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第8話

08.優しい日々と、番の心得 08.優しい日々と、番の心得  研究所について駐車場に車が止まると、見慣れぬタクシーが一台、急ブレーキを踏んで飛び込んでくる。何事だ? と身構えていると、オレの前に怜の体が割り込んできた。その姿はまるで自分の体を盾にして、オレを守ろうとするようで、純粋に驚いてしまう。 「れ、怜?」 「大丈夫だ、高嶺」  タクシーの後部座席のドアが開き、そこから飛び出してきたのは朝日だった。いつもの柔らかな笑顔はなく、決意に満ちた表情を浮かべている。 「高嶺、助けに来たよ!」 「朝日っ!?」  朝日の手は何かを握っていた。  バチッ! と音が響き、火花が飛んだ。 「ちょ、朝日!?」 「高嶺、こっちに来て! 大丈夫、僕が絶対に守るからね!」 「朝日……」  本当物凄く怖いはずなのに、朝日は護身用のスタンガンを片手に握りしめ、震えながらも怜に対峙していた。 「ぼ、僕は本気だぞ! 高嶺を離せ!」 「朝日っ!」  あまりにも嬉しくてオレは怜の後ろから飛び出して、朝日を強く抱きしめた。 「わあっ! 高嶺、危ないから、これびりっとするから!」 「びりっとしても良いよ、朝日ありがと! オレ、朝日に会えて良かった! それだけで高校に進学した甲斐があった! でも、怜は悪い奴じゃないんだ。オレを助けてくれるって言ってた。朝日と同じだ」  ぎゅっと抱きしめたまま昂ぶった感情を吐露する。 「高嶺! ……って、こいつ……じゃない、この人悪者じゃないの?」 「……悪者?」  朝日のとんでもない行動と言動に、怜はついていけなかったみたいだ。朝日がオレにとって脅威ではないとわかっているからか、オレが離れても朝日になにかしようとはしなかった。 「でも、電話を……」 「あれは怜が運転してる時にオレが電話をかけたから気が散った所為だよ。ごめんな。でも、スマホがあるからこれからはいつだって連絡が取れるし。あ、このスマホ、怜が買ってくれたんだ」 「アルファがオメガにスマホを? 失礼ですが、このスマホにはGPSなんて付けてませんよね?」  朝日はオレの向こう側にいた怜に話しかけた。怜は慌てて首を横に振る。 「なっ、そんなもの、スマホには付けてない!」 「そう、良かった。あ、高嶺、スマホ貸して」  抱きついていた朝日が手を差し出したので、オレはポケットからスマホを取り出し渡した。 「暗証番号は?」 「261005だ」 「なんの数字なの?」 「え? えーっと、怜が入れてくれたパスワードだから……」 「パスワード、変えても良いですよね、西田さん?」 「……ああ」  朝日はすいすいとスマートフォンを操作して、パスワードを変え、オレの顔に向けた。 「高嶺の顔認証にしたから。それから、パスワードは……」  朝日はパスワードをこっそり耳打ちしてくれた。 「覚えててね。でも絶対誰にも教えちゃダメ。約束してくれる?」 「もちろん。あ、でも怜には言っても良いか?」 「その人が一番ダメなんじゃん! アルファは番に対しては狭量で排他的で聞く耳持たない奴が多いんだよ!」 「……そーなんだな。でも、大丈夫だ。オレは偽りの番だから」 「はあ――っ!? ちょっと、高嶺を日陰者にするつもり!? 絶対許さないぞ! 高嶺、僕にはアルファの兄が二人いるんだ。弟の僕がいうものなんだけど、父親と違って顔よし性格よし人格者で優しいしオメガを大事にするタイプのアルファだから、この人止めてどっちかにしない? 僕の義兄になろうよ、ね!」  朝日は怜に対して人差し指を突き出し宣言すると、オレに向き直って可愛くおねだりし始めた。 「……何言ってんだよ。朝日のお兄さんにだって選ぶ権利はあるんだから。