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第12話

12.偽りの婚約者と、涙の足枷 12.偽りの婚約者と、涙の足枷  オレの通っている高校は、この地域では進学校と呼ばれているような学校だ。聖母園の園長である田辺が進学するならこの高校以外は認めないと言ったので、必死になって勉強して受験に受かったから通えるようになった。  だから、朝日みたいな良家の子女が多く通っている。オメガクラスに在籍している子息のグループがある、その中の一人から呼び出され、屋上へと続く階段へと向かう。  相手は数人いて、その誰もが裕福な家の子ばかりだ。朝日もそのグループに誘われていたようだが、挨拶をするくらいでスルーしていた。  その中から一人前に出てきて、まるで下賤な人間を見つめるような眼差しで見つめていた。  だからオレも不満気な雰囲気を出してみる。 「……こんな場所に呼び出して、なんの用だ」 「僕が誰かわからない?」 「クラスメートだと言うことは、わかる」  オメガクラスの生徒なのはわかるが、関わりがないから名前が全く思い出せない。 「なっ!」 「貧乏人は記憶力も貧相だね。この方はオメガクラスだけじゃなく全校生徒の憧れである山野辺様だよ!」 「しかも、あの山野辺製薬のご子息だよ。孤児のきみなんて足元にも及ばないくらいの資産家の生まれなんだ」  山野辺様と呼んだオメガ以外にも三人いる生徒たちが、口を出してくる。 「そのお金持ちな坊ちゃんが、オレになんの用なんだって聞いてるんだけど」  諍いはあんまり得意じゃない。出来れば静かに学校生活を送りたい。でも、選べるわけでもないし生まれをどうこう言われたら、喧嘩だって買う。 「なんだ、その言い方!」 「いいよ。僕は気にしない。……きみさ、西園寺様の家に居候しているって本当か?」 「サイオンジサマ?」  オレは怜の家に世話になっているが、サイオンジ……ああ、西園寺って怜が大学時代まで使っていた苗字だったと思い出す。 「ああ、怜ん家のことか」  呟きに過激に反応したご子息様は、かぶせる勢いで怒鳴ってくる。小さくて可愛い容姿が台無しだ。 「そうだよ! 怜様は僕の婚約者だ! お名前で呼ぶなんて、きみ本当に失礼だなっ!」 「え? だって、怜がそう呼べって……」  今なんか違和感があったようだが、それが何なのかわからない。あれ? なんか変なこと聞いたような? 「それでも君は西園寺様と呼ぶべきだ!」 「施設育ちの貧乏人!」 「山野辺様は怜様の婚約者で、山野辺家のご子息なんだぞ。頭が高い!」  ご子息グループのもう一人が、指を突きつけてくる。 「……婚約者?」  やっとさっきから感じる違和感がなんなのか理解する。ご子息……山野辺様と呼ばれていたオメガの少年は胸を張ってオレを見下す。 「そう、僕は怜様の婚約者だ。あの素敵な洋館は僕と彼とが住む場所になるんだから、君は出ていくべきだ」 「婚約者……お前が」  目の前のオメガは、とても綺麗だ。肢体は細くて白い肌、長いまつ毛が影を落とす大きな黒い瞳は少し潤んでいて儚げな雰囲気になっている。薄桃色の唇は潤っていてふっくらだ。  前髪がさらりと額にかかり、頬は自然に上気した桜色だった。華奢な手首と長い指、制服の襟から覗く鎖骨がやけに細く見えた。  美しく可憐なオメガが、怜の婚約者だった。 「な、なんだよ、僕が嘘をついているとでも!? この、淫売が! 僕は知ってるんだぞ! お前たち、聖母園のオメガはお金で体を売ってるって! そんな汚い存在のくせに、怜様の隣にいようだなんて烏滸がましいんだよ! この施設育ちの泥棒猫! 怜様がお金持ちだから狙ったんだろうが、そんなこと僕が絶対にさせな……」 「うん、わかった……」 「え?」  恐れていたことが現実になった。怜の生活を見ていたから、きっとお金持ちの人なんだろうと思っていた。怜は優しいから婚約者がいても、可哀想なオメガを見捨てられずに、こんなことになったんだろう。  怜の迷惑になるくらいなら、自分の存在なんて今すぐ消してしまっても良い。 「悪かった。すぐに出ていく」 「そ、それなら良いんだ。あ、僕に会ったことは、怜様に言わないように」 「わかった」  オレみたいなオメガと婚約者が会ったなんて知れば、怜も嫌な気持ちになるだろう。本当にオレはセフレだったんだ。そんなことを怜にさせてしまったことが申し訳なくて仕方ない。 「怜様は西園寺家の御曹司であり、後継者なんだ。きみみたいな人間がそばにいると、余計な詮索をする人間が出てくる。