10 / 13
第10話
10.セフレの意味と、二人の関係
10.セフレの意味と、二人の関係
チャイムが鳴り終わるや否や、教室の空気が一気に緩む。オレは鞄を手に取って誰とも目を合わせず、さっさと席を立つ。
後ろの方で友達同士が「ねぇ今日さー」「え、待って待って!」と騒がしく盛り上がっている声が聞こえるけれど、その輪の中に入ることもない。
廊下に出ると冷たい空気が頬を撫でる。まだ晩秋なのに、もう冬の冷たい匂いが少しだけ混じっている気がした。
階段をゆっくり降りて、人の流れに沿うように早足で玄関へ向かう。
下駄箱の前はいつものように混み合っていて、ローファーを脱ぐ音と、金属の扉がカチャカチャ鳴る音が響き合っている。オレは自分の下駄箱の前でしゃがみ込み、少し埃っぽい室内履きを脱ぎ捨て、ローファーをそこから取り出す。冷え冷えとしたコンクリートの床は靴下を履いていても触れればその冷たさに一瞬ぞくりとした。
黒い革靴に足を滑り込ませながら、周囲の喧騒に溶け込む。急いでいるはずなのに、心のどこかがまだここに留まりたがっているみたいだ。
最後に学生カバンを肩にかけ直し、ガラス戸を押して外へ出る。
校門の向こうに広がる見上げた夕暮れの空は、オレンジと薄紫が溶け合う、どこか寂しげで柔らかい色をしていた。
冷たい風が頬を掠めて、制服の裾を小さく揺らす。
オレは深く息を吸って、そしてゆっくり吐き出した。
――帰ろう。怜が待ってる。
一歩踏み出したところで、後ろから声が掛かった。
「待って、高嶺!」
振り返れば、友人である朝日が息を切らして走ってきた。
「……朝日、どうしたんだ?」
「お迎えの車のところまでで良いから、高嶺と一緒に歩きたかったんだ」
朝日は良家のオメガなので、登下校は実家が雇った送迎車を使っている。街に遊びに出る時は断りの連絡をすれば良いと言っていたことを思い出す。だから怜と出会った駅前のカフェまでは、二人で歩いて行ったのだ。
立ち止まったオレの前に立って、良い? と少し首を傾げて問うてくる姿は、これぞオメガ! と言わんばかりに愛らしい。
こんなオメガなら、きっとどんなアルファだって愛するだろう。きっと怜も。
会わせたくない、と咄嗟に考えてしまった自分に嫌悪する。朝日は運命の番を待っているオメガだ。どんなアルファに言い寄られても「僕、運命を待っているんで!」と明るく断っている幸せを約束されたオメガだった。
そんな朝日なら怜だって好きになるだろう。
「……あ」
良いよ、と言うつもりだったのに、言葉が出てこなかった。
「今日のお迎えは西田さんなんでしょ?」
「う、うん……」
今日は仕事の調整がついたので、迎えは怜が来てくれることになっていた。送り迎えなんてしてくれなくても電車で移動できると言ったが、これだけはどんなに言っても引いてもらえなかった。
「近頃高嶺の体調も良さげだし、僕西野さんのこと見直したよ。これなら高嶺のこと任せても良いかなって考えているんだ。肌はハリが出て、髪はツヤツヤ、表情だって変わって高嶺の美貌が一層輝いているからね」
嬉しそうに笑いながら話す朝日は、怜に対して上から目線だった。
「西田さんが高嶺の運命だったら良いのになって思ったんだ」
邪気のない笑顔で期待を込めて見つめられ、自分の汚さを実感する。
「……あいつは、運命じゃ、ない、かな」
朝日には言えないが、オレは数年前にヒートが始まり、初めてアルファに乱暴にされた時からフェロモンがわからなくなっていた。でも、ヒートは起こるので体は熱くなるし、わけのわからない衝動もある。
どのアルファからも、不快で金属みたいな匂いがしたが多分あれはフェロモンじゃないと思う。自分を傷つける、悪意みたいな匂いだった。
「そっかー。でもさ、運命じゃなくても、西田さんは高嶺のことすっごく大切にしてくれるから、僕好きだよ!」
「え?」
スキダヨ? 朝日は運命の番を待っているはずなのに、怜のことを好きになったのだろうか。それが顔に出ていたのか、朝日はすぐに訂正してきた。
「あ、違うから! そういう好きじゃないから! 僕は運命を待ってるんだよ! そうじゃなくて、高嶺を大事にしてくれるところが尊敬出来るというか、西田さんなら高嶺を任せても良いかなと思ってるとか、そんな感じだから!」
「……でも、怜の運命はきっと他にいる」
今自分が受けている怜からの優しさは、本来なら全部怜の番のものだ。オレが受けて良いものじゃなかった。
「運命じゃなくても、幸せになっている人はたくさんいるよ」
オレの卑屈な言葉に、朝日は静かな声で諭すように答えた。
「なら、朝日も運命じゃないやつでもいいのか?」
「僕は、その……」
朝日が言い淀んだその時、校門の向こうから、女生徒たちの騒ぐ声が聞こえてくる。
「ねえ高嶺。あれ、西田さんじゃない?」
「そうだと思う、急ごう!」
急いで校門を駆け抜けると路駐している真っ赤なポルシェの前に立っている怜が、周囲を女子高生に囲まれて、眉間に皺寄せていた。
「ポルシェのおにーさん、超イケメンだね。彼女いないなら私と付き合ってよ!」
「……離れてくれ」
「えー? もしかして可愛いJKにくっつかれて、照れてる? かーわいーい!」
「照れてない。触るのを止めろと言って……」
「怜!」
不機嫌に女子高生たちを散らそうとしている怜が見えた。怜はタレ目の所為か一見優しそうな人間に見えるが、不快なことをしてくる相手には容赦ない。
