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第9話
09.初めての海と、初めての趣味
09.初めての海と、初めての趣味
泣いた顔を柔らかいハンカチで拭かれた後、車は海のそばの家に向かって出発した。なんだか泣いたのが恥ずかしくてずっと窓の外を見ていたはずなのに、気がついたら眠っていたようだった。
車の揺れが止まり、意識が浮上した。あっという間に怜の家の近くまで来ていた。
「……海」
「起きたのか、もうすぐ家につく。まだ寝てて……」
「海に行きたい! 点滴終わったら行っていいって言った!」
「だが、いまの季節は少し寒い……」
「厚着したら良いって言った!」
得意げにコートを見せれば、怜は思案するように口元に手を当てた。祈るような気持ちで見つめれば、ため息をついた怜は車のハンドルを切り、海沿いの駐車場に入ってくれた。
「短時間だ」
「うん、わかった!」
海に行けるならなんでも言うことを聞く。だって、映像以外で本物の海に行けるなんて、初めてだしこんなチャンスを逃したくない。
ドアを開けると、風が髪を乱していく。目を見開いてコンクリートで固めてある駐車場の柵から身を乗り出すようにして海を眺める。
「わあ――っ!」
板に乗って波間を渡っている人達がいる。確か、サーファーだ。ほとんど人のいない海辺を見て興奮してしまう。
「怜、早く下に行きたい!」
「向こうに海岸へ降りれる階段がある」
怜が指差した場所は、防波堤が途切れて砂浜に降りるためのコンクリートの階段があった。急ぎ足でそちらに向かう。
「待て、慌てるな!」
「早く、怜!」
海で頭がいっぱいになっているオレには、心配げな怜の態度に苛立ちを感じる。早く砂浜を歩きたくてうずうずした。
硬いコンクリートの階段は、風に飛ばされた砂が散っていてザラザラしていた。
階段を駆け下りる足取りが軽かった。砂が混じったコンクリートが靴底にざらつく感触すら、今は心地いい。風が頰を打つたび、潮の匂いが鼻腔をくすぐり、胸の奥が熱くなる。
最後の段を飛び降りた瞬間、急に視界が開けた。
そこは白い砂浜だった。
目の前に、どこまでも続く柔らかな砂と、寄せては返す波。空と海が溶け合う地平線。遠くでサーファーが波に乗る姿が小さく揺れ、波しぶきが陽光にきらめく。
「……本物だ」
声が震えた。映像で何度も見たはずの海なのに、目の前のそれはあまりにも鮮やかで、息を呑むほど美しかった。
もどかしげに靴と靴下を脱ぎ捨て、裸足で砂の上を走る。冷たい砂が指の間をすり抜け、足裏にざわざわと伝わる感触に、思わず笑みがこぼれた。
「怜! 見て! 本物の海だよ!」
振り返ると、怜は階段の上からこちらを見下ろしていた。コートの裾を風になびかせ、少し慌てたようにこちらに走ってくる。
「待て、高嶺!」
「あはは、海だ――っ!」
怜の制止の言葉なんて聞こえてなかった。脱ぎ散らかした靴を放置して、波打ち際に走る。ぱしゃん、と音をさせ波が寄せてきて、足首を冷たい水が包んだ。思わず「冷たい!」と声を上げると、怜が素早く腕を回して体を持ち上げた。
「海には入らないと言ったはずだ!」
「あー、うん……ごめん」
確かにそんな約束をした。でも海を間近に見て、そんな約束なんて忘れていた。
波が引いていくと、怜が靴のまま海に入っていることに気づく。
「怜、靴が……」
「……構わない」
「ごめん」
「洗って干せば済む話だ」
「でも」
その時、怜の足元に小さな貝殻が転がってきた。初めて本物の貝殻を見てそれを拾いたくなったオレは、怜の腕の中で暴れた。
「怜、今ピンク色の貝殻が見えた! 下ろして!」
「今日はもうダメだ」
砂に足を取られることもなく、怜は慣れた様子でオレを抱えたまま砂浜を歩く。途中、脱ぎ捨てたオレの靴だけは拾ってくれた。
薄ピンクの小さな貝殻を拾ってみたかった。確かに海には入らないと約束して破ってしまったオレが悪いが、小さな貝殻の一つくらい拾わせてくれても良いと思う。
「……海、初めてだったのか?」
「うん。映像じゃなくて、本当に海にいるの、夢じゃないかな?」
怜は黙ってオレを見つめていた。砂浜から駐車場に戻る階段を上がると、ドアを開けて助手席に押し込まれる。
濡れた足が冷たくて、ぶるりと体を震わせる。怜はハンカチで濡れた足を拭くと、靴を履かせてくれた。
「靴、汚れる」
海に入った時に付いたのか、足には砂がたくさんついていた。車の中にも砂が落ちる。
でも怜はそんなことを気にせず、風に乱れたオレの髪をそっと指で直してくれる。その仕草が優しくて、なぜか胸がぎゅっと締めつけられた。
「ありがとう、怜」
小声で呟くと、怜は少し驚いたように視線を海へ逸らした。