誰にもバレないように出ていくんだ」 「……西園寺家の御曹司? それは大学まで使っていた苗字で、今は西田じゃないのか?」  怜はオレにそう説明していた。苗字が変わったのはなにか理由があると思っていたから、怜に聞くことすらしなかった。 「西田? ああ、後継者に指名された者は西園寺家を跡をつぐ前の修行として、身分を隠して働くと聞いたことがある。そんなことも知らずに、怜様のそばにいたの? ああ、あんたにはそんな話する必要もないか。いずれ追い出すつもりだったんだから」  怜の婚約者である山野辺の言葉が、オレの胸を切り裂く。でも、人の婚約者とあんなことをしてしまったのだ、言い返すこともせず全て受け止めるしかない。  だってその通りだから。  怜が西田だという名前で会社の総務部に在籍していることは知っていたが、企業の御曹司なんて知らなかった。オレにはそんなこと言わなくても良いということだったんだろう。  それにこんな綺麗なオメガが、怜の婚約者なんだ。オレは本当にセフレだったんだ。そりゃそっか。自分なんて汚くて壊れていて、幸せになんてなれない、薄汚れたオメガなんだ。 ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎  今日は怜の仕事が終わらず、ハイヤーを迎えに寄越してくれた。  見知らぬベータの運転手は、オレに対して丁寧に接してくれた。研究所に入る時も、後ろについていてくれたし、出る時も連絡すれば玄関まで迎えに来ると言ってくれた。  でもオレは車を駐車している場所まで一人で移動できるとやんわりと断る。けれど運転手に静かに拒絶される。 「旦那様より決して外で一人にするなと、申しつかっております」 「……怜から?」  にこやかに微笑んでいる運転手は、それ以上何も言わずに後部座席のドアを開けてオレが乗り込むのを待ち閉めてくれた。自分でシートベルトを締めるのは久しぶりで、新鮮な気持ちがする。 「乃花様、今のご生活でご不満などございますか?」 「え?」 「不満などありましたら、どんなことでもわたくしにお聞かせください」 「不満……誰にも言わないでくれますか?」 「もちろんです。ですが、西園寺家に害のないことだけとなりますが……」 「怜の家には全く害はないと思います。……あなたは、西園寺家の方ですか?」 「はい、西園寺家の運転手を代々しております」 「……怜に婚約者がいるのは、本当ですか?」  それなら知っているかもしれないと、オレは緊張しながらどうしても知りたいことを聞く。 「婚約者、でございますか。わたくしは番様とお伺いしておりましたが。まあ、ご婚約者様でも変わりはないでしょうね」 「……そう、ですか」  ほんのちょっぴり嘘じゃないかなと考えていたことが、無惨にも打ち砕かれる。 「ご婚約者様の方がよろしいでしょうか?」 「え? まあ、そうなんじゃないんですか」  呼び出したオメガの子息は、自分のことを婚約者と言っていた。番でも婚約者でも変わりない。怜とずっと一緒にいられる権利を持っているのだから。オレがどうしても欲しいと思ってしまう、その権利をだ。 「承知いたしました。それではご婚約者様とお呼びするようにいたします」 「そうしてください」  きっとあのオメガは喜ぶだろう。そう考えるだけで、胸がキリキリ痛んだ。 「乃花くん、今日は何かありましたか? 体調はどうでしょう?」  研究所に到着して、毎日やっている点滴が終わる頃、村田がやってきてカルテを見ながら問いかけてくる。 「具合は悪くないです」 「顔色も良くないみたいですが」 「具合は悪くないです」 「数値に出てるんですよね。ストレスって心の不調も体に出るんです」 「具合は悪くないです」  他の言葉が思いつかず、オレは同じ言葉を繰り返す。 「……聖母園に関わりがありますか?」  いきなりそう聞かれて、瞬きしたあと首を横に振る。 「ないです。全然関係なくて、……それにオレは元気です」 「そうかなあ」  困ったようにモニターを見ている村田に、こっそりお願いをする。 「怜に言わないでください」 「ん? まあ、患者のプライバシーは守るけど、きみの体調を一番心配しているのは西園寺だってことだけは知っていてね」 「……はい」 「西園寺が今日いないことが嫌なんですか? それなら今すぐ呼び出しますが」 「やめてください!」  怜はオレを助けてから、かなり無理をしていると思う。今日だってなんとか送り迎えをしようとしたのをタクシーでいいからと言って止めたのだ。そうしたらハイヤーを回すからそれ以外には決して乗らないようにと厳命された。 