慌てて怜のそばに走っていき、暴言を止めるためその腕を掴む。
「遅い」
「悪かったって。じゃあ、帰ろうか!」
同級生も混じる女の子の集団は、視線が怖くてそっちは見れなかった。
「ちょっと、あたし達が話してたんだけどォ」
「そーよ。割り込まないでよね」
「はいはい、女の子たち。そんな風に陰口言ってると、幸運が逃げて行っちゃうよ」
朝日が女生徒たちとオレと怜の間に入ってくれた。
「あんた誰?」
「あ、この子変わったオメガの子よ。運命を待ってるって公言してる」
「あー。良いわよねえオメガ様は。お金持ちのアルファを待ってるだけでいいんだもん。だからあたしたちの邪魔しないでくれる?」
「あのね。僕はオメガだけど別に素敵なアルファをただ黙って待ってるだけじゃないんだよ。美容にも教養にも磨きをかけてるの。そこんとこ間違えないで欲しいな」
「煩いわね。自分が可愛いからって、いい気になってんじゃないの!」
「おい、朝日に絡むな!」
オレを迎えにきてくれた怜を助けるために、朝日が犠牲になっていいわけじゃない。朝日の腕を掴んで背に庇うと、オレは正面の女生徒たちと対峙する。
「朝日は関係ない。れ……こいつはオレを迎えにきてくれただけだ」
怜の名前をこいつらに教えたくなくて、途中で言葉を止める。オレを見る女生徒たちの視線が一層冷たくなったように感じた。
「ねえ、ほら、例のオメガじゃない」
「……例のって、ああ、淫乱オメガ?」
「そうそう」
陰口を言われていたことはわかっていたが、面と向かって言われると胸を突かれたように感じる。心臓が嫌な音を立てて、軋んだような気がした。
「今、なんと言った?」
怜の雰囲気がガラリと変化して、アルファたる所以である威嚇フェロモンが漏れ出た。
これは激怒、だ。
「怜、オレは平気」
なんと言われても平気だ。だってそれは本当のことだから。ヒートがある限り、オレはアルファの精を求めるし、それ以外考えられない時間が一定期間続く。思春期になりヒートが始まった時から数えきれないほどのアルファに辱められた。暴力もあり、尊厳を傷つけられるような真似もされた。それをなかったことになんて出来ない。
オレは、外から見れば「淫乱オメガ」や「壊れたオメガ」と呼ばれても仕方ない存在だった。
寂しくて悲しい気持ちを抑えて笑えば、怜の腕が伸びてきて抱きしめられる。
「お前を悲しませるような存在を、俺は許さない」
きゃ――……! と騒ぐ女生徒たちを怜が睨めば、ビクッと震えてから女生徒たちはそこから離れていった。ただオレを少し羨ましそうに見ている者もいた。
「ちょ、ここでそれは……目立つから、早く車に乗って!」
朝日が慌ててオレ達を隠すように前に来てくれたが、ちっちゃくて細っこい朝日の体では隠せるわけもない。朝日はオレ達の体を車の方に押して、早くここから去れと言ってくる。
「高嶺は綺麗で目立つし、西田さんはこれぞアルファって容姿をしていて目立つから、校門の前で でイチャイチャしてたらだめ! イチャイチャするなら、家の中でしてね!」
「わかった」
「何言ってんだ、怜! オレ達はイチャイチャなんてしてない!」
「はいはい、わかったから。また明日ね高嶺」
「……うん、また明日」
この言葉を言えるのが嬉しい。前はいつヒートが始まるのかよくわからずまた明日なんて返せなかった。でも今は症状が落ち着いているし、ヒートになれば頼れる相手もいる。
毎月来ていたヒートはしばらく止めて、体力をつけ、体調を整えると村田は言っていた。その間、体内に蓄積された毒のような薬害を外に出すのだという説明を受けている。
朝日に押されて車に乗り込むと、反対側の運転席に座った怜が身を乗り出してオレのシートベルトを閉めてくれる。
「あのさ、怜」
「なんだ、苦しいか?」
「違うよ! そうじゃなくて、シートベルトくらい自分で締めれる」
「……ああ、そう、だな……」
ものすごくショックを受けました、というような表情を浮かべた怜は、機械仕掛けみたいに座席に座り直し自分のシートベルトを閉めた後、エンジンをかけて車を走らせる。
これから研究所に向かうのだ。窓ガラスの向こうに流れる景色が次々と変わっていくのを眺めながら、怜の姿をちらりと見つめる。真っ直ぐに前を向いて運転しているだけなのに、怜はとんでもない美形だ。
「どうした?」
視線は合っていなかったのに、見ていたことがバレていた。
「……あのさ、仕事忙しいだろ? もう迎えはいいよ。電車あるし研究所も怜の家までだってオレ一人で帰れるし」
怜がオレの送り迎えをするために、夜中に仕事をしていることを知っている。少し疲れた顔をしているのは、きっとオレが負担になっているからだ。
「ダメだ」
「でもさ」
「ダメだ」
「……わかったよ」
怜は大抵のことは許してくれる。食べてみたいもの、飲んで美味しかったもの、テレビで見た菓子を美味しそうだなと言った次の日には手土産にして帰ってきた。
服や靴も身につけるものは過不足なく与えられ、健康的で安全な生活を送れている。
こんなに幸福なのに、人間って本当に欲深いと思う。オレは出来れば、長くこのままでいたいと思い始めていた。怜のそばで、生きていられたらそれだけであとの幸せを全部手放しても良い。