「……少しの間だけだ。今は体調も落ち着いてない。風邪ひいたら元も子もない」
「うん、わかってる」
シートベルトを締めるとドアが閉められ、怜は運転席に乗り込んでくる。車のエンジンを掛けられてすぐにここから離れるのかと残念に思っていたら、怜は暖房を入れただけで車は出発しなかった。車は海に正面を向けているので、ここからでも少しだけ海が見える。
もう少しだけ、ここにいたい。
さっき本物の海に入ったことを思い出す。オレは自分の足で砂浜を歩き、波打ち際まで行き波が寄せてきて、スボンの裾まで濡れた。海の水は冷たいけれど、生きているって感じがする。
オレは車の中でもう一度、広い海に向かって深く息を吸い込んだ。
潮の匂いと、風と、海の水の冷たさと、それから怜の温もり。
全部が、宝物みたいに胸に詰め込んでおきたかった。
「海、凄かった。また来たい」
「家から近いからそんなに気に入ったなら、また連れてきてやる。が、今度冷たい海水に足を入れたらしばらく連れてこないぞ」
「わかった! もう約束破らないから、また来たい! 今度は貝殻を拾いたい!」
懇願するように怜を見つめれば、言葉に詰まったような変な顔をした後、嘆息する。
「暖かくなったら、泳ぎも教えてやる」
「ほんと――っ!? 絶対! 約束!」
「ああ、お前に嘘はつかない」
怜は約束を守ってくれる。変なアルファだ。でも初めて海に入って興奮しているオレにはそんなことはどうでも良い。
「約束!」
「ああ、約束だ」
しばらく温かい車の中で海を見たあと、オレたちは家に帰った。
「すぐに風呂を沸かすから、入れ」
「あのさ、ちょっと冷たい海の水に足をつけたからって風邪なんて、……くしゅんっ」
「!」
すぐに風呂を沸かした怜に、温まるまで出てくるなと厳命された。ほかほかに温まって風呂を出れば、怜が作った少し遅めの昼食と、ホットミルクを出され、温かくしたベッドに押し込められたオレは風邪をひかずに済んだのだった。
翌日の日曜日も同じように点滴をして戻ってきた。海に行きたいと願ったが、昨日くしゃみをしただろうと許して貰えなかった。
「暇だ!」
疲れるからとなにもさせて貰えないし、することもない。二階の部屋のベッドに行儀悪く寝転がっていたが、起き上がって窓を開けた。
爽やかな秋の空がそこに広がっている。
こっそり海に行って、貝殻を拾って来ようかと、悪魔のような囁きが聞こえた。
「ダメダメ! 昨日、怜と約束したし!」
約束を破って海に足を入れた後の怜の行動を思えば、今度破ったら本当に海に行けなくなってしまうかもしれない。暖かくなったら泳ぎを教えてくれると言ったことも、ちゃんと覚えていた。
「我慢、するんだ」
切ない気持ちで空を見上げた怜は、嘆息すると視線を下に向ける。そこで庭に出て真剣に花を眺めている怜を見つけた。
「何してんだろ?」
なにか手伝えることがあるかもしれないと、オレは急いで部屋を出て一階に降り裏庭に繋がる部屋だと予想をつけて飛び込む。
ドアを開けた途端、光が溢れた。全面ガラス張りの部屋は、明るくて暖かかった。
「わあ……!」
でも部屋の中はほぼ家具は置いてなくて、物置のようにダンボールやその上になにかおもちゃみたいなものがあった。そっと近づき上から覗き込んでもよくわからない。
「なんだこれ?」
灰色のカップがいくつも入っていて、絵の具のようなものや何に使うかわからないものが無造作に紙袋に入れてあった。
「カップ?」
店で売ってるようなカップではなく、味気ないと思えるようなものだった。ふと紙袋の中を見れば、手書きの取り扱い説明書が入っていた。
「いっちん技法? へー、この無花果みたいなやつで、泥を絞って模様をつけるんだ。面白そう……」
オレは床に座り込んで、紙袋の中身を全部出す。その中には図案も入っていて、簡単なものから難しそうなものまでいくつか揃っていた。
「このカップに絵を描いていくってことか」
絵を描くことは授業の中でも好きな学科で、いつもわくわくしながらその時間を過ごしていた。作品を持ち帰っても、破棄されたりしたので手元には何もないが、それでも作った記憶は楽しいものだ。
柔らかい芯の鉛筆も入っていて、図案もあり、オレはなにも考えずに紙袋の乗っていたダンボールの上に図案の紙を置き、その図案をカップに写す。
ちいさな小花の図案は、とても可愛かった。小さな花びらや葉っぱも散らし、カップの上三分の一程度に模様を書き込む。
「こんなもんかな?」
片手にカップを持って目の上まで上げれば、部屋の中に注いでいた陽光を弾いてキラリと輝く。オレは嬉しくなって、次はどうするのか取り扱い説明書を覗き込む。絵を描く要領で先程図案を写した線の上に、スポイトみたいな物で絵を描くらしい。説明書通りにその泥を作っていく。