「怜はオレなんかに関わらない方がいいんです」 「……きみ以外に関わる相手なんていないと思うけど」 「村田先生、オレは汚いんです! 汚れてます。今ならわかる。聖母園はオメガを売ってる。あれはヒートなんかじゃない。アルファを喜ばせるために、強制的にヒートにさせられてアルファに売られてたんだ」 「乃花くん」  村田が優しい言葉を掛けようとしているのがわかって、オレはそれを遮る。 「聖母園では、アルファたちにはどんなことだって許された! オレを……、オレたちオメガを傷つけても構わなかった。それは園長が許してたからだ。首を絞められて逃げ出しても、連れ戻された。ナイフで刺されても、止血されてまだベッドに押し込められた。ヒートで頭が沸騰しそうな感覚の中、でも快感なんてどこにもなかった。暴力で辱められた! 指を折るとナカが締まるって言われて、そいつを殺したいほど憎んだ……。なんで、どうして? オレが何したって言うんだ。ただ、オメガに生まれただけで、捨てられて、あんな場所に閉じ込められて、生きていたくなんかなかった……」  握った手のひらを開くと、爪の跡が赤くついていた。そこに涙の雫が落ちてくる。またそれを握り込んで顔を上げた。 「どうしてオレは普通の家に生まれなかったんだろう。そしたら、怜と偶然出会って、恋することだって、出来たかもしれないのに」  こんな育ちをしているオレが、西園寺家の御曹司なんて存在と一緒に生きることなんて出来ない。ほんの少しの間でも、一緒にいられて幸せを感じた。でももうそれは手放さなければならないものだ。  怜は、オレとは違う。  あのオメガが、これから怜の隣にいるのだ。 「乃花くん、西園寺は別にきみの生まれや育ちなんて、気にしな……」 「怜が気にしなくても、オレは気にする。村田さんはアルファが生まれるような家で育ったからわからないんだ!」  八つ当たりのような言葉を投げつけてしまった。それでも村田は穏やかな言葉を続けてくれた。 「……そうですね。私はあなたの気持ちはわからないです。でもあなたの体が悲鳴をあげているのはわかります。今の話は西園寺にはしませんが、もし言えるなら西園寺に話してみませんか?」 「いやだ」  こんな醜い感情を、怜に話せない。話したくない。知られるくらいなら死んだ方がマシだ。 「無理にとは言わないけれど、西園寺はきみの本当の気持ちをきっと知りたいと思うよ」 「い、やだ……。知られたく、ない」 「そうですか」 「村田先生、お願いだ! 絶対に怜には言わないで!」 「安心してください。私は医師として患者の個人情報を漏らすことはありません」 「……ありがとうございます」 「でも、医師として今の状態のきみは見過ごせません。少し西園寺と離れますか?」 「……はい」  本当は離れたくない。優しい怜にわがままを言ってでも、しがみついていたい。  でも怜に軽蔑されたくない。優しい怜の顔が汚いものを見るように歪むところなんて、絶対に見たくない。 「ですが、聖母園のことは別です。あなたの事は伏せて、公的機関に連絡しても良いでしょうか? 聖母園にはまだ幼いオメガの子もいるでしょう?」 「してください。他のオメガを助けてくださいっ」  聖母園の園長や職員がオメガ同士で結託するのを防ぐ為に、食事中や個人の部屋に集まるのを禁止していたが、それでも同じ施設のオメガだ。 「わかりました。だからそんなに悲しまないでください」 「……ごめんなさい」 「乃花くんが謝ることなんてなにもないんです。悪いのは弱い立場にいる人たちを食い物にしようと考える者たちなんですから。きみはそいつらに怒っていい、逃げていい、憎むことすら許される。でも謝ることはない」 「……オレは、悪く、ない?」  そうなのだろうか。いつだって園長や職員にオメガが悪いと罵られていたから、にわかに信じられない。 「きみのどこに悪いところがあると?」  そう問いかけられ、思わず誰にも言えなかった言葉が口をついて出た。 「だって、園長先生はオメガが薄汚くて、男の性を貰わなきゃ生きていけない、淫乱の息子だって。オレに価値なんてない……」 「きみのそばにいた大人は歪んでいたんです。でもきみはそんな中でも歪まなかった。価値なんて他人が決めるものではないんです。あなたの価値はあなたが決めるんです」 「オレ、が……」 「ええ、あなたが、です」 「……よく、わからないです」  自分に価値があるなんて思えない。でも、その価値は自分で決めると村田は言う。怜ならなんて言うだろうか。  きっと優しい怜は、価値があると言ってくれそうだ。でも今はそれすら辛い。  点滴が終わるまで俯いて過ごしたのだった。 ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎  外観は白亜の洋館の怜の家は、階段前の吹き抜けに、繊細な細工のシャンデリアが煌びやかに吊り下がっている。琥珀色の光が、定期的に手入れされたクリスタルをきらめかせ、飴色になるまで磨かれたカーブした階段の手すりや、床まで美しく輝いている。  壁は深い葡萄酒色に染まったダマスク織の壁紙で、思わず手で触れたいくらいだ。ゆっくりと廊下を進み、団欒の場所であるリビングに到着する。  日が暮れた後はアーチ窓から差し込む光もないが、リビングルームはいつだってオレを温かく迎えてくれる。淡い純白の部屋は、オレの作業部屋みたいになっていた。  中央に据えられたソファの定位置に座り、顔を上げて見上げる。初めて座ったソファーの座り心地がとても良くて驚いたことを思い出す。  毛足の長い絨毯の上を歩くと、すごく気持ちが良いことも同時に思い出した。  時代を感じさせる掛け時計の秒針が刻む音だけが響く。  まるでこの洋館が、自分と一緒に誰か大切な人の帰りを待っているかのようだ。  家政婦の三田がリビングに飾った小さな花瓶の薔薇のかすかな残り香が混じり合った空気が、ゆっくりと肺に沈んでいった。 ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎  カチャン……と金属が起こす小さな音が耳に届く。オレはハッとしてソファーから立ち上がり、玄関に急いだ。  怜が帰ってきた。 「ああ、ちゃんといたな。なんだ、寝ていたのか? 体調は?」  廊下から顔を出せば、怜は表情を緩め優しく微笑む。思わず、やっぱり言うのは明日にしようかなんて考えてしまった。  ゴクンと唾を飲み込み、でも怜に視線を向けて言うことは出来ず、床を見つめながら口を開く。 「怜、急なんだけど、オレこの家を出る」 「は?」  急に温度が下がったような声だった。 「今、なんて言った?」  靴を脱いで家に上がってきた怜は、鞄を投げるてるように手から離すと、ネクタイを緩めながら近寄ってくる。 「だ、だからオレはこの家を出るって」  顔の近くに怜の手が打ちつけられた。その音の凄さに体がビクンと跳ねる。でも怜はそれには気づかず、ギラギラした眼差しで恩知らずなオレを睨んでいる。 「なぜだ」  怜が激怒している。その声に眼差しに怒りが混じっていて、アルファの威圧なのか感じる圧力に震えるだけで声が出ない。 「気に入らないことがあるなら変える。欲しいものがあれば与える。言え、なにが不満だ」 「……、ちがっ」 「お前が望むものを与える」  嘘つき、本当に欲しいものは絶対くれないくせに。そんな言葉を出せるわけもなく、オレは口を噤んだ。怜は嘘をついていたわけではないが、婚約者がいることを教えてくれなかった。 「……他に好きな相手でも出来たのか」  辛い出来事に歯を食いしばるような、そんな言葉が怜の口から出てきた。  オレにそんな相手がいるはずもない。でもそうだと言えば、この家を出ていけるかもしれない。カフェでオレを助けてから、怜はオレを助けるのを義務みたいに考えていた。  そんな必要はないのだと、もうそろそろこの優しいアルファに教えてあげないといけない。自分が怜の優しさに甘えてここから離れられなくなる前に。 「う、うん。す、……好きな人が出来た」 「誰だ」  怜の怒りの滲んだ声が怖くて、また体が震えた。でもそんなことを言ってる暇はない。ちゃんと答えて怜に信じて貰わないと。 「や、優しくて、格好良くて、アルファじゃない人」  優しいのも格好良いのも怜のことだ。それ以外といったらアルファじゃない人と言うしかなかった。 「アルファがお前を何度も傷つけたから、アルファじゃない奴を選んだのか」  違う。怜じゃないなら、アルファだろうがベータだろうが関係ない。誰も怜の代わりにはならないのだ。  でもそんなことは言えないから、オレはそうだと言うように頷く。頷いた途端、怜に腕を掴まれて引きずられた。 「な、なに!?」 「黙っていろ」  怜は階段を上がり、オレの部屋じゃなくて、怜の部屋のドアを開けた。広い部屋はシックにまとめられ、大きなベッドが中央に置かれている。 「れ、怜?」  怖いわけではないが、何をされるのかわからなくて怜の名前を呼ぶ。  でも返事はなくて、大きなベッドに投げるように押しつけられた。 「や、やだっ」  婚約者がいるとわかる前なら、怜に触れてもらうことは嬉しいことだった。でも今は辛い。 「いつでもセックスしていいって言ったの、嘘だから! 