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第4話「終わらせる理由」

「あ、春宮凛のハンドクリームだ」 オフの日に立ち寄ったドラッグストアで、突然聞こえてきた凛の名前。思わず反応して声の主をたどると、少し離れた棚の前にいる二人組の女性客だった。 「これいいよ、ちょっと高めだけど」 「凛さんって口は悪いけど、作ってる化粧品はみんな肌に優しいんだよね。うちの娘、敏感肌で日焼け止めで肌荒れするんだけど、あの人のは大丈夫だってさ」 女性客が去った後、湊はその棚の前に立った。 『春宮凛プロデュース、極上ハンドクリーム』『クチコミランキング第一位のロングセラー』という手描きのカードが貼られている。シンプルな白のパッケージに、英語で小さく商品名が記されていた。 口は悪いけど、作っている化粧品は肌に優しい。 そのミスマッチな感じが何故か微笑ましくて、湊は凛のハンドクリームをレジに持っていった。 --- バラエティ番組の収録後、テレビ局の廊下を歩いていると、こちらへ向かってくる人物を見て湊は思わず「あっ」と声を上げた。 「凛さん、おはようございます」 「……おはよう」 今日の凛は攻撃的な雰囲気ではなく、どこか気だるそうだった。疲れているのか眠いのか、テンションが低い。 それでも髪を耳にかける何気ない仕草には、かすかな色気があった。 「そういえば凛さん、俺最近このハンドクリーム使ってるんですけど」 ポケットから三分の一ほど減ったハンドクリームを取り出して見せると、今まで反応が鈍かった凛が、目をしっかり開いて湊を見た。 「これは、僕の」 「評判いいと聞いて使ってみたら、すごく良くて。もうずっとこれです」 「ちょっと来て」 凛は突然湊の手首を掴むと、返事を待たずに強引に歩き出した。 --- 連れていかれた先は、凛の控え室だった。 これからトーク番組の収録があるらしいが、湊は勧められるまま白い机を挟んで向かいの椅子に腰かけた。 「さっきのハンドクリーム、どうやって塗ってる?」 「どう、って……普通に」 「まさか適当に出して、適当に塗ってるわけじゃないよな」 「塗り方って、あるんですか?」 「貸して」 湊からハンドクリームを受け取った凛は、いつもより少し多めの量を湊の手の甲に乗せた。 手全体に広げ、さらに手首まで丁寧に塗り込む。いつもは手首には塗っていなかったので、新しい発見だった。 そして指一本ずつ、根元から指先にかけて優しく引っ張るように伸ばしていく。 その動作はゆっくりと丁寧で、まるでマッサージされているような気分になった。しかも凛の手は温かく、なめらかでしっとりしている。 深く息をつくと、湊の手に視線を落としていた凛と目が合った。 凛がわずかに上目遣いになっているせいで、余計に意識してしまう。気まずいのに、目を逸らせなかった。 「僕が初めてプロデュースした商品が、このハンドクリームだった。性別も年齢も関係なく試せて、日常の中で気軽に取り入れられるから」 湊の手を両手で包み込みながら、凛が静かに語り始めた。 「無香料にもこだわった。香料が刺激になる人もいるし、香りそのものが苦手な人もいる」 女性客の言葉が頭によみがえった。 『凛さんって口は悪いけど、作ってる化粧品はみんな肌に優しい』 テレビや討論で見るような、過激で攻めた凛とは違う。 テレビの中の凛は、言葉で人を切り裂く。 しかし今、目の前にいる凛は、その逆のことをしている。 傷つけないように、慎重に触れている。 「化粧品のプロデュースは、コンセプト設計から成分設定、試作改良、マーケティングまで全部に関わるんだ。名前を貸して任せきりじゃない。僕の化粧品を使って美しくなって、自信を持って前に進んでほしい。一人でも多くの人に」 今まで、こんな凛は知らなかった。 