出る。 「先に俺の連絡先は入れて置いた」 「え? えーっと、あ、この連絡先だな!」  アイコンに触れて開くと、二つだけ名前が入っていた。怜と、高嶺だ。 「オレの名前もある」 「ああ、そこに入れておけば、わざわざ探さなくても良いだろう。ある程度必要なものは入っている」 「うん。ありがとう」  無料通話のアプリも入っていて、嬉しくなって覚えていた朝日のIDを入力してみる。検索するとひとりだけヒットして、思わず画面を撫でてしまった。  朝日はオレがスマートフォンを持っていないことに驚いていたが、それでも就職したら自分で買うと言った時、すぐに連絡取れるようにと電話番号とSNSのIDを教えてくれていた。  それを覚えていたので、オレはその番号も登録する。 「あの、後でで良いんだけど、朝日に連絡しても良いか? 心配させたし」 「ああ、今で良いぞ。使い方はわかるか?」 「うん、大丈夫!」  ドキドキしながら無料通話のアプリで登録した、朝日のアイコンを押して通話を始める。じっと画面を見つめていると、『はい?』という朝日の不安げな声が聞こえてきた。 「朝日! オレ!」 『え? もしかして高嶺!?』 「うん。怜がスマホ買ってくれたんだ。だから、朝日が心配してると思って、電話した」 『高嶺、元気なの!? いまどこにいるの!?』 「えっと、その、元気だ。なんて言ったら良いのか今は、……おい、なにすんだ!」 『高嶺!?』  オレから奪ったスマートフォンを耳に当て、怜は朝日に言い捨てる。 「高嶺は無事だ。体調についても俺が責任を持つ」 『高嶺に代わって!』 「……」  その声は大きくてオレにも聞こえていた。けれど無情にも通話を切られる。 「あ! 朝日! おい怜、なんで切るんだよ!」 「……あ」  ハッとしたように手の中のスマートフォンを見て、怜はそれをオレに返してくれた。でも、朝日との通話は切れている。 「せっかく朝日と話せたのに……」  夕暮れのカフェで倒れてから、連絡出来ずにいたから朝日はきっと凄く心配してくれたと思う。それなのにいきなり電話を切るなんて、もっと不安になってしまっただろう。 「すまない、つい……無意識で……」 「無意識でオレの電話を切るのかよ!」 「すまない……出来れば俺のいない時に掛けてくれ」  なんでいない時? と思っていると、朝日の名前がスマートフォンの画面に現れた。咄嗟に電話に出ると朝日の『高嶺!』という必死な声が聞こえてきた。 「朝日、ごめん。切っちゃって……! でも、オレ大丈夫だから」 『全然大丈夫じゃないよ! さっきの誰!? もしかしてカフェで会った西田怜って人!?』 「うん、そう。なんか様子おかしくて……いや、大丈夫! あ、ヒートのこと治してくれるって人のところ行くから、また掛けるな! 本当に心配しなくて大丈夫だから、月曜に学校で! じゃあな!」  通話を切ると、スマートフォンの画面の上に怜の手のひらが乗ってきた。ぎゅっと拳を握りしめ、そこから手を避けた。 「もしかして我慢させてた?」  怜は電話が嫌いなのかもしれない。怜の前で朝日に電話するのはやめよう。 「……いや」  あ、これ絶対電話が嫌いなんだと、確信する。 「ごめん、次からは怜のいないところで電話するから」 「俺のいないところで?」  運転しながらだったので一瞬だけこちらを見た怜の眼差しは、アルファみたいに冷たくて背中に冷や汗が落ちる。 「えっと……その、電話嫌いなんだろ?」 「……、いや、すまない。いつでも高嶺の好きな時に電話はしていい。俺の番号も入れているから、何かあれば……何もなくても電話して良い」 「えっと、もしかして我慢してる?」  すぐに前を向いた怜から、アルファ特有の冷たさが消えた。まるで自分で気がついてそれを消し去ったみたいだ。 「してない。俺が理不尽な事をしたり言ったりすれば、お前は怒って良い。殴ったって許される」 「は? 殴る?」 「ああ、それだけのことを、俺はしそうになってる……」 「いや、怜は電話が嫌いなだけだろ? オレが気をつければ良いだけであって、殴るとかそんな……」 「……俺がお前に理不尽な真似をしたら、殴ってでもやめさせて欲しい。俺は決してお前を傷つけないと誓った。その誓いは守る。傷つけるなんて嫌だ。守りたい。だが、俺はアルファなんだ……」  前を向いたまま苦悩するみたいに呟く怜に、オレが言えるのは一つだけだ。 「えっと、……わかった! 怜が血迷ったことしたら、ぶん殴って止める! 絶対オレが止めてやる!」  ふん! と鼻息荒く宣言すれば、怜は一瞬こちらを見てから、爆笑した。 「ふ、はは、……あはははは――っ!」 「な、なんだよ、ふ、ふふ、あはは、あはははっ!」  なんだかおかしくなって、オレも大きく口を開けて笑ってしまった。  笑いが治まると、怜は小さく「ありがとう」と言ってくれる。だからオレはこう返すのだ。 「どういたしまして」  車内の空気が優しく俺を包んでくれた。

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