本当は、嫌だから!」  いつだって怜に触れられるのは喜びだった。  でも誰かの番を、いや怜の番を傷つけたくない。それに自分だって傷つきたくない。 「いや、だっ」  腕を突っぱねて怜の体を引き離そうとして、頬を叩いてしまう。殴り返されると、体が反応してしまった。怜はそんなことしないと頭ではわかっているのに、体は自分を守るためにぎゅっと目を閉じて丸まった。  体の上から荒い息が聞こえた。 「はあ、はあ……っ」 「れー……?」  細めた目で見ると、怜の体もぶるぶる震えていた。それから大きく息を吐き出し、動きが止まる。  どうしたのかと思っていると、何かを堪えるように目を閉じて、それからベッドを降りて、部屋を出て行った。  オレはゆっくりと起き上がって、呆然としてしまう。すぐに怜が戻ってくると、棚の中を探ってから金属音がするものを持って戻ってきた。 「それ……」  怜は起き上がっていたオレの片方の足を掴むと、冷たい金属を足首につけた。 「な、んで……」  ベッドの上で足を引けば、チャラン……と鎖が鳴る小さな音が響く。足枷をつけられたのだ。  息が苦しくてたまらない。目の前が潤んで、涙が溢れそうになる。怜はもうオレを見ることなく、部屋を出ていった。  去っていく怜を呼び止めることも出来なくて、オレは小さく口を開けて苦しい呼吸を続ける。 「……あ……うっ」  苦しくて胸元をギュッと握りしめる。怜が怖かったわけじゃない。怜を怖がってしまったことが苦しい。我慢できなくて目を瞑ると、涙が溢れてシーツにシミを作る。  階段を降りて玄関のドアが乱暴に開かれて閉じる音が響く。大きな音に怯えてしまう自分か嫌だった。その後、車のエンジン音が響いて遠くなっていった。  怜はどこかに出かけてしまった。きっとオレがいるからこの家にいたくなくなったのだろう。  一体怜に何があったのだろうか。オレがここを出ることがそんなに腹立たしいのだろうか。助けてやった黒猫が自分勝手に出て行こうとするのが嫌なのだろうか。  オレは何か怜の気に触ることをしてしまったのだろうか。必死に考えても何も解決策は出てこない。 「う、……うっ」  何度涙を拭いても、止まらなかった。怜はそばにいてくれない。怒ってしまった。それがとても悲しくて、苦しい。いつだって怜はオレのことを考えてくれていた。辛いことや悲しいことから遠ざけようとしてくれたのは怜だけだった。  だからオレだって、怜の邪魔にはなりたくなくて家を出ようと思ったのだ。 「婚約者、いるくせに……」  本当はオレだってここにいたい。ずっといたい。怜のそばにいて、幸せになりたい。  でもそれはオレの場所じゃない。怜には婚約者がいて、大きな会社の御曹司だという。  今の仕事もその為にやっていると、婚約者のオメガは言っていた。 「嘘つき。なんで紐じゃなくて鎖なんだよ。お前のこと殴りに行けねーじゃん」  それほど重くはないが、足首にはしっかりと足枷が付けられている。ベッドに寝転がって、シーツに顔を埋めた。  怜の匂いがする。この部屋はどこもかしこも、怜の匂いでいっぱいだ。あんなにざわめいていた心が少しずつ落ち着いてくる。 「ちゃんと、話そう」  体調も落ち着いてきたので、もう大丈夫だと言おう。村田の治療を受けていれば、そのうち一般的なオメガみたいに生活できるだろう。聖母園に戻るつもりはないから、学校をやめて働き始めよう。贅沢をしなければきっと小さなアパートを借りて生活していくこともできるはずだ。  そんな風に考えたら眠くなってきてしまった。起きて、怜に帰ってきてもらわなければ。こんな時のために、スマートフォンはあるはずだ。  でも隣の自室に置いたままで、今手元にない。 「はあ……」  怜の枕を引き寄せて胸に抱いた。とても心地良い香りがして、ますます眠気が襲ってくる。 「れー……」  無意識に名前を呼んで、オレの意識はそこで途切れた。 ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎  ドアをノックする音で目が覚めた。一瞬どこにいるのかわからなかったが、柔らかい優しい匂いに怜の部屋だと自覚する。 「高嶺様、こちらにいらっしゃいますか?」 「は、はいっ!」  部屋の外にいるのは家政婦の三田だった。慌てて起き上がり、ベッドを出ようとして足枷に気づき、一気に血が下がる。 「あ……」 「怜様より本日はお風邪を召されているので学校はお休みとのこと、お伺いいたしました。学校への連絡はわたくしが行いますが、なにか召し上がられますか?」 「だっ、大丈夫です! 