「えーっと、この土に水を混ぜて柔らかくして、こっちの入れ物に入れるんだな」
丁寧に水のペットボトルまで用意されていた。注ぎ口のあるボウルに泥を入れて水を入れてかき混ぜる。
「これくらい、かな?」
硬すぎても柔らかすぎてもダメみたいだけど、初めてだからわからない。やってみるか、とボウルの注ぎ口からペースト状の泥を絵を描く練り器に泥をそそぎ、絵を描く先端部分のついた蓋を閉めた。
「どれくらいの細さだ?」
確認するために、手の甲に先端を押しつけて手で持つ部分を押すと、中のペースト状の泥が押し出される。すい、すい、と動かしながら強弱をつけて押し出せば、太くなったり細くなったりした。
「なるほど」
左手にカップを持ち上げ、自分で描いた下絵にペースト状の泥でなぞっていく。小花や花びらや、葉、模様を丁寧になぞれば、のっぺりしていたカップが花畑に変わっていく。
「……っ、はー……」
一つ力を入れては描き、それから力を抜き、また息を吸いこんで描く。カップの上の三分の一の模様だったが、一回りするまで夢中になって描いていた。
オレが描いた花が、カップを彩っていた。ダンボールの上にそっと置いて眺めてみる。
「……高嶺――っ!」
その声にびっくりして、飛び上がってしまった。
「今の、怜?」
名前を叫ばれた後、二階の廊下を走り、階段を駆け下りているのか、家中に物凄い足音が響いていた。
高嶺っ、どこだっ、と叫んであちこちのドアを開けている音も聞こえてきた。
「れ、怜、オレここ……ぅうっ」
立ち上がろうとしても出来なかった。床に手をついた途端、ドアが乱暴に開けられた。
「高嶺! どうした、具合が悪いのか。今救急車を……」
「れい~~足が痺れたぁ……」
痺れすぎてもう動くことも出来ず、オレは泣き言を口にして怜に向かって腕を伸ばす。これは言い訳になるが、無意識だったんだ。
我に返って腕を引っ込めようとしたが、その前に脇に手を差し込まれて、そのまま上に持ち上げられる。
「へ!?」
力が入らず、体も足もだらんとぶら下がってしまった。怜はオレをそんな風に抱えたまま、廊下に出る。怜の顔が無表情になっていて、どうしたのかと思う。
「怜、さっきオレのこと呼んでたけど、何かあった?」
「……部屋に居なかったから驚いただけだ」
それから抱えあげられている状態で廊下を見て、気になることを聞いてみる。
「怜、廊下に花が落ちて散らばってるけど、何かあった?」
「……部屋に飾ろうと手に持ってたものだ」
「もしかしてオレを探している時に落とした?」
「後で拾う。気にしなくていい」
「でも、あうっ!」
床に転々と落ちている花達は、庭の花を切ったようだった。顔を向けてそれを見ていたら、足が揺れて痺れが全身に伝わり、呻いてしまう。
「おとなしくしてくれ」
「ううう……」
怜の力強い腕に抱え上げられ、そおっと運ばれたのはリビングだった。柔らかいソファーに座って床に足をつけた途端、ビリリと痺れた足に衝撃が走る。思わず怜の腕を握りしめてしまった。
「待って、まだ……」
動かさないでと言いたかったのに、怜はオレの体をそっと抱きしめてくれた。怜の温かく、大きな体に抱きしめられると、安心する。他のアルファが抱きしめようとする時は恐怖しか感じなかったのに。
ふわりと香る良い匂いに、すんと鼻を鳴らす。
「! すまないっ」
パッと怜の体が離れて、体が傾ぐ。その途端、足の痺れに体を貫かれる。
「わっ……ううう、痛い。痺れるってこんなに痛いんだ……」
「し、しばらくそこで大人しく座っていろ。お茶を持ってくる」
怜はオレに近づきもせずにそう言い放つと、リビングを出ていく。その後ろ姿を見送った後、なんだか寂しい気持ちになる。
パッと立ち上がるが、ジーン……と足の痺れが体の上まで上がってきて、足を動かすことは出来なかった。
余りの不快さに涙が浮かんでくる。長時間座り込んでいて、脚が痺れただけなのに、だ。
この家に来て二日、怜に甘やかされていたが、それがこんなに心を弱くしたのだろうか。
ぐっと奥歯を噛んで泣くのを止めると、キッチンから戻ってきた怜が立っているオレを見つけて目を見開く。
「俺は大人しく座っておけと言ったはずだぞ!」
「ごめん……」
ローテーブルに紅茶のカップを置いた怜は、立ったまま動けなくなっていたオレをまたソファーに座らせてくれた。
「うう……っ」
座る動作も辛くて、呻くような声が漏れた。
「こんなに手が冷たくなってる」
オレの手に怜が触れて、その冷たさに憤りを感じているようだった。
紅茶の入った温かいティーカップを持たされた。その手は白っぽい乾いた泥で汚れている。
「怜、オレの手汚れてる」
「後で足の痺れが取れたら洗えばいい。今は体を温める方が先だ」
「でも……あ、ズボンも汚れてる。あ、袖もっ!」