それに偽りの番って言っても、ちょっと色々あって、あー、聖母園を出たオレを、その、引き取って? くれたんだ」 「なんで疑問形なの!?」 「えっと、その……」  流石に聖母園が怪しくて、怜がそれを調べているとは言えない。隠すわけではないが、朝日に本当のことを言うのは、それが解決した後だ。 「だから、怜は良い奴なんだ!」 「……高嶺の番は俺だけだ」  朝日にそう言うと、怜に腕を掴まれ引き離される。 「怜!?」 「誰にも渡さない」  あ、これ言ってた練習の成果を朝日に見せてるのか。しまった。偽りの番のこと、朝日に言っちゃったぞ。そうだ、誤魔化そう! 「怜、……番ごっこだな? 任せとけ!」  怜に抱きついて小さな声で伝え、今度は朝日に顔を向ける。 「えーっと、朝日、さっきの、その……偽りの番っていうのは冗談で、まだ番ってねーけど、オレの番の怜だよ、よろしくな」  頼むから誤魔化されてくれー、と心の中で祈れば、神様に通じたようだ。朝日はにこっと女神みたいな微笑みを浮かべ、怜に向かって挨拶した。 「昨日モゴ挨拶シマシタガ、佐藤朝日デス。ヨロシクオ願イオネガイシマス。高嶺ハ僕ノ大切ナ友達ナンデス。大切ニシテクダサイ、ネ!」  いつもの天真爛漫な朝日とは全く雰囲気が違うから、不思議に思ってなんだ? と首を傾げる。 「西田怜だ。よろしく」  怜が名乗った後、妙な違和感があったがそれよりも、朝日と怜の笑顔がなんだか怖い感じがするが、二人ともにこやかに微笑んでいた。朝日のいつもの可愛くて愛想の良い笑顔を見て、オレには出来ない芸当だなと思う。  アルファはみんな朝日みたいな生まれが良くて、可愛くて優しいオメガを好きになるんだろう。きっと怜も同じだ。  そう考えただけで、胸が嫌な音を出した。  朝日に微笑む怜の目を、無意識に隠していた。 「高嶺?」  朝日に名前を呼ばれてハッとする。これは嫉妬なんかじゃない。違う。これは、自分でも良くわからない行動だが、きっとそんなものじゃない。 「オレ、月曜日にはちゃんと学校行くから、安心してくれ」 「え? 本当?」 「……先輩の診察の後にどうするか決まるから、約束は出来ない」 「え、そうなの? 毎日点滴打てば良いんじゃなかったんだ」 「お前の体は今ボロボロだと言っただろう」 「言われたけど……」  それでも今までと全然違うくらい体調が良かったので、学校には通えると思っていた。 「私としてはせめて、この一週間は体を休めて欲しいですね」  第三者の声がして、オレはパッと振り返る。そこには研究所の村田が立っていた。 「先輩、すみません。遅くなりましたよね」 「別に良いですよ。飲み物を買いに出ていたのでね」 「あ、あの、高嶺は大丈夫なんですか!」 「きみは……、ああ、田中くん」 「佐藤です」 「ああ、佐藤くんですね。乃花くんの症状はかなり悪いです。でも大丈夫ですよ。西園寺がいますからね」 「西園寺って誰ですか?」  朝日がずいっと前に出て、強張った顔で村田に問いかける。 「ああ。西田のことですよ」 「……今は、母方の苗字を使ってるんだ」  先ほどの妙な違和感はこれだったんだと思いつく。研究所の村田は「西園寺」と呼び、怜は「西田」と名乗っていた。 「そうなんですね。名刺では西田となっていたから、誰かと思いました」 「大学まではそう名乗っていたから、先輩はそう呼ぶんだ」 「そうなんですね」  三人はにこやかに会話しているはずなのに、なんだか背中が寒くなってくる。 「西園寺、外は寒い。中に入った方が良いな」  オレが震えたのがわかったのか、村田に言われた怜に促されて研究所の建物の方に向かう。 「あ、朝日! 来てくれてありがと。オレは大丈夫だから。また連絡するから!」 「うん! 僕も会えた良かった。何かあったら絶対連絡してね!」  そう言って朝日は待たせていたタクシーに乗り込んで、帰っていく。