寝てれば治るから、……その、放っておいてください。風邪みたいだから、伝染ると困るからドアは開けないで!」  怜が三田に連絡して、オレがこの部屋から出られないようにしてきたことが悲しい。  でもこんな姿、三田にも誰にも見せたくないから、怜のいうとおり風邪ということにして部屋に閉じこもらなければならない。  三田が「承知致しました。何かありましたらお呼びください」と声をかけて離れていくのがわかる。  無意識に体に力が入っていたのか、ホッとした途端ベッドに崩れ落ちそうになる。  窓を見ればまだ朝早い時間だ。怜は戻ってないようで、ツキンツキンと胸が痛む。 「怜、なんで……」  拾った孤児なんて出ていくと言ったら、喜んで見捨てると思っていた。いや、心の底で優しい怜なら引き止めてくれるんじゃないかと考えていた。でも、こんなことは想像もしていなかった。  もう、どうして良いのかわからない。  なぜ、怜はこんなことをしたのだろう。  婚約者はいても結婚までに時間がかかるから、欲の発散のためにまだオレが必要だった? でも怜はそんなこと望んでいなかった、オレが良いと言った時だって、後で話そうと言ったくらいだ。  怜がしたいなら、なんでも受け入れることはできる。  自分の心が死んでいくとしても、構わなかった。 「本当にオレって最悪」  迷惑をかけたくないと口では言って、心の中では引き止めて欲しいと願うなんて。  やっぱりオレはここにいちゃいけない。婚約者がいる相手を好きになっちゃいけない。 「……すき?」  考えたことを口にして絶望する。絶対に気づきたくなかったことだ。 「違う、違う、オレは……怜なんて好きじゃない、好きじゃない!」  自分を誤魔化しても気づいてしまったことから目を逸らせない。 「……だめ、なのに……」  どうしてもその気持ちを消すことが出来ない。  はあ……とため息をついて、身じろぎすると足枷の鎖が小さな音を立てる。行儀悪く足を上げるとそれに鎖が続いて持ち上がった。その鎖はどこに繋がっているんだろうと体を起こして鎖の先を探す。それはベッドの足に繋がれていた。 「あれ……?」  床に銀色の小さな棒が落ちている。なんだろうと思って、ベッドから降りればそれは小さな鍵だった。まるで足枷の錠にぴったりに思える。指で摘んで差し込むと、カチリと音がして足枷が外れた。 「お前、怜の良心みたいだな」  拾った鍵は怜が落としていったものだろう。わざとなのか、それとも偶然なのかわからないが、どちらでも変わらない。  家の中は家政婦の三田がいるので、外に出るには窓から一階まで降りないといけない。小説で読んだシーツを縄の代わりにして降りる方法を思い出す。  怜が使っているベッドのシーツを剥いで、探したハサミで三本に切って繋ぎ合わせる。  ベッドに繋いである鎖に繋ぎ合わせたシーツの縄を結んで、窓を開ける。肌寒さに震えたが、急いでベランダの向こうに即席の縄を落とす。  怜は優しい。優しいから、オレを助けてくれた。でも、もう、やめなきゃ。目を背けてきたこの気持ちも、頼ることも、甘えることも、全部やめて向かい合わないといけない。  でも、本当に思っていたんだ。怜には幸せになって欲しいと。 「ありがとう、ございました……」  ここから逃げても、行先なんて何も考えていなかった。ベランダから身を乗り出して、縄を掴んでゆっくりと降りていく。  小説と違って、現実はとても大変だった。いつ落っこちるかわからなくて、ドキドキした。他の人から見たら大したことないかもしれないが、オレにとっては大冒険だ。  やっと地面に足が着いた時はふらついて尻もちを着いてしまった。  裸足のままだったが、気にせず歩き出す。門を出て道路に出ると、小石を踏んでしまい足を止めて立ち尽くした。 「いたっ……」  痛いのは嫌いだ。苦しいのも嫌だ。苦手なものが多くて嫌になる。 「高嶺ちゃん!?」  声に振り向くと、怜の幼なじみの光博がまるで散歩の途中ですというような格好で立っていた。 「ど、どうしたの、その格好!」  オレの格好はラフなシャツにスボン、それに裸足だ。しかも小石を踏んで痛みで動けない。 「えっと、その……」  なにか言い訳をしなければならないが、咄嗟に何も出てこない。 「わかった! 何も言わないで良いよ! 今から上着と靴を持ってくるから待ってて! 大丈夫、こんな行動を取らせる怜が悪いことは充分わかってるから! 高嶺ちゃんは心配しないで、ここで待ってて! 本当はこんな寒いところに残していくのは心残りなんだけど、きみにほんのちょっとでもアルファの匂いがつくと、あいつ本気で殺しにくるかもしれないから、俺も命が惜しいからね!」 