「高嶺、今はその、俺と体液を交換しているから落ち着いているが、急変する場合もある。だから先輩からの許可が出て本当に体調が良くなるまで無茶はダメだ」
「……うん、わかってる」
なぜか怜とキスするとヒート異常で体が熱くなっても、すぐに落ち着くのだ。キスされて抱きしめられ、背中を撫でられるだけで心や体も安心できた。
◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎
研究所の処置室はやっぱり物が少なくて、殺風景で埃一つ落ちてないくらい清潔だったが、どこか冷たさを感じた。
オレを軽く検診した後、採取した血液を持って村田は部屋を出ていく。扉が閉まると同時に、空調の低い唸りが部屋を満たしたような気がした。
壁やカーテンも真っ白で、淡いグレーのリノリウムの床が施され、蛍光灯の光を冷たく乱反射している。窓のそばに置かれた処置台はステンレス製で、表面にうっすらと消毒液の匂いが染みついている。オレはその上に横たわり、左腕に留置針を刺されたまま、角度を調整した背もたれに体を預けていた。
点滴はスタンドから吊り下げられ、何かあれば移動可能だが、今はオレの頭上斜め上に固定されている。
透明なチューブの中を、規則正しく落ちる薬液の滴が、照明に反射して一瞬だけ虹色に光った。ぽたり、ぽたりと薬液が落ちるその音が、部屋の静寂の中でやけに大きく響く。
村田が使えるようにしてくれた処置室は、六畳ほどの広さがあり、怜が枕元の椅子に座り、膝の上にノートパソコンを開いている。
室内の空調は常に低温に設定されていて少し寒い。点滴を体内に注入しているので、オレの体温はどんどん下がっていく。けれど怜の仕事の邪魔はしたくないので、平気な顔をしていた。
「寒いのか?」
どうして怜にはわかるのだろう。もしかしてオレの考えていることがわかるという、特殊技能でも持っているのかもしれない。
「えっと……」
返事にまごついていると、怜は部屋の隅に置かれていた箱から毛布を取り出す。
「今どっからそれ取り出した!? いや、勝手に使っちゃダメだろ!」
「これは俺が購入して、ここに置いてもらっているものだ。高嶺に必要なくなれば、破棄か続けて使って良いと先輩には伝えている」
「村田さんから過保護って言われなかったか?」
「……」
言われたんだな、と怜の無言の返事に理解する。
処置台の脇には、モニターが置かれ心拍・血圧・酸素飽和度を表示し続けている。数字は淡々と更新され、オレの体が「適正範囲」であることを無感情に証明していた。
このモニターが設置された当初、不安が膨れ上がったことを思い出す。大事になったと真っ青になったオレに、怜は今の状態を確認するだけで、たいしたことではないと落ち着かせてくれた。
怜は膝の上に小型のノートパソコンを乗せ、カタカタとキーボードを叩き始めた。
「怜、やっぱり忙しいなら仕事に戻って良いよ。オレに付き合ってここにいる必要ない。終わったら自分で帰れるし」
少し駅から離れているが、歩けないわけじゃない。近頃は食事も取れて体重も増えてきて、少しくらいなら歩くだけの体力もある。
「……、まだ喋るなら、唇を塞ぐぞ」
「!」
そんな脅し文句があるなんて、信じられない。ぐっと唇を閉じて怜を睨めば、ふふんと大人っぽい余裕のある笑いを見せてきた。
「意地が悪いぞ!」
「大人なだけだ」
「意地悪なのが大人なのか。なら、大人なんて碌でもないな」
「……すまない。お前に意地悪をしているつもりなかった」
唇を塞ぐぞ、とはキスするぞと言っているのと同じだ。意地悪じゃないし、なんならして欲しいなんて思ってしまう。でもそんな恥ずかしいことは言えない。
「謝ってくれたから、良い。許す」
拗ねたように言えば、怜はノートパソコンをベッドの上に置いてから、身を乗り出してきた。
「ありがとう」
礼を言われて視線を逸らす。怜は本当に優しい。あの日、カフェで倒れてから、ずっとそばにいてくれる。辛いことや悲しいことをオレから遠ざけようとしてくれているのも知っている。
なぜわかるのかと言えば、怜の行動、言動全てがそうだからだ。
だから、こんな自分勝手なお願いも怜になら言えた。
「許すから、その……」
「キスしていいか?」
「……いいよ」
小さくなってしまったオレの呟く声は、処置室の壁に吸い込まれてしまう。
「ん……」
キスは気持ちよくて温かくて、幸せの味がする。指の腹で頬を撫でられ、大嫌いだった目の下のほくろを探すみたいに指の感触が移動する。
唇の表面を舌の先で舐められ、それが合図みたいに口を開けた。するりと入ってきた舌が、オレの舌に絡まる。ぬるついた感触に、腹の奥がきゅんと震えた。
「は、ふ……」
ちゅぷ……と音をさせてくちびるが離れ、混ざった唾液の糸が細くなり切れた。唇についたそれを怜は親指の腹で拭ってくれる。
「……冷たいな」
「え?」
そう言って体温を確かめるように手を握ってくる。
「毛布だけじゃ足りないか。湯たんぽか電気毛布を明日までに用意しておく」
「いらねーから!」
怜に握られた手を振り払い、その指を怜に突きつける。
「持ってくるなよ!」
「わかった。なら、ここにいる間は俺がお前を温める」
「はあ!? お、おま、お前! 人の話を聞け! それに毛布があるから寒くねーよ!」
「残念だ」
本当にそう思っているようだが、それでも顔は楽しそうに笑っていた。怜は少しだけ人見知りがあると思う。