自分の体を見れば、あちこちに乾いた泥がついていた。
「後でいい。飲め」
両手で抱えていたティーカップをぐいと指で押されて、オレはそれを零さないように一口飲む。
「……あったかくて、美味しい」
甘くてちょっと酸っぱくて、フルーツの味がする飲み物だった。
「ハーブティーは気に入ったか?」
気に入った? そんな言葉じゃ足りない。
「うん、好きだな、これ」
「す……そ、そうか。また入れてやる。飲んでろ」
立った怜はそのままどこかへ行こうとするので、どこに行くのか引き止めるような声が出た。
「怜、どこに行くの?」
「散らかした花を拾ってくる」
「あ……そか」
庭の花を切って部屋に飾るつもりが、オレを探す過程で落としたと言っていた。怜のところに行こうとして自室を出てから、あの部屋にたどり着き、時間が経つのも忘れて熱中してしまったから、部屋にオレがいなくて驚いたんだろう。申し訳ないことをしてしまった。ハーブティーの入ったカップをテーブルに戻すと頭を下げる。
「ごめん、怜」
「何故、謝る?」
「オレ、怜が庭にいるのを見て、なにか手伝えないかと思って下に降りてきたんだ。そしたらあの部屋に紙袋が置いてあって中を見たら中途半端なカップがあって、取説見ながら……あ!」
「なんだ?」
「……勝手に袋の中身出して、使っちまった」
人様の物を勝手にいじってしまったことに、自分自身で衝撃を受けてしまう。
「本当にごめんなさい! 人のものを勝手に使うなんて、とんでもないことしました! お詫びになんでもいうこと聞くから!」
「なんでも……」
「怜、怒ってる? 怒ってるよな。家に置いてもらってるだけでも厚かましいのに、怜のものを勝手に……もがっ」
膝に視線を落として反省と謝罪を口にしていれば、口を押さえられた。
「もが……」
「あの部屋に大事なものはない。だからそんなに気にするな。だが、なんでもすると簡単に言うのはやめろ。できれば二度と言うな」
「もが……」
口を押さえられたままなので、返事ができないという意味で「もが……」と答えればそれに気づいた怜が気づいて物凄い勢いで手を離す。
「す、すまないっ!」
「んん、別にいいよ。それから確かにオレ、簡単になんでもするって言ったけど、それは怜ならその言葉を利用してオレの嫌がることをさせることはないってわかってるからだ」
「……信用して貰うのは嬉しいが」
「ちなみに、怜。オレになんでも願い事言えるとしたら、なんて言う?」
「なんでも……笑った顔をもっと見たい」
「え?」
それは怜本人も驚いた言葉だったみたいで、少し垂れ気味の瞳が見開かれている。
「その、今のは……」
「そんなのでいいのか?」
「そんなの、じゃない! お前が笑うと世界が輝く! キラキラしていつまでも見ていたい! 俺が作った変わり映えしない料理を一口食べて、それが美味いと思ったら一瞬だけ表情が緩むのを見逃さないようにするために、俺がどれだけ苦労しているか知っ……あ」
「……そんなの、好きな人に対する感情みたいだな!」
冗談で言ったんだ。それは本当だ。
「す……っ、違う! お前は……、お前は俺が助けたんだから最後まで責任を持つ」
怜のその言葉に、信じられないくらい打ちのめされた気分になる。でもそれを気づかれたくなくて、なんでもないことのように返事をした。
「責任なんて、そんなものいらないのに。……まあ、いいや。でさ、あれ本当に使っちゃって良かったのか?」
この話題が続くのが嫌で、慌てて違うことを聞いた。
「あれとは、紙袋に入れて放置していたものか?」
「うん。取説も入ってたから、その通りの図案を書いたんだ」
「そうか。楽しかったのか?」
「楽しかった! あれ、まだ他にも皿とか入ってたし、いらないなら全部使っていいか?」
「ああ、構わない。本当に楽しかったみたいだな。笑ってる」
「……楽しかったからだ!」
「そうか」
「怜だって、あんまり笑わないくせに、オレにばっかり笑えって言うの不公平だ!」
「不公平……」
「いーっつも、眉間にしわ寄せてオレのこと睨んでるじゃん」
指で眉間を押さえて皺を寄せると、唇を尖らせて不満を口にした。
「睨んでる……」
怜にそんなつもりはないのかもしれないが、睨まれると悲しい気持ちになる。
「睨んでは、いない。そんなつもりは、ない……いや、不愉快な思いをさせていたならすまない」
「ちがっ……不愉快とか、そうじゃなくて……そんなんじゃなくて、オレだって怜の笑った顔、沢山見たい」
昨日研究所に行く途中で、血迷ったことをしたら殴って正気に戻すと言った時、爆笑した怜に釣られて自分も笑ってしまった。
初めて海に行った時も、笑っていたように思う。オレがわがままを言うと、怜は笑っている確率が高いような気がした。
オレはもしかして、怜の笑った顔を結構見てる?