「は?」 「本当にごめんね。すぐ戻ってくるから!」 「ま、待って……あ」  わけのわからないことを叫んだ後、光博は工房兼自宅の方法へ走っていく。  誰かに助けて貰わなきゃ、外に出て歩くことも出来ない自分に落ち込む。  でも足が痛くて座り込んでしまいそうになる。 「見つけた!」  えっ? と思う間もなく、体を押されて引き倒される。 「ぐっ……!」 「お前の所為で大変なことになった! お前が悪い! お前がなんとかしろ! この薄汚いオメガが!」  引き倒されたまま馬乗りに体を押さえられ、頭を殴られた。必死に目を開けてみれば、それは聖母園の園長である田辺だった。血走った目で憎々しげに睨みつけ、泡を飛ばす勢いで怒鳴っている。 「この、淫売が! お前の所為で!」  意味のわからないことを罵り、何度も殴られる。 「うっ」 「園長先生、そのくらいで。急いでここを離れないと。アルファに見つかるとまずい。アイツらは番をどこまでも追いかける」 「私に指図するな! こうなったのはお前の所為でもあるんだ!」 「私は繋いだだけですよ。選んだのはあなただ」 「煩い!」 「……まあ、この辺りは高級住宅地で人通りは少ないですが、監視カメラはあちこちにあります。ほら、こっちに走ってくる人がいますよ」  かかりつけ医の小田もいて、顎をしゃくった方を見れば光博が必死に走ってくるのが見えた。 「早くこいつを車に乗せろ!」  田辺が怒鳴ると小田がオレの体を引き上げて、車に押し込んだ。抵抗したが、そんなものなんの邪魔にもならず、ドアが閉められた。反対側には田辺が乗り、今にも殴りそうな形相で睨んでくる。 「ひっ」 「あんたをアルファに引き渡したら、お金をくれると言ってるのよ。大人しくあのアルファの玩具になりなさい」 「……」  恐ろしくて震えるばかりで答えることが出来ない。  アルファに引き渡すと言ったが、どのアルファだろう。今まで「適切な相手」として会っていたアルファのことなんてほとんど覚えていない。  でもその中の一人、ギラギラした酷薄な目で見てきた、アルファを思い出して体が震えた。 「あんたの血を見るのが大好きだったアルファだよ。あんたを引き渡せば、私を国外に逃がしてくれると言っていた。だからあんたは大人しくあのアルファのところに行くんだ!」 「い、嫌だ……」  それは小さな声だった。でも反抗する気力戻す、大きな一歩だった。 ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎  高嶺が攫われた場面を見てしまった。なにか訳アリのオメガちゃんだと思っていたが、幼なじみの怜が大切にしているからきっとやっと出会えた運命なんだと思っていた。  人嫌いでオメガ嫌いの幼なじみが、いつもの冷静さを欠いて対応する姿がとても面白かったし、二人で幸せになって欲しいと願っていた。  即座にスマートフォンを取り出して、怜に電話を掛けた。 「怜――ッ!」  名前を叫んだ途端、通話が切れた。手が当たって切れたのかと思いもう一度かけて、ワンコール前に切られたのでこれは故意だと確信する。もう一度かけてもすぐに切られる。 「くそが!」  お前の大切な相手の緊急事態なのに、電話を切ってんじゃねーと怒鳴りたいが、その前にそれを怜に知らせなくてはならない。  通話を諦め、メッセージアプリを立ち上げる。 『たかねさらわれた』  伝えることは一つだけで、変換も何も出来ない。それを送信した二秒後、電話が鳴る。 『つまらん冗談だったら、締める』 「冗談なんかじゃねーよ! お前どこいんだよ。高嶺ちゃんが拐われた!」 『冗談じゃ、ない?』 「いくらなんでも、高嶺ちゃんが拐われたなんで冗談言うか! 今どこだ!」 『すぐ戻る!』  通話の向こう側からエンジン音が聞こえてきた。 「お前、どこいんだよ! あーもう、絶対高嶺ちゃんとなんかあったんだよな。さっき会った時、高嶺ちゃんを置いて靴なんて取りに行かなきゃ良かった。めっちゃ様子がおかしかったぞ。この寒空にコートなし、靴なし、泣いた後がバッチリついた顔! お前に殺されても抱えて家に運べば良かった!」 『……拐った相手と車種は見たか?』 「それなら覚えてる。小太りのおばさんと、なんかくたびれた中年男、車は黒のセダン。ナンバーは……」  覚えていることをスラスラ話すと、怜はどこか別の相手にそれを教えているようだった。 「で、どこいんだ!」 『……そこから一時間くらい離れた場所だ。高嶺を拐った車の進行方向はどっちかわかるか?』 