先輩の村田さんや同僚の佐々木さん、それに幼馴染の光博には良く喋るし気を許しているが、特に女性やオメガは警戒しているように思う。今日の女生徒に対しても、初めから喧嘩腰だった。
「怜は、女の子とか……その、オ……嫌いなのか?」
オメガが嫌いだと言われたら立ち直れない気がしたので、誤魔化してしまった。
「女? ああ、学生時代嫌というほどその醜悪さを実感した。人を陥れることしか考えていない存在だ」
「……何があったんだよ」
聞くのが怖かったがつい口をついて出てしまった。
「小学生の時は家庭教師の女が服を脱がそうとしたし、中学は俺の隣に座るために教師と寝る女もいたし、集団で襲ってくる時もあった。とりあえず怪我はしないように返り討ちにした。祖父が武道を習わせてくれていたからな。高校時代は無難に告白を断ると嫌な噂を流された。きっちり報復はしたが、一人だけ普通に話してくれていたベータの友人はそれで転校して行った。だから大学では一切女をそばに近寄らせなかった。金持ちの傲慢息子を演じれば、誰も近寄らない」
「……みーちゃんや村田さんは?」
「光博は昔から人付き合いが上手くて、何度も人間関係で失敗する俺を笑っていたし、先輩は自分の興味のあること以外には特に頓着しない人だったから話しやすかった。まああの人も俺がさいお……いや、なんでもない」
「ん? さいおってなんだ?」
「さっき高嶺が言った三人は、普通じゃないと言いたかったんだ。だから、俺も遠慮なく本音で話している。高嶺は、その……さっきも一緒にいた佐藤くんという友人がいるようだが、仲は良いのか?」
「朝日? うん、オレは友だちだって思ってる! 優しくて可愛くて、良い奴だよ!」
なぜ自分にまとわりついてくるのか、朝日の行動を疑っていた時もあったが、カフェで倒れた翌日、またここにきた時にタクシーで乗り込んできて痴漢撃退用のスタンガンを構えてオレを守ろうとしたことでそんな疑いは霧散した。
朝日はとても優しい奴だ。オレが一ヶ月に一回のヒートが来ることも心配して、他の医者にかかることを勧めてくれていた。
「そうか」
「怜も入れた通話グループ作ったの、今からでもやめて良いんだけど」
スマートフォンを渡されて、朝日と連絡先を交換した時、なぜか朝日と怜も連絡先を交換していた。いつも穏やかな朝日がその時だけは厳しい顔をしていたので、何かあったのかと思っている。
「俺が二人の会話に入ることはないが、何かあった時のために入れておいてくれ。それとも俺に見られたらまずい内容でもあるのか?」
「ないけど……。まあ、怜が良いんなら、それでいいよ」
メッセージの内容は学校のことだったり、体調が良くなったらまたカフェに行こうと言ったり、読んだ本の感想を言ったりするのんびりした内容ばかりだ。
「ああ、入れておいてくれ」
「はあ、まだ終わんねーなこれ」
頭上にある点滴の容器にはまだ三分の一程度、薬液が残っている。
「時間が気になるなら、目を閉じておけ。高嶺が今やることは体を休めることだ。本当なら学校も休ませたい」
「やだ。学校は行く」
「わかってる。だから送り迎えを嫌がるな」
「……わかった」
本当は怜に迷惑をかけたくないだけだ。オレの送り迎えなんてしなくて良いなら、もっと自分のために時間を使えるのに。
「良い子だ」
「……子ども扱いすんじゃねー」
「それが出来たらこんな真似しないんだが……」
「え?」
もう一度キスが落ちてきた。いきなり深くて熱いキスに翻弄される。
「んんっ」
頬を両手で包まれ、そこから手のひらが徐々に下の方へ滑っていく。
耳を擦り、顎の線を巡り、首筋へ。
そしてそこを守っているネックガードの周囲を指先で辿り、肌とネックガードの間に差し入れる。少し苦しくなって不満げに唸れば、すぐにその指は離された。
「……どうしたら良いのかわからないって顔だな」
「わかってんなら、いきなりすんなよ!」
「すまない。衝動が、いや、本能……感情が、止められない時がたまにあって」
「たまたまそこにオレがいたってことかよ」
「……まあ、そうだな」
視線を逸らして口ごもる怜はどこか後ろめたく見えた。オメガのヒート時の衝動やその後の葛藤、後悔などを思い出し、つい同情するようなことを言ってしまう。
「アルファも大変だな」
「……、ああ、そう、だな」
「まあ、怜には世話になってるし、必要なら良いよ」
「良い、とは?」
「だから、セックスしたい時にして良いよ」
「……」
「オレもさ、ほら男だし、その気持ちわかるし。こんな体だけど、それで良かったら」
「……それについては、後で話そう。誰か来た」
ノックの音が響き、誰何すれば村田だと返事が返ってくる。白衣を羽織った村田が、無言で中に入ってきた。足音は防音スリッパのためほとんど聞こえず、ただ白衣の裾が空気を切るかすかな音だけがした。
村田は怜の横に立つと、まずモニターの数値を一瞥し、次に怜の顔を見下ろした。声は低く、呆れと諦めと、隠しきれない面白がる空気が混じっている。
「さっきバイタルサインが少し乱れたが、理由を知っているか?」
「さあ」
その返事を聞いてますます面白いというような表情を浮かべた村田は、処置台に横になっているオレを覗き込み、右手に視線を向けた。
オレはさっきのキスで鼓動が乱れたことを知っているのに、それを答えるのが恥ずかしくて視線を逸らす。
キスして鼓動を早めました、なんて言えるはずもない。