可憐な見た目に反して騒がしくて大っぴらで、でも優しくて可愛い朝日は、オレが描く理想のオメガそのものだ。 「……怜も、どうせ番の真似するなら、朝日みたいなやつが良かっただろ」  口をついて出たのはそんな捻くれた言葉で、自分自身驚いてしまう。村田は先を歩いていて、その後ろをオレと怜が続いているので先ほどの言葉は村田には届いていないと思う。 「あ、その⋯⋯朝日、可愛いだろ! あんなに可愛くて優しいからものすごくモテるんだ。でも、朝日は運命を待ってるんですって言って、アルファの告白を全部断ってる変わったやつなんだ」  慌てて言い訳じみたことを言っても、怜のオレを見る目は変わらない。それにホッとしてしまう。 「高嶺は、どうなんだ?」 「オレ?」  オレのなにが、「どう」なのかわからずに自分を指さすと、怜も言葉足らずだと思ったのか再度口を開く。 「高嶺も、告白されるだろう」 「は? オレなんて見向きもされねーよ。こんな地味な見た目だし、養護施設育ちだってバレてるし」 「見る目のない奴らばっかりだな」 「そんなことねーだろ。……でも、運命を待ってるなんて言った朝日に、オレひでーこと言った。だから、学校のアルファたちは見る目あると思う」 「なんて言ったんだ?」  その時ちょうど研究所の清潔な廊下の突き当たりに到着し、昨日飛び出した部屋のドアが開かれた。自分の言った言葉を怜に知られたくなくて、オレはこれ幸いと中途半端なところで会話を終わらせる。  簡素なベッドと点滴台が置かれた部屋は、カーテンもベッドシーツも全てが白くて、なんだか目が痛くなる。 「上着を脱いだら右腕の袖をめくって、そこに寝てくれる?」 「……起きてちゃダメですか?」 「ん? 結構時間掛かっちゃうから、体を横にしておいたほうが楽だよ」  無防備な姿でいたくなかったが、医者の指示には逆らえない。 「わかりました」  コートを脱いでベッドの端に置き、右腕の袖を上げてから靴を脱いでベッドに横になる。 「点滴の前に採血するね。はい、ちくっとするよー」  村田は準備をすると、手早く採血を終わらせ、今度は点滴となる。 「昨日、乱暴に針を抜いたんだね。しばらくアザが残るよこれ」  腕に残っている傷跡と、青紫になった場所を見て村田は眉をひそめた。 「もう痛くないし、大丈夫です。……あの、助けてくれたのに、逃げてすみませんでした」  オレは親切にしてくれた人を裏切った。部屋で点滴をしていた病人が、急にいなくなったら相手がどう思うかなんて考えず、ここを飛び出してしまった。この人も怜もオレのことなんて放置しても良かったのに、そうはせず最後まで面倒をみようとしていた。そんなアルファは……いやそんな人間には初めて出会った。 「いいよ。西園寺が連絡くれてたからね。昨日はヒート、なかった?」 「はい。何もなかったです」 「それなら良かった。でもしばらく点滴は続けよう。抑制剤も処方したいけど、とりあえずきみの体調が落ち着くまでは無理だね」 「抑制剤が効かない体質って言われてたんですが」 「どんなヤブ医者にかかってたの?」 「ヤブ医者って……、あの、この研究所に勤めてるって言ってたんですけど、小田って名前のかかりつけの先生です」 「小田浩?」 「下の名前は分かりませんが、小田と名乗ってました」 「俺の方でも調べた。聖母園の掛かりつけ医として契約されている」  怜が言った言葉に、村田は少し考え込んでいたが、「わかった」とだけ答えて、乱れていたシーツを整えるために手を伸ばしてきた。 「先輩」  その手を怜が止める。 「おっと、すまない。一時間はかかるから、その間お前はここを離れるなよ」 「わかってます」 「乃花くん、点滴はしばらくかかるから、少しでも休んでいた方が良い。目を閉じて……」 「先輩!」 「患者に伝える定型文なんだが」 「俺がいるので結構です」 「わかった。