きれいに切り揃えられ、艶のある爪。長い睫毛。淡く色付いた唇。 それ以上に、仕事に対する誠実さと繊細さに、湊は尊敬の念を抱いていた。 「凛さん、俺のことは」 「え?」 「化粧品じゃないけど、あなたのハンドクリームを使ってる俺のことも、そう思ってくれていますか」 凛の手の温もりを感じながら、湊は雰囲気に任せて聞いてしまった。 凛は目を伏せ、少しの間を置いた後——何も言わないまま、湊の手を包む両手にわずかに力を込めた。 離すことも、強く握ることもできないような、不安定な力だった。 はっきりとした返事はなかった。それでも、言葉にできない感覚が湊の胸に広がっていく。 もっと触れてほしい、見つめてほしい。 まだ知らないものをたくさん抱えているであろう凛の存在が、湊の中でまた大きくなる。 こちらからも触れたかったが、今はまだ——その衝動に名前をつけないまま、胸の奥にしまっておいた。 --- あのハンドクリームの余韻が残ったまま、次の討論番組の収録を迎えた。 前回と同じ、湊・凛・相沢の三人だけの討論。しかも今回は相沢が参加者と司会進行役を兼ねるという新しいスタイルだった。 打ち合わせでそれを知らされた時、凛は「何で相沢が」と不満を漏らしていた。 視聴者からの要望らしかった。前回の凛に向けて相沢が放った「テーマからの逸脱はお控えください」という、恐ろしく事務的な口調が一部のファンに刺さったのだとか。いわゆるギャップ萌え、というやつなのか。相沢にも熱狂的な支持層がいることが、よくわかった。 スタジオで、また白いテーブルを三人で囲む。 討論モードに入った凛は、先日ハンドクリームを塗ってくれた時とは別人のように、真正面にいる相沢を鋭い目で見据えていた。隙あらば仕留めてやる、というような目だった。 「今回のテーマは、『人間関係においてリスクを避けることは正しいのか』です」 始まると、凛はいつもと違って慎重に言葉を選んでいた。自分からはなかなか切り出さない。 湊は事前にまとめていた考えを口に出した。 「人間同士って合う合わないはあるけど、リスクとか難しいことを考えてたら上手くいかない気がするんです。俺は気になる人には自分から声をかけて仲良くなろうとします。そうしたいんだから、仕方ない」 無意識に、斜め前の凛を見ていた。 それが良くなかったのか、凛は急に険しい顔で湊を睨んだ。こちらを見るな、と言わんばかりに。 相沢はそんな二人のやり取りを前にして、今日は額に手を当て、視線を落としていた。 考え込む時の仕草ではない。 議論にそぐわない空気が差し込んだのを、一瞬だけ見過ごすように。 関係に変化があったことを見抜いているのだろうか。そう思うと、気まずかった。 「……ずいぶん、能天気な考え方だな。人間関係に苦労したことなんかありませんって顔してるよ」 何かを思い出しているのか、凛の声がわずかに震えていた。 「例え誰かと親しくなったとしても、ある日突然、理由も分からないまま避けられて、関係が終わることもある。だから、どうせいつか壊れる関係なら、自分から終わらせたほうがいい。勝手に期待して、後から傷付く前に。そうすれば被害は最小限で済む。合理的だろう?」 カメラの前で感情を露わにした、いつもとは違う凛の姿に湊は言葉を失う。 一方、相沢はそんな凛を何も言わずに見つめていた。怒るでもなく、ただ真っ直ぐに。 その視線に気付いた瞬間、凛の表情がほんのわずかに止まる。 さっきまであった勢いが、不自然なほど綺麗に切れた。言い切ったはずなのに、どこかで引っかかっているような、妙な間。 凛と相沢の目が合う。 そのまま、お互いに逸らさない。 相沢は何も言わない。ただ、見ているだけだ。 なのにその沈黙が、さっきまでの言葉よりもずっと重く感じられた。 「……凛さんの仰っていることは、一見すると極めて合理的です」 相沢の声に、スタジオの空気がわずかに緩む。 