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第5話「近づくほど遠くなる」
凛が歩けば、空気が変わる。
トレンドの服を着こなし、プロ顔負けのメイクが中性的な顔立ちをさらに引き立てる。評論家でありながら化粧品やカラコンのプロデュースも手掛け、美容系の仕事もしている。とにかく目立つ存在だ。
「ねえ、今の凛さんじゃない?」
「顔面国宝えぐい」
「あー、論破されたい!」
すれ違う女性達が騒いでも、凛は笑顔を向けることも手を振ることもせず、無言でクレープを食べながら歩いている。
肌に良くないからと甘いものはめったに食べないらしいが、今日は「急に食べたくなった」と言い出して買いに行ったのだ。湊も同じ味のクレープを頼んだ。
帽子と眼鏡で顔を隠して隣を歩いているが、クレープの味がわからないくらい落ち着かなかった。
「凛さん」
「何」
「めちゃくちゃ騒がれてます」
「これでいい。注目されなくなったら終わりだ」
しばらくすると、凛のファンだと名乗る女性数人が前に現れた。凛は冷めた目で「邪魔」の一言だけ残し、そのまま横を通り過ぎる。
残された女性達は「今の塩対応最高!」「さすが凛様」とむしろ浮かれていた。
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しばらく歩いた後、凛が足を止めた。
人の多い通りを避け、賑わいの少ない静かな道へ入る。ビルの陰になり、凛が嫌う日差しも届かない。
「……何だか、疲れるな」
「さっきみたいなこと、よくあるんですか」
「ああいうのは慣れてる」
少し間を置いて、凛は続けた。
「……最近、ちょっと面倒でさ」
この人ともっとゆっくり話せたらいいのに。
凛が少しでも『面倒なこと』を忘れられる場所があれば。
そんなことをぼんやりと思っていた、その時だった。
指についたクリームを、凛が何気なく舐め取る。
ほんの一瞬だけ覗いた舌先が、妙に目に残った。
さっきまで考えていたことが、それを見て全部途切れた。
ふいに、並んで歩く二人の手の甲が触れ合った。
狙ったわけではなく、偶然だった。
それでも凛の肩がびくりと跳ねる。一瞬、動きが止まった。
「何だよ、急に」
「すみません、ぶつかってしまいました」
湊が謝ると、凛は何も言わずに舌打ちをした。
何事もなかったように歩き出そうとしたが、わずかにタイミングがずれる。
今日の凛は、どこかおかしい。今までは平気な顔で湊に近い距離まで迫ってきていたのに、いつもの余裕が崩れていた。
「あの……今度、ゆっくり話せる時間取れませんか」
「相沢と三人で?」
「俺と凛さんの、二人で」
「……っ」
凛は俯いて言葉を詰まらせたが、すぐに顔を上げ、強い視線で湊を射抜いた。
「君、調子に乗ってないか」
「え?」
「そうやって距離詰めてくるのやめろ。こっちのペース無視してくるの、無理なんだけど」
「凛さん、俺は——」
「帰る。僕は忙しいんだ」
凛は食べ終わったクレープの紙屑を湊に押し付けると、一人で早足で歩いていった。
途中で一度だけ立ち止まる。
こちらを振り向く気配だけがあって、結局振り向かない。
追うこともできず、湊はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
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「そうですか、そんなことが」
いきなり家を訪ねてきた湊を拒むことなく、相沢はコーヒーを淹れてくれた。
カップから立ち上がる温かい湯気と香りに、少しだけ気持ちが落ち着く。
「俺、やっぱり調子に乗っていたというか……勘違いしていたのかもしれません」
凛と二人で、ただ静かに過ごせればと思っていた。やましい気持ちは一切なかった。
ずっと凛のほうから距離を詰めてきていた。いつの間にか湊も凛を意識し始めて、今日初めてこちらから近づいた途端、予想外に拒絶されてただ驚いた。
ぼんやりとした頭で、コーヒーカップの取っ手に指をかける。
リビングを離れた相沢は、別の部屋から数枚の紙とペンを持ってきた。向かいの椅子に腰かけると、何かを書き始める。
マス目も線もないまっさらな紙に、形も大きさも揃った丁寧な字で書かれていたのは——
『愛着スタイル』
・安定型
・不安型
・回避型
相沢が眼鏡の中心を中指でそっと押し上げる。討論番組でもプライベートでも、今まで何度も見てきた癖だ。
「愛着スタイルというのは、育ってきた環境の影響で身につく、『人との距離の取り方の癖』です」
「安定型は、普通に人と関係を築けるタイプです。ただ、子供の頃に親との関係が良くないと、不安型もしくは回避型に偏りやすい」
相沢はその二つの項目を丸印で囲んだ。
「不安型は、相手に強く依存しやすいタイプです。常に愛されている実感がないと不安になる。回避型はその逆で、距離が近くなると負担に感じる。好意を向けられるほど、逃げたくなる傾向があります」
去っていく凛の背中が、また頭に浮かんだ。胸が苦しくなる。
「これまでの振る舞いと、湊さんから聞いたお話から——凛さんは更にこのタイプに近いと思います」
相沢は『回避型』の下に、新しい言葉を付け足した。
『恐れ回避型』
「不安型と回避型、両方の特徴が混ざり合った、一番複雑で……本人にとって負担の大きいタイプです。愛されたいのに拒絶が怖くて距離を置いてしまう。気持ちと行動が伴わないので、相手を混乱させます」
「……確かに、あの人はそっちのほうがしっくり来る」
相沢は少し間を置いてから、続けた。
「今の凛さんに必要なのは、愛情の量ではありません。『ここにいても大丈夫だ』と感じられる環境です。それがないままだと、今後も他者と深い関係を築くのは難しいでしょう」
そこで初めて言葉を切り、相沢は正面の湊を見た。
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相沢に挨拶をして玄関を出た。
エレベーターのボタンを押す。七階から上がってくるまで、少し時間がかかるだろう。
湊は上着のポケットから、折りたたまれた紙を取り出した。相沢が説明しながら書いてくれた紙だ。言葉だけでは理解しにくかったので、助かった。
改めて読み直すと、新たに付け足されている文章があった。
いつの間に書いたのだろう。
『本当は誰かに必要とされたい』
『愛されたい』
その二行だけ、他の説明とは少し離れた場所に書かれていた。
男の湊から見ても、ため息が出そうなくらい美しく整った文字。
相沢が書いたものだとわかっているのに、凛の心の叫びのように見えて——湊は指先でその文章に、そっと触れた。
なぜか、うまく息ができなかった。
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