「ふ……、お前の願いがそれなら、叶えてやる」
柔らかく微笑んだ怜は、顔を近づけて瞳を覗き込んできた。
それからすぐに離れて、花を拾ってくると言ってリビングを出ていった。
なんだあれ、あんなに綺麗な微笑みを、簡単に見せないで欲しい。なんだか悔しいし、嬉しいし、感情が荒ぶっていてわけがわからなくなる。
だからローテーブルに置いたティーカップを手に取ると、一気に飲み干しカップをテーブルに戻す。少しぬるくになっていたから、舌をやけどせずに済んだ。
気合を入れてから立ち上がれば、足の痺れもそれほど気にならなくなっていた。
そっと一歩踏み出せば、なんとか歩けそうだった。
よし! と頷いて、怜を探し始める。リビングから廊下に出ると、怜は屈んで花を拾っていた。後ろ向きだったからまだオレには気づいていない。
「怜」
名前を呼べば怜は振り返り、どうした? と視線にこめて見つめてくれる。
「花、大丈夫だった?」
さっき見た時、廊下にバラバラに落ちていたので、それだけ怜が焦っていたのだろう。今は怜に拾われてその手の中にある。オレでも種類がわかる。薔薇だ。でも沢山枝分かれてして小さな花が咲いていた。怜が持っていると、キラキラと輝くようだ。
「大丈夫そうだ」
そう言って近づいてきた怜は、片手に花を束で持ち、もう片方に落ちたのか一輪だけ持っていた。
「落とした時に?」
「いや、これはここにいたいと言っていた」
ここ? と思っていると、怜の腕が伸びてきて、オレの耳のそばに触れた。
「なに?」
「似合う」
「なにがっ?」
「高嶺は花が似合う」
ぼっと火がつくように顔が赤くなったのがわかった。怜は多分、無自覚のタラシだ。簡単に花を飾って似合うなんて言って、和らいだ表情を見せるなんて。きっと大勢のオメガや女性を虜にしているに違いない。
「怜、そういうことは、好きな人に言うことであって、オレに言うことじゃないぞ! あ、そうか。これ、偽物番のためか! ごめん、すぐ忘れちゃって」
「……あ、ああ。もう足は、大丈夫なのか?」
「うん。もう平気。あ、手洗わなきゃ! 服も!」
服にはところどころ乾いた泥がついていた。せっかく怜に買って貰った服なのに、こんなにすぐに汚してしまい申し訳ない気持ちになる。
「頬にもついてる」
ふふ……と笑った怜の指が頬を擦る。温かくて滑らかな指先が、自分のカサついた肌を擦っていく感触に、胸が震えた。
「あ、洗ってくる!」
他の誰が触れようとしても恐怖しか浮かばないのに、怜に触れられると情緒がどうにかなりそうだ。
洗面所に入って蛇口を捻る。冷たい水でゴシゴシ手を洗うと、乾いた泥が溶けて流れていく。
洗面所の小さな排水溝に流れていく汚れた水を眺めていると、徐々に先ほどまでの興奮が落ち着いてきた。それから目の前の鏡を見れば、確かに頬に泥がついて乾いていた。
濡れたままの指先でその泥に触れる。
簡単に溶けて、頬を流れて顎まで伝った。
「温かかった……」
でも、この状況に慣れてはダメだ。だって、それがなくなったら、もう一歩も動けなくなる。自分の手の中にあるものは、いつだって手放しても良いものばかりにしておかないと。
「でも、今だけなら……」
それなら許されるのではないか。今だけと決めているなら、きっと心が傷つくこともない。そう決めて、オレは体を傾けて流れる水を両手で掬い、顔を洗う。その時、髪に挿された花も落ちてしまう。それを指先で摘んで目の上に持ってくる。
「図案にするとしたら、どんな風に描いたらいいだろう……」
怜に貰った一輪をどうしようと考えながら、汚れた服を変えようと、二階の部屋に行く。書き物机の上に、この部屋を出るまではなかったガラスの花瓶が置いてあった。
「花瓶……?」
手の中の一輪と同じ小さな薔薇が、束になってそこに飾ってあった。怜が飾ったのだと理解しているが、理由がわからない。顔を近づけて薔薇の匂いを嗅いだ。
瑞々しくてほのかに甘い香りがするようだった。見ていると顔が緩んでくる。
「怜にお礼言わなきゃ!」
クローゼットを開けて着替えを取り出し、汚れた服を脱いで着替えると急いで下に降りる。
怜がどこにいるのかわからなかったので、リビングに戻ればそこにいた。
「怜、……あ!」
ローテーブルにはオレが描いたカップが置かれていた。
「それ、乾くまで置いておくって書いてあったんだけど!」
「あれをくれた奴に写真を撮って送ったら、今すぐ持ってこいと言われた」
「え? お、怒ってる感じ?」
「いや、実物を見て確認したいらしい。お前が取りに来いと言ったら電話を切られた」
「へ? なんで?」
意味がわからず聞き返せば、怜も首を横に振る。
「わからん。昔から変わった奴だ」
「昔から?」
紙袋の中身を怜にくれた相手がどんな人なのか、もっとわからなくなる。
「一応幼なじみだ」
「一応……怜の友達って変な人多いよな。村田さんとか佐々木さんとかその幼なじみの人とか」
「俺は変じゃないし、あと友達じゃない。大学時代の先輩と、同僚と、幼なじみだ。まあ、変人ばかりだがな」
「え、いい人ばっかじゃん」
研究員であり医師である村田は、オメガとして普通に生きられるように治療してくれるし、佐々木はネックガードを取り外してくれた。幼なじみの名前はわからないが、紙袋の中身を怜にくれた人だろう。