終わったら呼んでくれ」  何か企んでいるようなそんな笑みを残して、村田は部屋から出ていく。怜は二人きりになった処置室で、横たわっているオレの前に来ると乱れたシーツを綺麗にしてくれた。右腕だけはそのシーツの上に出し、天井を見上げていると退屈だなと思う。昨日たくさん眠ったからか、今は全く眠くない。 「怜も座れば?」  部屋には丸いすが一つあって、折りたたんで壁に立てかけられていた。それを持ってきた怜は開いて枕元に陣取る。  今日はカーテンが開いているので部屋の中は明るい。怜をじっと見つめていると視線が絡み合った。ゆっくりと手が伸びて来たのを見て、オレは反応するなと自分自身に言い聞かせる。これは怜の手だ。怖い手じゃない。 「……すまない」  途中で気がついたのか、怜はその手を引っ込めようとした。だからオレはその手を左腕を伸ばして引き止める。 「別に触って良い。怜なんて、……怜は怖くない」 「無理は……」 「してない! ほら!」  掴んだ手首を引っ張って、頭の上に乗せてみる。特に何もない。でもふんわりと良い匂いがしたようが気がした。そっと手を離すと、怜は乱れた髪を梳かすように、髪に指を通した。 「な、平気だろ!」 「無理はして欲しくないと言っただろう」 「無理なんてしてない! 怜の手は気持ち良い、し……」  そこまで口にして、しまった! と思う。 「あ、あの……」 「そうか、俺の手は気持ち良いか」  普段あまり表情の変わらない怜の微笑みは、強烈だ。嬉しそうに満足そうに微笑むその姿は、まさにアルファだった。 「べ、別に! 怜、暇だからスマホ取って!」  今のうちにスマートフォンの使い方をマスターしておきたいし、無料通話のアプリにはメッセージのやり取りも出来るはずだった。それなら怜が嫌いな電話をしなくても、朝日と連絡が取れる。  怜は椅子から立ち上がり、ベッドの端に丸めていたコートのポケットからスマートフォンを取り出して渡してくれた。片手は点滴の針が入っているのでやりにくく、オレは起き上がってヘッドボードに背を預けた。怜がいそいそと枕を背中にあててくれる。  スマートフォンの画面を開いてパスワードを入れようとするが顔認証になったことを思い出す。ホーム画面には色んなアイコンがあって、一つずつ調べていく。そんなオレに、怜が声をかけた。 「俺にも電話してくれ」 「は?」 「佐藤朝日には電話して、俺にはしてない」 「だって怜は一緒にいるんだし、電話する意味ない……」  と言った途端、怜の機嫌が悪くなったのを感じた。だからオレは連絡先に入っている怜の名前を押して電話した。 「もしもし、怜?」  ジャケットのポケットに入れていたスマートフォンを取り出した後、怜は嬉しそうに返事を返す。 「ああ、高嶺。なんだ?」 「アンタが電話しろって言ったんだろ!」 「声が聞きたかったんだ。高嶺の元気な声がな」 「うぐっ……」  そんなことを言われて文句なんて出るはずがない。 「聞かせてくれないのか?」 「元気だよ! 今朝のぶどうが美味しかった! また食べたい! どうだ、わがまま言ってやったぞ!」 「……可愛いおねだりだな」 「さっきのは、わがままだっつーの!」 「ああ、わがままだな」  全くそう思っていない事がありありとわかる言い方をして、怜はまた微笑む。 「もう、良い!」  唇を尖らせれば怜はますます笑みを深めた。 「点滴が終わるまで、……なんでもない! 怜は忙しいだろ。用があるなら、オレ一人でも平気だけど」  ここにいて欲しいなんて、それこそわがままだ。 「ここにいることより、大事なことはない」  その言葉に嘘なんて見つからなかった。そしてバカみたいに嬉しいなんて気持ちになるとは思わなかった。でもオレはそれを素直に怜に伝えることなんて出来ない捻くれ者で、返事は「ふん」っというもので済ませてしまう。 「終わるまでまだしばらく時間が掛かる。