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06.キスされたこと

 白い髪に夕焼けの色を跳ね返しながら、ガシュウは街を駆け抜けた。胸にはフレアに買ってもらった弁当を、壊れ物みたいに抱き込んでいる。  息が弾む。鼓動が速い。  フレアにキスをされた。  その事実だけで頭の中はいっぱいで、思考は少しも追いつかない。考えることから逃げるように、ガシュウは全速力で走った。  賑やかな商店街を抜け、静かな住宅街を抜け、その先の貧困街へ入る。地べたで酒を飲む酔っぱらい、道端で眠る浮浪者。荒れた通りも、ガシュウには見慣れたものだった。  ガシュウの家は、その貧困街の真ん中にある。壁は崩れ、窓ガラスはなく、代わりに古びた布が垂れていた。廃墟のような小さな家だ。  建てつけの悪い扉を押し開けて中へ入ると、ガシュウは弁当を抱えたまま寝床へ飛び込んだ。部屋の隅に古い毛布を何枚も重ねて作った、鳥の巣みたいな寝床だ。ガシュウは隠れるように、その奥へ潜り込む。  心臓がどくどくと鳴っていた。  走ったからか。  それとも、キスをされたからか。  分からない。分からないまま、ガシュウは毛布の中で自分の鼓動だけを聞いていた。 「……ガシュウ、帰ったの?」  幼い声が近づいてくる。ガシュウは毛布から顔を出した。 「顔が真っ赤だよ。大丈夫? 走ってきたの?」  ポフだった。  深いブラウンの髪に、同じ色の瞳。白襟のシャツにチェックのハーフパンツ、サスペンダー。継ぎの当たった服ではあるが、ガシュウよりずっと清潔に着ている。幼さの残る顔立ちなのに、目つきだけは落ち着いていた。  返事をしようとしても、息が上がってうまく声が出ない。口だけがはくはくと動く。 「無理しないで。お水とってくるね」  ポフが離れていく。ガシュウは深呼吸した。少しずつ息は整っていくのに、胸の高鳴りだけが収まらない。  戻ってきたポフが、コップを差し出した。 「急に飛び込んでくるんだから、びっくりしたよ。何かあった?」  ガシュウは水を飲み、火照った身体に冷たさが落ちていくのを感じた。 「あのね、ポフ。騎士さまが……」 「ああ、『騎士さま』ね。また会ったの?」  ポフにはフレアの話をよくしていた。ガシュウの話に出てくる『騎士さま』が誰か、もう心得ている。 「騎士さまがね……」  その呼び方を口にした途端、唇が触れた瞬間が鮮明によみがえった。熱がぶり返し、ガシュウは慌てて空中で手をぱたぱた振る。  ポフは慣れた顔で、挙動不審な兄を眺めていた。 「騎士さまが、キ……ち、違う。あの、おみやげ! おみやげくれたんだよ!」  ガシュウは慌ただしく弁当箱を二つ差し出した。 「え、本当に? いい匂いがすると思ってた。食べ物?」 「食べ物! お弁当!」  ポフは床に弁当箱を置き、そっと蓋を開けた。 「すごい……お肉が入ってる。うわあ、おいしそう。……食べていいの?」  信じられないものを見る顔だった。ガシュウは大きく頷く。  ポフが頬を赤らめて、「嬉しい」と笑った。  その笑顔を見た途端、胸の奥からあたたかいものが込み上げた。ポフにこんなものを食べさせてやれるなんて、夢みたいだ。  ――あれもこれも、フレアのおかげだ。  そう思った瞬間、またキスの記憶が重なって、ガシュウの顔は一気に熱くなった。いたたまれなくなって、毛布の巣へ逃げ込む。 「ガシュウ、どうしたの。一緒に食べようよ」 「ガ、ガシュウはちょっと疲れてる。少し休むから、ポフは食べていてね」  ポフは少しだけ寂しそうな顔をした。けれど、その表情に気づく余裕もなく、ガシュウの頭はフレアのことでいっぱいだった。  毛布をかぶり、膝を抱え、目を閉じる。  まぶたの裏に、フレアの顔が浮かぶ。  どういう意味だったのだろう。  ただの挨拶だろうか。  からかわれただけだろうか。  分からない。  でも、これだけは確かだった。  ――うれしい。  真意は分からない。けれど少なくとも、フレアはガシュウを嫌ってはいない。そう思えることが、たまらなく嬉しかった。  友人と呼べる相手もいないガシュウにとって、あの騎士が親しげに接してくれることは、それだけで奇跡みたいなことだった。  男にキスをするのだから、フレアは男が好きなのだろうか。恋人はいるのだろうか。まだいないのだろうか。  もし、まだいないなら――  そこまで考えて、ガシュウは毛布の中で首を振った。  いやいや。  フレアの隣に立つなら、それはきっと、美しくて賢くて、釣り合いの取れる相手に決まっている。顔も性格も残念な貧乏人が期待するなんて、おこがましい。  騎士は国民を護る。  かわいそうな貧乏人に少し親切にしただけなのに、勝手に期待されるなんて迷惑だろう。  そう思うと、胸の奥に申し訳なさが広がった。

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