処置台の上で少し体を動かして知らんぷりしていた。今のオレは袖は捲られ腕の内側には点滴針が刺されている。村田はその留置針のテープがきちんと貼られているか、チューブにねじれがないかを確かめる指先がオレに触れる前に怜の手が止めた。
村田は小さく笑うと、オレに向かって頭を下げる。
「不用意に触れてしまってすまない」
「いえ……大丈夫です。村田先生は、怖くない人だから」
「……ありがとう。きみや他のオメガに対して、ずっとそう思われる人間になれるよう努力するよ」
そんなに重大なことを言った覚えはないのだが、村田は表情を改めて誓うような言葉をオレに告げる。
「さて、点滴は終わりだ」
そう言いながら、村田は点滴を止め、針を外してそこに止血テープを貼っていく。
「少しここで休んでいくかい? 処置台だけど、頑丈に作ってあるから、二人で寝ても大丈夫なのは実証ず……わかった、すまない。デリカシーのないことを言った」
「先輩じゃなかったら殴ってましたよ」
「これは暴走時にも使用できる抑制剤だ。それからこっちはちょっと興味本位で作ってしまった潤滑剤。オメガの子の体は繊細だからな。体に優しく避妊作用もある。どっちもアルファ用で、十二時間効能が続く」
いるか? と聞かれた怜は、一瞬戸惑いながらもそれを受け取っていた。誰か好きな人でもいるのだろうか。いいな、と思った途端、その考えを振り払う。
今、ここにいて治療を受けているだけで、オレは幸せだ。そのはずだった。人間らしい時間がやっと流れ始めたのだ。
怜が処置台の上に置いたノートパソコンの画面が暗転する小さな電子音が、オレの心の静寂を乱す。無機質な蛍光灯の下で、処置台のやけに肌触りの良い毛布を握った。
◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎
研究所での治療を済ませると、怜の家に戻ってきた。制服から私服に着替えてリビングに行けば、怜はすでに出かけてしまっていた。
忙しいなら自分で移動できると言っても、怜は納得しない。
「ふふふ、坊っちゃまは本当に高嶺様がお好きですのね」
家政婦の三田がお茶を運んできて、ソファーでだらしなく座っているオレの前にカップを置いてくれる。
「三田さん、違うよ。怜は優しいんであって、別にオレのことなんて好きじゃない」
どうやって自分が怜に助けられたかその経緯を三田は知らない。
「坊っちゃまは高嶺様にお優しいですか?」
「え? うん。怜は優しいよ。あんなアルファ初めてだ」
「まあ、でしたら坊っちゃまは本当に高嶺様がお好きなのですわ。旦那様も奥様にはとてもお優しかったですし、大旦那様はそりゃあもう大変な溺愛ぶりでしたから」
「怜のお父さんと、お祖父さんのこと?」
「ええ、そうです。西園寺家の男性アルファは、番をそりゃあもう大切になさるんです。この邸宅も大奥様が海外の雑誌をご覧になられて、その建物をそのままこちらに移築したんです。庭も薔薇がお好きだったので季節ごとに楽しめるように作られて。当時は大騒ぎだったのですよ。西園寺家は都内に本家がございますから、そちらに嫁入りされるのが通例だったのですが、大旦那様が周囲を黙らせてこちらで新婚生活を始められて……その時、近所に住んでいた私の母が乳母として雇われまして、その娘である私も怜様がお生まれになった時同じように乳母として雇っていただきましたの」
「え? じゃあ、小さい頃の怜のこと知ってるの?」
「ええ、存じておりますよ。少し捻くれ屋でございますが、根はとっても優しい方です。普段はそれほど怒ったりされない方ですが、自分のものを傷つけられると、ちょっと根に持つタイプというか……。まあこれは西園寺家のアルファには普通ですね」
「そうなんだ。……その、なんか女性関係で色々あったって聞いたんだけど」
「まあ、高嶺様にはそのお話も? そうですわね。色々ございました。女性とオメガに対してかなり偏った感情をお持ちになるのも仕方ないかと。あ、でも高嶺様は別でございます」
なんで? と首を傾げる。どうしてオレだけ別なんだ。ああ、オレは怜が助けた相手だから特別ということだろうか。
「そうなのか」
「ええ、そうでございます。あら、私はそろそろ失礼させていただきますね。お夕食の準備はしておりますので後はよろしくお願いいたします」
「わかった。お茶、ありがとう三田さん」
入れてくれたハーブティーを飲みながら三田が帰っていくのを眺める。聖母園では料理は職員が作っていたので、オレは料理が出来ない。でも作ってもらったものを温め直して配膳することくらいは出来るので、やらせて欲しいと怜にお願いしたのだ。怜は本当にオレに何もして欲しくないらしく渋られたが、ごねたら許してくれた。
飲み終わったカップをテーブルに戻すと、次はカゴにまとめた道具を取り出す。
光博が貸してくれた道具を持ち運びしやすいようにカゴに入れてくれたのは、怜だった。だから、怜に何か礼をしたいとずっと考えていて、光博にも相談したのだ。
図案を考える為の色々な図鑑や花々の本もそこに入っている。本を広げ、ノートを取り出し鉛筆でその花の姿を書き写す。どんなこの花をどんな模様にするか、色にするか、考えるだけで楽しい。カップや皿などいろんな陶器がある。光博ともメッセージアプリを使って繋がっているので、相談することは簡単だ。