起きているより横になっていた方が良いだろう。寝れないなら子守唄を歌ってやろうか?」 「いらねーよ!」  でも実際点滴の間起きているのは辛い。元気になったと思っていたが、車に乗ってここまで来ただけでもう疲れていた。背中の枕を外して戻し、そこに頭を乗せる。 「……起きた時いなかったら、また逃げ出すからな」 「二度と一人にしない」  どうして怜はオレが欲しい言葉を、欲しい時に言ってくれるのだろう。どうしたら、オレは怜に素直にありがとうと言えるのだろう。  どうすることも出来ずに、オレは逃げるように瞼を閉じた。何か言うことも、怜を見つめることも出来なかったからだ。  嬉しかったのに、口を開けば憎まれ口ばかりのオレなんて、誰も好きになってくれるはずがない。朝日は例外だ。あいつは底抜けに優しくて可愛くて、超がつくお人好しだ。  でも怜は違う。優しいけれど、アルファだ。  オメガのオレを守るなんて約束する、変わったアルファだった。そんな事を考えながら、いつしかオレは眠りに落ちていた。  ふと、目を開けると真っ白い天井が見えた。 「目が覚めたか? 点滴は終わってる。起きれるか?」  柔らかい声が掛けられ、オレはそちらに視線を向けた。  整った顔立ち、少し垂れた瞳は柔和な雰囲気を持ち、分けられた前髪は少しウェーブしている。一目でアルファとわかる気配をしていて、誰もそれを間違うことはない。 「れー、やくそく、まもってくれた……」 「!、……ああ、お前が目覚めるまでちゃんと待ってた。これからも、お前に嘘はつかない」 「うん、わかってる。れーは、うそ、つかない」  思考が上手く回らず、オレは舌っ足らずな言葉で、怜と会話する。そばにいてくれる怜の存在に、嬉しくてはしゃいでしまいそうだ。 「れー……ありがと」 「なんの礼だ?」 「……ぜんぶ」  見つけてくれて、手を差し伸べてくれて、守ってくれて、全てのことにぼんやりした思考の中感謝する。 「高嶺……」  枕の横に手をついた怜の顔が徐々に近づいてくる。でも避けようとか、嫌だとか全然思わなかった。嬉しくて唇を笑みの形にしたまま、瞼を閉じようとして、待ったを掛ける。 「ちょ、怜っ!?」 「はっ……!」  咄嗟に両手で伶の顔を押さえて事なきを得た。今キスするところだった!  ヒートになってもそれだけは死守していたはずだ。  あれ? でも、怜とヒートを過ごした時、どうしていた? 甘えた声でもっとキスしたいとねだらなかったか? 「わあっ!」 「高嶺っ!?」  顔が熱い。思い出してしまった事実に、顔から火が出そうだ。  怜のことが欲しくて欲しくて堪らなかった。キスは心地よくて幸せで、いくらでもしていたかった。  そんなこと、今気づきたくなかったのに。 「ちょ、ちょっと待って。今オレ、ダメだから!」  恥ずかしくて顔を見せられないし、怜の顔を見れない。でも怜はぐいっと顎を掴んで視線を合わせてきた。 「体調が悪くなったのか!?」  怜の必死な眼差しと声は、オレの体調を心配していた。 「ち、がう……」  でも、ヒートの時を思い出して恥ずかしいなんて言えるはずもない。 「待ってろ、いま先輩を」  呼んで欲しくなくて、急いで怜の首に腕をかけて引き寄せる。 「違うって言ってる! は、恥ずかしいんだよ、わかれよ!」 「恥ずかしい?」  何がだ? と全然わかってない怜に腹が立つ。 「だから、キスしそうだなって勘違いしただけだ!」  気がついた時にはそう叫んでいた。 「ちがっ……! キスなんて全然たいしたことないし、したいなんて思わないし、期待なんてしてな……っんん」  慌てて言い訳すれば言葉は途中で止まってしまう。なぜなら、怜の唇がオレの唇を塞いでいたからだ。  目を見開いていたから間違いない。目の前に怜の美麗な顔がドアップで見えていた。  