「海のほうに行って、右に曲がった! そこからはわかんない。お前さ、訳ありの番置いて、何してんだ!」 『……足枷つけて、閉じ込めた』 「はあ――っ!? あ、ああ……えっと、とうとう我慢出来なくなっちゃった?」 『高嶺が、出ていくと、言ったから……』 「爆発しちゃったわけね。あれ? でも高嶺ちゃん家から出て、外にいたけど。だから拐われたんだよな」 『……鍵を、落としておいた』 「お前……、本当にもう……」  怜の家庭環境を知っているから、脱力してしまう。アルファの本能に逆らっても、運命を大切にするのが怜だ。 「大切、なんだろ」 『ああ』 「俺に出来ることある?」  すでに車は遠くまで走り去っている。追いかけても方向さえわからない。 『高嶺がそこにいたことがバレているなら、三田さんに家に帰るように言ってくれ。それからしばらく外に出ないようにと。後もうひとつ……』 「わかった。三田さんは任せろ。もう一つもな。絶対取り戻して来いよ。運命なんだろ」 『ああ。必ず』  それ以外で怜があんな態度を取るはずがない。それでも自分を律して、なんとか番を束縛しないように我慢しているところなんて、何度見ても笑いが出てしまうくらいだ。  俺の出来ることはほとんどないけれど、戻る場所を守るくらいはやってやる。 「まあ、西園寺家のアルファだからな。きっと……」  大丈夫だろう。  その時もう一度、スマートフォンが鳴る。なにか言い忘れたことがあったのかと思ったが、今度は違う人物からの電話だ。 「はーい、……西園寺の爺様、なにか用?」  電話の相手は怜の祖父だった。両親からほとんど構われない怜を育てたのはこの人だ。 「は? いや、それ怜にも頼まれたけど……わかった。忠告くらいはするからね」  通話は切れ、握ったスマートフォンをポケットに戻すと、幼なじみに言われように行動したのだった。 ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎  下校時間になって、学校を出て駅までの道を友人たちと楽しげにお喋りしながら歩いている。整った容姿と華奢な肢体、首に巻かれたネックガードで近くにある進学校のオメガ達だとわかるのか、羨望の眼差しを向けてくるものが多い。選ばれた僕と、惨めな一般大衆との違いだ。優越感に唇が笑みの形に変わる。 「山野辺様、今日あいつ登校して来ませんでしたね!」 「きっと今頃、西園寺様の前にはいられない体になってますよ」 「本当に邪魔でしたからね! これで山野辺様が西園寺様の婚約者だ」 「ふふ、こらこらまだ決まってないんだから、そんなことを言ってはいけないよ」 「そうそう。悪巧みは口に出したらダメだよー」  四人の会話に入り込む声は楽しげだった。 「だ、誰っ!?」 「この人が山野辺製薬のご子息だと知ってるの!?」 「あ、でも凄くイケメン」  僕がそう呟くと他の三人もまじまじと見つめてくる。 「ありがとうー。よく言われる」 「なにかご用ですか?」 「ん? そう。きみ達に用があるの」  三人はキャーと騒いでから輝く瞳で期待した眼差しをイケメンのアルファに向けていた。でも残念、友人たちじゃないだろう。容姿もよく、オメガで、良家に生まれた僕に告白するアルファは多い。 「夜道に気をつけな」  冷たい声に、冷水を掛けられた気分になる。 「は?」 「え?」 「なんで、そんなこと……」 「西園寺家のアルファは自分の最愛を傷つけられて、黙ってそれを飲み込むことはしない。徹底的にその相手を追い込む。爺様の運命に嫌味一つ言っただけで、一家離散なんて有名な話じゃないか。若いきみ達だって、知っているだろう」  確かに西園寺様のおじい様は、運命の番をとても大切にしているから、決してその方に近づかないようにと、祖父に言われていた。  でもパーティーで会った孫の怜様はとても素敵でこの人と結婚したいと思ったのだ。生活レベルも落とさずにいられるし、しかも番をとても大切にすると言われている西園寺家だ。  僕の嫁ぐ相手としては相応しい。 「怜もだけど、本家もきみ達が何をしたか知ってるんだよね。そろそろ制裁が始まると思うから、気をつけて。俺はその警告に来たんだ」  優しいでしょ?  イケメンのアルファは、その整った容姿で綺麗に微笑み去っていく。  待って、と呼び止めようとした時、スマートフォンの通話を知らせる音が鳴り響く。それも四人同時だ。  この日から、四人のオメガが学校に現れることはなくなった。

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