「そういえば、みーちゃんとのメッセージにも怜が入ってるな」
ポケットに入れたままのスマートフォンを取り出して、テーブルに置く。それから怜が帰ってくるまで、ノートに考えた模様をいっぱい書き溜めた。
◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎
数時間後、玄関の鍵が開く小さな音が響き、オレは作業をやめて立ち上がる。すぐに怜がリビングに顔を出して、ほっとしたように顔を緩ませた。
「無事だったか」
「家の中にずっといたのに、何があるんだよ。腹減った?」
「ああ。空いてる」
「すぐ用意するから、着替えて来いよ」
「ああ……」
玄関からキッチンに入って、鍋に火をかけて温める。ダイニングテーブルにカトラリーにを並べ、冷蔵庫に入っているサラダを取り出す。今日は洋風なので、パンも切って温めて皿を用意した。
家政婦の三田が教えてくれたので、これくらいはできるようになっていた。怜はオレが美味しいと言ったものを片っ端から三田に教えるので、食事はオレの好きなものばかりになってきた。テーブルセッティングが終わると、怜も着替えてきた。お肉たっぷりのシチューを深皿に注いでいると、怜がそれを取ってテーブルに並べてくれた。
そういえば怜はなんでも食べるが、好き嫌いがあるのかオレは知らない。怜の好きなものも知りたいな、と思う。席についていただきますをしてから食べ始めて、オレは怜に聞いてみた。
「怜、それ美味しい?」
「ああ、なんだ。欲しいのか。ほら」
「違う! オレはそんなに食い意地張ってねーよ!」
「遠慮はいらない。もっと食べて健康になれ」
「だからー、違うって! そうじゃなくて、怜の好きな食べ物ってなに?」
怜は少し考え込んでから、口を開く。
「……考えたことがなかったから、すぐに答えるのは難しい。でも、ちゃんと考えるから待ってくれ」
「え? あ、うん」
そんなに難しい質問をしたかな? と思いながら頷く。でもちゃんと考えてくれると言ってくれたので、自分との会話にちゃんと向き合ってくれていると感じた。
「なんだよ、自分のことだろ」
天邪鬼なところが出てきて、つい意地悪なことを言ってしまった。
「……自分のことの方がわからないんだ。俺はまだ未熟者だから、感情や行動を止められない時もある。高嶺、俺がお前に理不尽な真似をし始めたら、必ずぶん殴れ。良いな?」
「う、うん、わかった。ぶん殴る」
何度も怜は自分が理不尽なことをしたらぶん殴れというが、そんな事にはならないだろうと考える。
夕飯が終わり、食べ終わった食器を食洗機に入れると、風呂が湧いたから入れと怜に言われた。
「はーい。これ、スイッチ入れたら入る」
食洗機の中へ汚れた食器を入れて、鍋は流しに付けておく。その時、朝日からメッセージが届いた。
「ん? 朝日からだ。えっと……」
そこには兄から海外出張の土産のお菓子を貰ったから、明日一緒に食べようと画像と可愛い絵文字つきできた。朝日とのメッセージのやり取りは、怜も見れるようになっている。スマートフォンに通知が来たのか、怜もじっと画面を覗き込んでいた。
「怜?」
「佐藤くんの家は確か佐藤建設と言っていたな?」
「え? うん、なんかおっきい会社だって聞いたことがある」
「……兄はアルファが二人、か」
「確かそうだったと思う」
「そうか」
考え込んだ怜は厳しい顔をしている。
「えっと、朝日はオレの友達で、……でも、怜が朝日とやり取りして欲しくないならメッセージアプリ使うの止める」
悲しいけれど朝日とは学校で会えるので、それだけでも良いと思う。怜を不快にさせてまで、やることではない。
「やって良い! すまない。そんな風に禁止したい訳じゃない。スマホは好きに使っていいし、お前が誰かと交流するのを止めるつもりはない! ただ、佐藤くんの兄がどんな人物なのか気になったんだ。お前がやりたいことを、禁止したりすることはしない! 絶対だ!」
「でも、嫌なんだろ?」
「嫌なわけじゃない。本当に友達と楽しく過ごして欲しい。ただ、これは、その、アルファの悪しき習性みたいなもので、……すまない、高嶺。俺を殴ってくれ」
「は?」
綺麗な顔を差し出され、殴れともう一度言われる。
「いや、怜は別に悪いことしてねーじゃん」
「した。お前を縛ろうとした」
「紐持ってねーじゃん」
「物理じゃない。精神的に、だ」
「そんなの縛ったことにならねーよ」
怜は優しいから、苦手なオメガのオレを助けてくれる。アルファの悪癖というが、いつか見つかる怜の番はそんな風に束縛とか執着を見せられるのだと思うと羨ましい。
「バカなこと言ってんなよ。オレ、風呂入ってくるから」
食洗機からは水音が聞こえてきたので、ちゃんとスタートすることが出来た。キッチンから出て、階段を上がり自室として使っている部屋に入り、着替えを手に取ると風呂に向かったのだった。
風呂から上がってパジャマに着替えると、スリッパに素足を突っ込んで階段を上がる。家の中は温かく、タオルで拭いただけの洗った髪もすぐに乾くだろう。
「待て、髪を乾かしてないだろう」
声を掛けられて振り返れば、怜が不満そうな顔をして立っている。
「ちゃんと拭いたからそのうち乾くって」
「濡れたままでいると風邪をひく。来い」
「えー、オレ、ドライヤーってあんまり好きじゃなくて……」