すぐに唇は離れたが、呆然としていたオレは言葉を発することが出来なかった。 「キスがしたかったなら、そう言えば良い」 「……っ! 違……っ」  違うと否定したいのに、怜がキスしてくるから言葉にならない。 「んんっ……! ぁ、ん」  へんな声出た――っ! と焦っても、怜の表情は幸せそうで今の声を喜んでいるように見えた。 「れー……?」 「ん? もっと?」  ぼんやりしたまま言葉の代わりに頷けば、唇が触れた。その時、ドアがノックされ開く音が耳に届く。 「おっと、失礼。……ですが、ここは処置室ですので緊急時以外にこの部屋の趣旨とは違うことは行わないようにお願いしたはずです。あ、いや、ここは先輩として、後輩の幸せを祝福する場面ですか? すみません、こんなことは不慣れでして。では、続きをどうぞ」 「!」  村田が一歩部屋に入ってきたが、ドアノブを握ったまま早口でそう言うと再度ドアを閉めようとした。 「誤解です! こ、これは、高嶺がして欲しいと言うから仕方なく……」 「はぁ――っ!? いつオレがそんなこと言ったよ! 怜の方こそ、キスしたそうにオレのこと見てただろ!」  聞き捨てならないとばかりに起き上がったオレは、怜に怒鳴り散らす。 「見てない」 「見てた!」 「見てな……何笑ってんですか先輩」  オレと怒鳴りあっていたはずの怜は、ドアの近くで面白そうにこちらを観察していた村田に気づいて不機嫌な声をかける。 「いや、運命の番のやり取りは面白いなと思いまして。どうぞ、続けて?」 「オレと怜は運命なんかじゃないですよ。オレなんかに、そんなものは現れない」  面白そうに冗談を言う村田に、オレは何を言ってるんだ? と現実を突きつける。運命の番なんて滅多に出会うことのない、幸運なアルファとオメガのことだ。オレにそんな幸運な出来事が起きるはずがない。 「無自覚、いやこれは薬害ですかね。体も心もここまで……、よくもまあ傷つけることが出来たものだ。こんな真似をした者を世の中が許して良いわけがないです。そう思いませんか、西園寺」 「……思います。高嶺、俺と運命の番のフリをすると話していただろう?」 「あ! そうだった。ごめん、忘れてた」 「今は先輩の前だから良いけど、これからはきちんと自覚しておいてくれ」 「わかった、次からはちゃんとやる!」 「ああ、よろしくな。起きても大丈夫そうならそろそろ帰るか」 「だ、大丈夫だ!」  ベッドから足を下ろして、靴を履く。立ち上がると怜がコートを着せてくれた。そんな風に世話をされたことがなかったので、なんと言っていいのかわからず目を見開いて怜を見つめた。 「髪がくしゃくしゃだ」  真っ黒で真っ直ぐな髪なので、怜が手ぐしで優しく撫でるだけで乱れた髪が整う。 「サラサラだな」 「……どうも」  上から下まで怜が用意したものを着ているから、なんだか恥ずかしくなる。 「アルファの独占欲についての論文、読んだことありますか? そりゃあもうありとあらゆる行動が記載されてて、その中でも自分のオメガの肌に直接触れるものを選ぶ執着は凄いものでしたよ。今の西園寺ですけど」 「先輩!」 「? どれも着心地良いよ。怜が自分のオメガを見つけた時はきっと上手くいくと思う」  ツキンツキンと胸が痛むのは、そんな幸運が自分には訪れないとわかっていることと、怜に自分のオメガと思われる存在がオレじゃないことへの失望だろう。  初めて優しくしてくれたアルファだから、そんな風に思うのだ。でもちゃんとわかっている。怜の目的が果たされた時、オレは怜のそばにはいられない。  今ここにいられるのは、怜が許してくれていることと、聖母園を調べる為だ。 「西園寺、生きてますか?」 「……先輩が追い打ちをかけなければ、もっとマシでした」 「怜?」  二人の会話の意味がわからず、怜の名前を呼んでみるが、その説明はなく別のことで誤魔化される。