「……誰か気に入ったアルファがいたのか?」
「へ?」
気に入った? 誰のこともそんな風に考えていなかったので、怜の問いかけというか詰問に驚いてしまう。
「なに、言って……」
「全員アルファだ。先輩も、佐々木も、幼馴染の光博も」
「そうなんだ。アルファなんて滅多に出会えないって言われてるのに、そんなに大勢のアルファがいるんだな。あ、怜もアルファだしな」
幼なじみの名前が光博だと知れたが、それ以上の感想が出ない。
「……で、誰が良いんだ」
「へ? 誰って、オレなんかを相手にするアルファなんていないだろ」
何言ってんだ? と思っていると、怜が額を片手で押さえてもう一度問いかけてきた。
「誰が、良いんだ」
多分これは間違えちゃいけない質問だと思う。なにもわからないが、そうだと確信した。
「……選ぶなら、怜、かな」
その途端、額を押さえて怖い雰囲気になっていた怜の表情が和らぐ。
「ちが、……違うから! 三人の中でって話で……その中でなら怜しかいないじゃん! ほ、ほら、アルファらしくなくて優しいし、オレなんかを家に住まわせてくれてるし! それに海に連れてってくれた!」
「……また連れていく」
「やったー!」
アルファらしくないなんて言っても、怜は怒らない。それに海にまた行けるのが嬉しくて両手を上げてバンザイをした時、家のインターホンが鳴る。
「……誰か来たよ」
佐々木が来た時は来ることがわかっていたから怖くなかった。でも今は、誰かが来る予定なんて聞いてない。心臓が嫌な音を立てる。
聖母園の園長や、あの嫌なアルファが来たのかと考えただけで体が震えた。
「追い返してくる」
何も言っていないのに怜にはオレの気持ちがわかったんだろうか。でも違う可能性の方が高いのだから追い返すのは違う。オレは慌てて怜の後を追った。
玄関が騒がしい。
「帰れ」
「ま、待って! 一目でいいからこの写真の子を見せて」
「見せん。帰れ」
「ちょっとだけ、先っぽだけでもいいから……」
「か え れ !」
相手の言い方が気に入らなかったのか、怜は怒りを顕にして訪問客を蹴飛ばした。
「あの、大丈夫?」
「もしかして、写真の子!」
「高嶺、部屋に戻っていろ!」
顔を上げた訪問客の顔面を手のひらで掴んだ怜は、オレに向かって叫ぶ。
「いや、お客さんだろ? オレは構わないから中に入れてやれよ。幼馴染で友だちなんだろ?」
「こんな奴に情けをかける必要はない! お前も帰れ!」
「やだ。帰らない! この写真の模様つけした子を紹介してくれるまで帰らないったら!」
「こいつは石川光博、幼馴染の変態だ。絶対に近づくな。あのカップに模様をつけたのは高……、名前は教えない。呼ぶな、見るな、触るな!」
「……え? 怜、どうしちゃったの? 近寄りがたい美貌と冷酷な眼差し、それに鋭利な口調がたまらないって評判だったお前が熱くなってるじゃん」
「帰れ」
「あ、俺こいつの幼馴染で石川光博、みーちゃんって呼んでね。ところでこの模様描いたのきみ?」
みーちゃんと呼んでと軽いノリで話しかけてきた人物は、手に持っていたスマートフォンの画面を見せてきた。そこには先ほど足が痺れるほど夢中になって描いたカップが写っている。返事をすると怜が怒るかなと考えて、怜の背後に体だけ隠して頷くだけですませる。
「かっわいい! そっか、怜の好みは美人タイプでもそこに可愛さが潜む感じが良かったんだね。言いふらそ」
「帰れ」
「ねえ、きみ。うちの専属絵師にならない?」
「専属絵師?」
それは何かと言葉を繰り返せば、相手はますます興奮してきた。
「俺が怜に嫌がらせで渡した道具と材料使ってくれたんでしょ。次は皿に模様描いて絵付けしない? あ、その前に模様描いたカップが乾燥したら絵付けし……いだっ!」
ぐいっと前に出てきた光博の手が伸びて、オレの手を掴む。その途端、血の気が引くほどの恐怖を感じる。この人はアルファだ。怖い、と思ってしまう。
「ひっ」
「離せ!」
怜がオレの手を掴んでいる腕を片手で引き離し、光博の顔を掴んで後ろに押し倒す。
「二度と、この家に、来るな!」
怜は倒れた光博の首根っこを掴むと、玄関を開けて外に放り投げる。乱暴にドアの鍵を閉めて戻ってきた怜は、腰を抜かしたように床に座り込んでいたオレに手を差し伸べようとしてすぐに引っ込めた。
その行為に怜の優しさを感じる。いつだって怜はオレの感情を第一に考えてくれる。そんな風にしてくれたアルファは怜だけだ。
「立てるか?」
「……うん」
オレから怜に手を伸ばせば、驚いた表情を浮かべた後柔らかく微笑んだ怜がその手を取ってくれた。さっき幼馴染だという光博とは違い、怜に触れられても全く嫌悪感は湧かなかった。
「すまない。あいつには二度と会わせない」
怜が激怒して追い出した光博は、閉じたドアの前で少し騒いだ後、いなくなっていた。
「大丈夫だよ。というか、あのカップとか図案とか作ったの、あの人?」
「ああ。だが、二度と会わなくて良い」
「皿にも模様描いて、絵付けして欲しいって言ってたね。絵付けって何?」
「……陶芸の作業の一つで色をつけることだ」
「陶芸か。楽しかったな」
素っ気ないカップに下絵を描いて、その通りに柔らかな泥で絵を描いた経験なんて一度もない。だから足が痺れたことも気づかずにいた。