「関係が壊れる可能性を前提にすることで、傷つくリスクを最小限に抑える。ある意味では、理にかなった自己防衛と言えるでしょう」 一瞬、言葉を切る。 「ただし、その前提にはひとつ重要な仮定が含まれています」 凛は黙ったまま、反発するでもなく視線を逸らすでもなく、ただ正面から受け止めていた。 「『人間関係はいずれ必ず壊れるものだ』という前提です。もしそれを前提にしてしまうと、本来築けたはずの関係まで、自ら切り捨てることになる」 「リスクを避けること自体が問題なのではありません。問題は、『まだ起きていない破綻』を確定事項として扱ってしまうことです」 それを聞いた凛の肩が、小さく跳ねた。 「湊さんのように、リスクを理解した上で関係を築こうとする姿勢は、決して無防備ではない。むしろ——」 ほんのわずかな間。 「『壊れる可能性がある』と知りながら踏み込むことこそ、本来の意味での対人リスクの引き受け方だと、私は考えます」 「……あんたが得意な、いつもの綺麗事だな」 凛は視線を逸らしたまま、そう呟いた。 相沢は表情を変えなかった。 「綺麗事に聞こえるのは、否定しません」 わずかに間を置いて、静かに続ける。 「ただ、それでもなお……人は他者と関わらずには生きられない」 「このテーマに、明確な正解はありません。ただ、今のお二人の意見は、それぞれ異なる立場からの現実をよく表していたと思います。視聴者の皆さんにも、ご自身の経験と照らし合わせて考えていただければ幸いです」 相沢の言葉に、凛は何も答えなかった。 ただ、わずかに視線を落としたまま、動かなかった。 --- 収録を終え、家に帰った湊は大きく息をついてベッドに倒れ込んだ。 目を閉じると、あの時の光景が浮かんでくる。 カメラの前で感情を露わにした凛、それを無言で見つめる相沢、沈黙する凛。 湊が知らない『何か』が、二人の間で起きていた。前から何度も共演してきた二人だからこその何か。たった数秒の出来事なのに、胸の奥に引っかかったまま消えない。 無意識に、ベッドのそばに置いていた相沢の本を手に取った。 一度読み終えているが、どの章も密度が高く湊自身にも刺さる部分が多くて、気軽に「良かったです」とは言えないままだった。 真ん中あたりからページをめくっていると、ある一文が目に入った。 『他者との関係において強い不安を抱える人間は、拒絶されるかもしれないという予測を、事実と同じ重さで扱う』 手が止まった。さらに続きを読んで、湊は息を飲んだ。 『いずれ壊れる関係であるならば、主導権が自分にあるうちに終わらせたほうが、損失は小さい』 ——「どうせいつか壊れる関係なら、自分から終わらせたほうがいい。そうすれば被害は最小限で済む。合理的だろう?」 相沢が書いた一文と、今日の収録中に聞いた凛の言葉が、重なった。 言い回しは違う。でも、内容は似ている。 いや、似ている、ではない。 ここまで重なるのは、偶然とは思えなかった。 顔を合わせるたびに敵意を向ける相手が書いた本を、凛が読んでいる可能性は——ゼロではない。嫌っていても、討論の場で戦う相手だからこそ何を考えているか把握しておきたいタイプなら、読んでいる。 ただ、あの時の凛の言葉には感情が乗っていた。ベースは相沢の文章でも、あれは凛の本音から出た生々しい告白だった。抑え込んでいたものが、ほんの一瞬だけ滲んだような。 それを聞いた相沢は、あの場で指摘しなかった。おそらく凛のプライドを守るために。一人の人間としても、討論の参加者としても、一段上の振る舞いだった。 本のページを開いたまま、湊は天井を見上げた。 他にも多くのことが書かれていた本の中で、凛がなぜあの言葉を選んだのか——分からないままで。

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