でも、それでも良かった。 「気に入ってくれて良かった。だがまだ足りないものがあるから、今度一緒に買い物に行こう」  さあ、帰ろうと手を差し出されて、無意識にその手を取る。 「明日もありますからね。それから、異変があれば連絡をください」 「はい。ありがとうございます」  ヒートが起こったとしても、それを恐れずに過ごせることは初めてだった。もし何かあったとしても、怜がそばにいてくれる。  怜が、そばに、いて、くれる?  自分の傲慢な考えに頭の中が冷たくなった。いつの間にそんな考えを持つようになったのか。昨日まではちゃんと自分が最底辺のオメガだと自覚していたのに。 「高嶺?」  急に動かなくなったオレに気づいた怜が、顔を覗き込んできた。 「……なんでもない。帰ろう、怜」  今の気持ちを言葉になんて出来ない。怜に今の自分の感情を知られたくなかった。なのに、怜はじっとオレの顔を見つめてから、すっと腰を落とす。  え? と思う間もなく、膝裏に腕を回されて抱え上げられる。いわゆる「お姫様抱っこ」というスタイルだ。 「え? や、なに!?」  体の自由がなくなるし、抱え上げられて不安定で恐ろしくなる。ぎゅっと怜の胸の辺りの服を掴んで見上げれば、悪戯が成功したみたいな笑みを浮かべていた。 「怜っ!?」 「はは、理由を言う気になったか?」 「なに?」  理由ってなんだ? という表情を読んだのか、怜は続きを話しながら歩き出す。 「理由だ。泣きそうな顔をした理由が知りたい」 「泣きそうになんて……」  なってない、と答える前に、くるりと回られた。 「わあっ!」 「先輩、ドアを開けてください。このまま帰ります」 「派手ですね、西園寺。じゃあ、また明日」 「明日もよろしくお願いします、先輩」  部屋を出ると村田はドアの所で手を振っていた。怜に抱き上げられたまま廊下を進み、玄関のあるホールまで到着する。あそこを越えれば外になる。こんな姿を他の人に見られてしまうかもしれない。 「甘えた考えの自分が嫌になったんだ」 「え?」 「ヒートになっても、怜が助けてくれるって考えた自分が嫌に……、怖くなったんだ」  小さな声で視線を逸らしてそう告げれば、怜は丁寧に下ろしてくれた。 「ヒートじゃなくても、俺はお前を助けるが、どうしてそう思ったのか聞いても良いか?」 「……今怜がオレを助けてくれてるのは、聖母園がなんかやばいことやってるからそれを調べる為だろう? それは知ってるし、今だけだとしても凄くありがたいことだと思ってる。でも、オレは……ずるいから、それに甘えて……ずっと甘えられると考えてたことにさっき気づいたんだ」  そんなことないのに、いつか終わってしまう優しさなのに、そんなこと少しも考えてなかった。 「オレ、ちゃんと自分で生きていけるようになる! ヒートも普通のオメガみたいに三ヶ月に一回なら、働ける場所はあるんだろう? 朝日のお父さんがやってる会社にはオメガのヒート休暇があるんだって。それに福利厚生? ってやつが充実している会社なら働きやすいって。独り者オメガの為のデリバリーアルファなんていうヒート専門の仕事まで今はあるって聞いた。高校をちゃんと卒業出来たら、きちんとした働き口を探して、住む場所も探して、ヒートだって一人で過ごせるようになるから、だから、だから!」 「高嶺」  言葉が止まらず次々と出てくるオレを、怜はもう一度抱え上げた。今度は横抱きじゃなくて、オレの顔が怜の頭より上に来るように、縦に抱え上げられる。 「まず一つ、デリバリーアルファなんて使わせない」 「は? いや、使うとは言ってねーだろ。ただそういうヒートの過ごし方もあるってだけで……」 「そんなことをお前が考えるのも嫌だ」 「……ごめん。世話になってるのに。でも、オレもこれからのことを色々考えて」  せっかく助けたオメガが自暴自棄になっていると優しい怜は考えたのだろう。