「高嶺……なんだ、くそ!」
メッセージアプリの音が響いて、怜はポケットからスマートホンを取り出し、画面を見て悪態をつく。
それからその画面をオレに見せてきた。
「見ていいの?」
「ああ」
そこには興奮したままオレに急に触れてしまったことへの謝罪と、カップに描いた模様を見て才能があると思ったこと、もし興味があるなら陶芸小屋に来てみないかという誘いがあった。
その場合は怜の許可を貰って欲しいという「お願い」まであった。
「……楽しかったか?」
「え? あ、うん。楽しかった、よ」
たった一回だけの経験だけど、今まで生きていた中で経験したことのないものだった。
「もっとやってみたいか?」
「怜は嫌なんだろ」
とてもやってみたかったが、怜が嫌がっているのはわかるし、自分もまたあんな風に強引に触れられるのは嫌だった。でも、陶芸の一作業である絵付けはとても楽しくて夢中で描いてしまった。
「……やりたいなら、陶芸小屋に一度行ってみよう。ただし、必ず俺か三田さんが一緒の時だけだ」
怜は何かを耐えるようにぎゅっと手を握りしめて、とても優しい提案をしてくれた。
「オレ、別にどうしてもやりたいわけじゃないんだ。だから、やらなくて良い」
「っ」
怜が嫌がっていることなら、やらなくても良いと思う。またいつか、なにかやりたいことが出来るかもしれないし、今は未来に希望がある。
「違う! 俺は高嶺のやりたいことを禁止なんてしない! 閉じ込めたり、自由を奪ったり、息つまる生活なんて絶対させない!」
「えっと、わかってるよ、怜。お前は良い奴だ」
カフェで助けたからと言って見捨てず、こんな壊れたオメガにも優しくしてくれる奴だ。
「……今から陶芸小屋に行こう。光博は変態だが、理不尽なことはしない奴だし、二度とお前には触れるなと厳命する。半径三メートル以内に近づくな、とも!」
「それかなり無茶じゃない?」
「無茶でもあいつに絶対やらせる」
怜の言葉が面白くて、思わず笑ってしまう。
「怜、大丈夫だよ。さっきはいきなりだったから驚いたけど、ちゃんと謝ってくれたし、怜の幼なじみなんだろ? 悪い人じゃないと思う。あのカップや図案描いてくれた人だし」
「……図案を描いたくらいであんな奴を良い人扱いするんだったら、俺が何枚でも何百枚でも描いてやる!」
「え? 怜描けるの?」
「……描けないが、それくらいの気概はある」
「なんだよ、それ。あはは、怜ってばおかしい奴!」
まるでオレの良い人扱いを、怜が受けたがっているみたいだ。
「……歩いて三分の場所にあるが、絶対に一人では行かないこと、俺か三田さんと一緒でなければ家を出ないこと、守れるか?」
「もちろん!」
子どもみたいな約束事だが、オレはなんだか顔がにやけてしまい勢いよく頷く。
「なら、上着を取って来い」
返事をせずにオレは急いで階段を上がり、上着を掴むと引き返して階段をかけ下りる。
「お待たせ!」
怜は外にいたからかジャケットを羽織っていたので、そのまま玄関で待っていてくれた。
「そんなに急がなくても……転んだらどうする」
「転ばねーよ!」
あはは、と笑って手を出せば、怜もその手を握り返してくれる。ドアを開けて外に出ると、秋空が広がっていて柔らかくなった太陽の光に目を細めた。
鉄製の門を抜け、静かな道路を歩く。高級住宅街のここは、静かで人通りもほとんどない。道路沿いには木々が植えられ、奥の家屋はよく見えないようになっていた。
「高嶺、こっちだ」
「……うん」
自然に繋いだままでいた手を緩く引っ張られ、オレは促されるように足を動かした。この場所はどこも静かで罵声も怒声も聞こえてこない。いやらしい目で見られたり、蔑まされたりすることもない。
平穏、そのものだった。
そんな中で楽しかった陶芸の絵付けを出来ると思うと、胸が高鳴る。
「高嶺、無理はするな。夢中になるのは構わないが、まだお前は療養中だということを忘れるな」
「……わかった」
見上げた怜の顔が眩しくて、答えた後目を細めた。
「あ、来てくれたんだー。良かった。奥が作業スペースになっていて、表の部屋は隔週の土日に教室をやってるんだ。今度出てみる?」
古びた日本家屋から、光博が顔を出す。先ほどはなかったエプロンには、オレの服にもついていた泥がたくさんこびりついている。
「出たいです」
言ってからハッとして怜の方を見れば、頷いてくれる。
「アシスタントってことで入って貰ってもいい? 後、もしイッチンのこともっと詳しく知りたいっていうなら、この本あげる」
差し出された本はボロボロで、手作りのようだった。黄ばんだ紙を一枚捲ると、文字と絵の洪水みたいに知りたかったことが書かれている。
「あのスポイトみたいなのがイッチンなんだ」
「そう。|泥漿《でいしょう》っていう、粘土を水で溶いた化粧土で模様を描いて乾かす。俺は繊細な線で花や樹木、そのほか様々なものを描いていきたいと思っている。モダンでありながら華やか。食器棚にあると、コーヒーを一杯飲むのも楽しくなるようなものだ。飾っておくのも良いだろうが、普段使ってこその食器だと思っている。手に馴染んで目に美しい、そんな作品を作りた……いだっ!」
話しながら興奮しだしまた近づいてきて、手を握ろうとした光博の顔を、怜は鷲掴む。