「今度音が静かで速乾出来るものに変えるから、それまで我慢しろ」
「いや、オレが好きじゃないからってドライヤー変える必要なんて……」
「ある。お前が快適に暮らせるようになるために必要だ。……いや違う! そろそろドライヤーを変えようと思ってたんだ。だから、買い替えはお前のためじゃない! 自分のためなんだ!」
オレの為に買い換える必要なんてないけれど、怜が変えたいと思ってたなら反対することはない。
「……そう、なんだ」
「ああ。そうだ。だから逃げるんじゃない」
そおっと怜から離れようと思ったが、制止される。
「洗面所に戻れ」
「わかったよ」
しぶしぶ洗面所に戻ると、怜がドライヤーを出してきた。身長差があるから、鏡を見れば後ろに立った怜がドライヤーの準備をして髪に触れている。
それまで落ち着いていた心臓の音が乱れ始めた。ぐっと奥歯を噛んで静まれ、静まれ、と自分の体と脳みそに言い聞かせる。でも、オレの髪に優しく触れる怜の手を意識したらダメだった。鏡の中には顔を赤くした、自分がいる。
「高嶺、顔が赤いがまさか熱が出たのか?」
「ち、違う! 暑い、そう暑いから!」
「そうか? 外気温が下がっているから、家の中も今日は少し温度が下がっていると思うが……やっぱり熱が出たんじゃないか。体温計が確かこの辺りにあったような」
「大丈夫だから!」
洗面台の棚を開けようとした怜の手を止める。
「本当に、大丈夫。早く髪を乾かして欲しい!」
「……わかった」
熱なんかあるわけない。だってただ恥ずかしくなっただけだからだ。でもそんなこと怜に言えるはずもなく、オレは別の願いを口にする。髪さえ乾けば、ここから逃げられる。
怜は丁寧に髪を乾かし、ブラシで梳かしてくれた。聖母園にいる時は、長く伸ばすのが嫌で自分で切ってギザギザになっていた髪も、怜と暮らすようになって美容室で切って貰い手入れをするようになったら、手触りが良くさらさらの艶髪になって朝日も満足していた。
今、怜はオレの髪をブラシで梳かしながら、指で救ってその間を滑らせ感触を楽しんでいるようだった。
「オレの髪が綺麗になって喜ぶの、朝日だけだと思ってた」
「……佐藤くんも、高嶺の髪に触ったのか?」
「ん? ああ、さらさらでオレの髪は気持ち良いって言ってた⋯⋯ってどうした?」
「なんでもない。風邪を引く前に部屋に戻ってカーディガンを羽織っていろ。いや、待て。これを」
怜はそう言って着ていたカーディガンを脱いで、オレの肩にかけてくれる。
「俺も風呂に入る。後で……」
「う、うん」
急いで洗面所から出て、階段を駆け上がる。後で、ということは怜が部屋に訪ねてくるということだ。二階の自室に入ると、ベッドに飛び込む。
ゴロンと仰向けになって、足をバタバタさせる。なんだか興奮してじっとしていられない。
なんなんだ、怜は! あんな風に見つめられたり、髪に触れたり、寒くないようにカーディガンを着せてくれたり。あんなのは全部番にやることだ。……と思う。いたことがないからわからないが、アルファが大切にするのは番だけの筈だ。
「怜は、優しいから……」
今まで出会ったことないタイプのアルファだ。嫌なことをしないし、無理やりもない、いつだってこちらを気遣ってくれる。たまに何かを耐えるような態度を取っているが、理不尽な真似は絶対にしないアルファだった。
「あんなアルファ、初めて会った……」
アルファなんてそばにいるだけで体が震えて、気持ちが悪くなるのに。匂いだって不快な金属臭がしてちっとも良くないのに、怜の匂いはなんていうかとても落ち着く匂いだった。
甘くて爽やかで、柔らかな毛布に包まれて安全な場所で眠りにつくような香りだ。朝日は運命の番を待っている、と言っていた。そんな相手がいると信じられる朝日が羨ましい。
オレの運命なんて、きっといない。こんな壊れて醜いオメガには神様だって運命の番という幸福の象徴みたいなものはくれないだろう。
聖母園で園長に対して怜が「運命だと感じた」と言った時はすごく驚いた。すぐに自分をここから助けるための嘘だと気づいたが、それでも嬉しかったのだ。
「運命、か……」
枕を引き寄せ腹の上に乗せると抱きしめる。もし、神様に一人だけ運命を選べると言われたら、迷いなく怜と答えるのに。家政婦の三田も、西園寺家のアルファは番をとても大切にすると言っていた。
でもそんな奇跡は起こらない。オレに運命なんていない。寝言は寝て言えってな。ぎゅっと枕を抱きしめて、横向きになる。その時、頭上から声が掛けられた。
「高嶺、どうした? やっぱり具合が悪いのか?」
「……悪くない」
「さっき運命と呟いてなかったか?」
「……えっと、その、朝日は運命の番を待ってるんだ」
「ああ、前に聞いたことがあるな。その時お前がなんと答えたかは、聞きそびれたが」
「…………言えって言ったんだ」
「え?」
小声の早口で言った為、怜に聞き取れなかったのだろう。だからもう一度大きな声で答えた。
「寝言は寝て言えって言ったんだ! オレ、性格悪いから、朝日が幸せを約束されたオメガだから、嫉妬したんだ!」
「そうか。……高嶺は運命を待ってないのか?」
「オレなんかに、運命なんていねーよ」
「もし、いたら?」
「いねーって!」
「もしだ」
「……会いたくない」
オレは薄汚いオメガだ。月に一回のヒートがきて、顔も知らないアルファに何度も蹂躙された。こんなオレが運命の番になったら、相手のアルファが可哀想だ。