だから素直に謝る。 「これからの事はまだ考えなくていい。今は体を治すことだけに専念して欲しい。……お前の体は本当にボロボロなんだ……」  怜はオレを抱え上げたまま歩き出し、研究所を出て駐車場に向かっていく。  のっしのっしと歩く中で、怜はオレを見上げながら話し続ける。 「オメガは良質な抑制剤が開発されるまで、短命と言われていた。何故かわかるか?」  怜の質問の答えがわからなかったので、オレは首を横に振る。 「三ヶ月に一度、ヒートが起こるからだ。それから妊娠と出産。例えその機能が備わっているとしても、度重なる出産は体への負担が大きい。ましてオメガは不遇の時代が長かった。ヒートの度に望まない出産もついてまわっただろう。短命と思われていたのは、ヒートと出産の所為だったと、今でははっきりエビデンスがある。お前はそのヒートが他のオメガの三倍あった」  駐車場に停めた車の前に来ると、ドアを開けて助手席へ座らされる。しっかりとシートベルトまでつけられた。 「……お前の寿命はそれによって、かなり削られているというのが先輩……村田研究員の見解だ」 「寿命……」  確かに昔はもっとオメガは短命だったと聞いたことがあった。それがヒートと出産の所為とは知らなかったけれど、確かに納得がいく。 「オレ、死ぬの?」  助手席に座ったまま、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。そうだと言われても、取り乱したりはしない。あのまま生きていたとしても、夢や希望なんてほとんどなかった。ただ、あの狭い世界から飛び出したかった。だから、死ぬのも、怖くない。 「死なせない」  強い言葉で怜は宣言し、握りしめたオレの拳に手を重ねてきた。 「絶対死なせはしない。お前はこれから健康になって、やりたいことをたくさんして、美味しいものを食べて、笑って暮らすんだ。お前が嫌でも俺がそうさせる」 「でも、オレのヒートは毎月だった」  普通のオメガの三倍だ。ヒートが始まった高校に入学してからずっと続いている。 「一年半で普通なら六回のはずのヒートが、オレは十八回あった。……最近目眩や耳鳴りもしてた。毎月のヒートが嫌で堪らなかった。嫌な笑い方するアルファも大嫌いだった! こんな体、なくなっちゃえば良いって、何度も……っ!」  覆い被さるように怜の体がオレの体を覆った。でも怖くなかった。怜の良い匂いがして、目の奥がチクチクして、水の膜が覆っていた瞳から涙が落ちる。 「すまない」 「……なんで、れーが謝るの?」  鼻水まで出てきて、怜の胸に顔を埋めながらずびっと鼻をすする。 「遅くなってすまない」  穏やかで優しい声だった。出会うのが、助けるのが、全てが遅くてすまない。でも、これからは絶対に守ると誓うから、と怜は優しい声で囁く。 「……遅くないよ。来てくれて嬉しかった。あの時、カフェで怜と出会えて、オレ……」  もう言葉にはならなかった。瞼を閉じて嗚咽をもらす。 「怜……、オレ今だけ、だから。こんな甘えた奴、今だけ」 「ずっとで良い。ずっと俺だけに甘えてろ」 「……ばーか、いつか困るのお前だからな」 「お前が俺に一生甘えたくらい、全く困らない」 「ばーか……」  怜は本当に優しい。オレなんて負担にもならないと言っている。だからオレも今だけは甘えてしまおう。いつか、この胸の中から出ていかなければならないとしても、今だけはここにいても良いだろう。  怜が番を見つけた時、きっと離れるから今だけは許して欲しい。辛い思いをするかもしれない。初めからなかった方が良かったと考えるかもしれない。でも、今だけはこの優しい腕と言葉と胸に包まれていたい。

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