「半径三メートル以内に高嶺に近づくな。見るな、触るな、触れるな! いいか、次は警告なしにころ……殴る!」
「今、不穏なこと言わなかった!? でもまあ、わかったよ。番に対するアルファの横暴さや狭量なところは十分わかってるしね」
そう言って光博は一歩離れてくれた。
「でもなあ、俺興奮すると周りが見えなくなるから、もしまた同じようになったらごめんね」
「大丈夫で……」
「大丈夫なわけあるか! いいか、高嶺はお前と違って繊細なんだ。お前の粗暴さに当てられてか弱い高嶺が淡雪みたいに消えてしまったらどうしてくれる!」
大丈夫だと答える途中で怜がオレを押し退けて口を出す。自分に対しての呆れた感想に脱力した。
「……消えないと思う」
「消える!」
「……怜、オレのことなんだと思ってんだよ。淡雪? こう見えてオレ、結構強かだし、繊細さって皆無だと思う」
「あははは、高嶺ちゃんっておもしろー」
「お前は黙ってろ! あと、高嶺の名前を呼ぶな!」
「はいはい。じゃあ、その本あげるね。もしわからないことがあったら、怜から連絡させて。俺はきみと連絡先交換は出来ないみたいだからね」
「え、なんで?」
そんなにオレと連絡先を交換するのが嫌なのだろうかと思うと、悲しくなってくる。まだ出会ったばかりだけど、嫌われることをしてしまったのだろうか。
「高嶺……」
「あははは、怜、高嶺ちゃんは俺と連絡先交換しても良いみたいだぞ。どうする?」
「……俺も入れたグループで連絡するなら許可する。ただお前が勝手に高嶺に話しかけたら即ころ、……そのスマホをぶっ壊すから覚えてろ」
怜がそう言った途端、光博は大口を開けて指さして怜を笑った後、足払いされて床に沈んでいた。仲良いなと考えた途端、寂しい気持ちが浮かんできた。
幼なじみなんてオレにはいない。聖母園にいるオメガは厳格に管理されていて、食事の時のお喋りは禁止されているし、お互いの部屋を訪ねることも禁止だ。
顔と名前は知っているが、それだけの他人だった。
「高嶺? どうかしかのか。具合が悪いなら帰ろう」
「え? いや、別に具合が悪いわけじゃ……」
でもなんだか胸がむかむかして、気持ち悪くなってきた。
「先輩も急に体調が崩れる時があるから、よく見ているようにと言っていた。ここにはまた連れてくるし、やりたいなら家で絵付けをしても良い。道具も揃えてやる。……だから、今日は帰らないか?」
「うん、わかった。……みーちゃん、わからないことがあったら、本当に怜に言えば教えてくれる?」
「もちろん。専属絵師の件も考えておいてね。その辺のリーマンより給与弾むから」
「うん。わかった。ありがとう」
楽しかったことが仕事になるならとても嬉しい。でもきっとそんな幸運は起こらないだろう。自分はオメガだ。幸せにはならない。なれない存在だ。
「高嶺?」
名前を呼ばれて沈み込みそうだった思考が引き上げられる。
「あ……」
「抱き上げても良いか?」
「……うん」
体から力が抜けて崩れ落ちそうだった。いつもの自分ならきっと断って怜の家まで必死に歩いただろう。でも怜ならきっと、疲れた時に寄りかかっても、平気な顔をして「もっと寄りかかれ」なんて言いそうだった。
怜に抱き上げられ、足を折り曲げて縦抱きされた。怜の胸に頬を押しつけ、怜の着ているセーターの柔らかさを感じ、ため息をつく。
「目を閉じていて良い」
「うん……」
促されるままに瞼を閉じる。ここがどこで誰が見ているのかなんて全く考えなかった。ただ怜に抱き上げられて、そこで安心している自分が当たり前みたいに感じられる。
ここでは無理なんてしなくていい、疲れたら抱き上げられて運ばれるのが普通のことで、オメガだからと蔑まされることもない。
ただ愛されてそれを受け入れるだけで良い世界があるのだと、どこか遠くにいる自分が幸せに微笑んでいた。
怜の家に帰ってからすぐに、自室として使っている部屋のベッドに寝かせられた。上着を脱がせられ、ズボン、靴下やシャツやセーターを脱がせて貰ってからパジャマに着替えさせられる。
首までふわふわの毛布を引き上げられ、額にかかった髪を指先で流された。
「喉は渇かないか?」
「れー……」
思考が曖昧になり、体の奥から燻った熱が湧き上がってくる。
「なんだ? さっきのハーブティーをもう一度淹れてくるか?」
「キスがいい」
「……」
「キス、だめ?」
答えない怜に、だめかぁと呟けば、頭上が暗くなった。怜の顔が近くにあって、唇を擦るようにキスしてきた。
「嫌じゃないのか?」
「嫌じゃないよ。怜にキスされるのも、するのも……怜は、嫌じゃない?」
「嫌じゃ、ない。お前が望むなら、いくらでもする。……したい」
多分この時のオレは熱っぽくて少し体調が悪くて、誰かに……怜に無性に甘えたかったんだ。
「もっと、キス……まだ?」
ベッドの中から両手を伸ばして、怜の服の前を掴む。もう一度キスが降りてきて、その心地よさと怜の香りに包まれる。もっと深く繋がりたくて唇を開けて、舌を伸ばす。
粘度の高い水音が唇から響き、舌を絡め、啜られた。甘く芳しい香りに包まれて、抱きしめられると体の奥に燻っていた熱が治っていくようだった。
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