そう答えれば、怜は眉間に皺を寄せていた。きっとオレの話を聞いて同情して、怒っているのだろう。
「でも、怜に会えたから運命に会わなくても全然平気だ! オレ、フェロモンわかんねーし」
薬の影響か、心の影響なのかわからないが、オレはアルファのフェロモンが不快な金属臭として感じる。怜だけが、違うのだ。
「怜は冷たい金属臭がしないから、そばにいても平気」
にかっと笑えば、怜は額を押さえてベッドに蹲る。
「どした?」
「……いや、激情と興奮と感動でお前を抱きしめるところだった」
「すれば良いじゃん」
別に怜ならいつだって抱きしめてくれても構わない。だって、そこは本来怜の番がいる場所だ。きっと近い未来その場所からオレは去らなければならないなら、今くらい自分の場所だって顔をしていたかった。
怜は顔を上げてオレが抱いていた枕を取り上げ、覆い被さるように抱きしめてくれた。
温かいベッドの中で、怜の腕に包まれて幸せな時間を過ごす。
こんなアルファが運命の番だったらどんなに幸せだろう。今だけだと思いながらも、卑怯なオレはこの時間が長く続くことを願っていた。
「高嶺」
甘い声で名前を呼ばれるだけで、腹の奥がジクジクと熱を発する。怜の声に誘われるように顔を向ければ、キスされた。柔らかくて温かくて、触れているだけで心地よいのに、唇が開いて舌を絡めるキスはもっと気持ち良い。
怜はキスを日常的にするようになった。なぜなら、キスをして体液を交換すると、オレの体調がとても落ち着くとわかったからだ。唇にキスだけでいいのに、怜は手のひらであちこちにも触れてくれる。これもとても気持ちよくて落ち着く。他のアルファにされた時は、気持ち良いなんて思ったことなかった。
今はヒートでもないのに、悪いことをしている気分になるが、やめられない。
「怜、ごめん……。こんなこと嫌なことさせて……、ごめん」
キスの間に謝れば、怜は頬を指先で撫でながら囁いてくる。
「気にしなくて良い。お前は健康になることだけを考えていろ。それに嫌なことじゃない。気持ち良いし、発散も出来る」
発散、と怜は言った。そっか。そうだよな。怜も男だし、アルファだし、そんな欲だって持ってるよな。
「なら、オレもムラムラ? するから、怜、付き合ってよ。ほら、今日研究所でも言ったけどセックスしたい時にしていいよ」
「は?」
この時のオレは、多分、少し自暴自棄になっていたんだと思う。怜ならそんなことしなくて良いと言うと思っていた。けど怜は一瞬目を見開いてから、覆い被さって激しくキスしてきた。
「ん……っあ、ぁっ」
自分がしても良いと言ったんだから、受け入れる。だってもっと触れたいと思っていたのは自分の方だったのだから。でも、少しだけ胸が痛くなった。相手は誰でも良いと怜が考えているのが、少し辛かった。
◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎
授業が終わり昼休みになると、朝日が弁当を持って振り向く。オレと朝日の席は前後ろでオレが朝日の後ろの席に座っている。
机の上にはオレと朝日の弁当が乗っていて、飲み物のペットボトルと水筒も並べてある。兄の土産という海外のお菓子はチョコレートだった。
水筒には温かいハーブティーが入っていて、飲み頃の温度だ。
「高嶺、今日はなんだか元気がないね」
朝日の指摘にオレは水筒を机に戻してから、弁当の包みを開けた。
「そうか?」
これは怜の手作り弁当だ。コンビニ飯で良いと言ったが、栄養がどうの化学調味料がどうのと言って怜に押し付けられている。
嘘だ。本当はとっても嬉しい。仕事で忙しいはずなのに、怜はオレに食べさせることやその内容に妥協しない。
「なあ、朝日……その、し、知り合いの話なんだけど、オメガとアルファがえっと、ヒートでもないのにえっちするのってどんな時だと思う?」
「ん? その二人って番なの?」
「違う」
「んー、ならセフレとか?」
「せふれ?」
聞き慣れない言葉に問い返せば、朝日はサンドウィッチを齧りながら答えてくれる。
「セックスフレンド。エッチするだけのオトモダチのこと。でもまあ、高嶺には関係ない……」
セックスフレンド、略してセフレか! なるほど、言葉を短くして使う、略語なんだ。いやそれより、その関係はオレと怜を表すにはぴったりに思えた。
オレ達はセフレなんだ。
「高嶺? 聞いてる?」
朝日の言葉が耳に入ってこない。セックスをする友だち。友だちというのが怜とは少し違うように思うが、番でもない相手と体調管理のためとはいえセックスをするのだから間違いではないだろう。
そう考えると食欲も無くなって、お弁当の半分も食べられなかった。せっかく怜が朝から早起きして作ってくれた弁当なのに、残すなんて勿体ない。捨てるなんて考えられないので、これは帰ってから食べよう。
「高嶺? ねえ、僕の話聞いてる?」
「ちゃんと聞いてる」
自分が怜とどんな関係なのか、はっきりとした言葉によって形作られたような気がした。
セフレ……セックスフレンド。そっか、オレはどうやってもそこから抜け出せないんだな。でも、怜に番ができるまでは、このままでいたい。そばにいたい。だって、オレは……。
そこで思考をストップさせる。
誰かが開けた窓から、初冬の風が吹いてきた。
ともだちにシェアしよう!

