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32.託す
「どうした」
暗闇を裂くように、フレアの声が落ちた。次の瞬間には長い影が踏み込み、ポフの額に触れている。触れた指先がほんのわずか強張ったのが見えた。
ガシュウは言葉を探したが、喉が詰まって何も出ない。泣き過ぎて息がひくつき、胸が痛い。
その後のことは、ところどころ欠けている。
フレアは着ていたコートを外すとポフを包み、迷いなく抱き上げた。布は毛布よりも重く、外の冷気を遮るみたいに音がした。腕の中に収まるポフが、消えるほど小さく見えて、怖かった。
玄関を抜けた瞬間、夜の空気が刺さった。昼の観光の白さとは違う、路地の影の濃さ。石も土もむき出しの道はゴツゴツしていて、足元が頼りない。
フレアの靴音だけが規則正しく響く。ガシュウはその背中を泣きながら追いかけた。息が切れても、足がもつれても、止まれない。
ポフを失う未来だけが頭の中で膨らみ続ける。
夜間診療の灯りは、街灯より白かった。扉を押し開けると、消毒の匂いが鼻の奥に刺さる。フレアが短く何かを告げ、係の者が走り、ポフはすぐに奥へ運ばれていった。
ガシュウは取り残され、首の鍵を握りしめすぎた痛さに気づいて、ようやく震えた。
病院のベッドに寝かされたポフを、医師が診療する。喉を覗き、脈を取り、フレアと何か話している。内容は頭に入らなかった。聞こうとしても、耳の奥が遠い。
それでもポフは安静に眠れている。呼吸は随分と落ち着いている。
……良かった。
膝から力が抜け、ベッド脇の椅子に崩れるように座った。呆然と、ポフの顔を眺める。自分の指先は氷みたいに冷えているのに、弟の頬だけが熱を帯びている。それが現実だった。赤みは残っているのに、苦しそうな皺がほどけているのが分かる。それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
「ひどい顔だ。少し休んだらどうだ」
フレアの声に顔を上げると、医師の姿はなかった。いつの間にいなくなったのだろう。
「おまえまで倒れたら、面倒が増える」
フレアは隣の椅子に座った。夜の外気を連れてきた男なのに、そこだけ温度が変わる気がする。
ガシュウはぼんやりとフレアを見つめた。灯りを抑えた室内で、金色の瞳だけがはっきり浮かんでいる。
自分の中はぐらぐら揺れているのに、あの瞳は微動だにしない。
「…なんだ?」
見つめていたせいだろう。フレアが怪訝そうに眉を寄せる。
「フレアさま…。なんで、ここに、いらっしゃるの…?」
なんで家に来たのだろう。なんで今ここにいるのだろう。言葉が追いつかず、同じ疑問だけが口からこぼれる。
「はあ…。頭がおかしくなったか、ついに」
フレアは眉間に指を当てて首を振った。ガシュウが「なんで…」と繰り返すと、「ふざけてる訳ではなさそうだな」と呟き、事の経緯を語った。
任務を終えて帰宅すると、居るはずのガシュウが居なかった。しばらく待ったが一向に来ない。嫌な予感がして家に足を運んだ。ノックしても返事がない。ドアノブを回すと鍵が掛かっていなかった。扉を押し開けた。そうしたらおまえは泣いていて、あのこは高熱で寝込んでいた。事態を把握して、すぐに夜間診療に向かい、今に至る――淡々とした説明が、現実だけを並べていく。
「この前、丁度おまえの家に行っておいて良かったな」
……本当にそうだ。
フレアが来てくれなかったら、ポフはどうなっていたのか。想像したくない未来を思い描いて、背筋が冷えた。今、隣にフレアがいてくれる事が、どれほど有り難いか。
ガシュウは金色の瞳を見つめる。揺れてしまう自分とは違い、真っすぐで、頼もしい。
瞳が近づいてきて細められる。吐息が当たるほどの距離まで来て、触れそうだと思い、思わず目を閉じた。
コン、コン。
ノックの音が病室に響いた。
触れることなく、気配だけがすぐに離れていく。胸の奥に、物悲しさが残った。こんな時に何を考えているのだろう。
病室のドアが開いて看護師が入ってくる。
「ご家族の方ですか?」
「はい!」
反射で立ち上がってしまい、声が裏返った。
「こちらが入院契約の書類になります。よくお読みになって必要事項の記入とサイン、拇印をお願いします」
数枚の書類を差し出され、腕を伸ばして受け取った。「明日までにお願いします」と言い残し、看護師は退室していった。
「入院、けいやく…」
契約。
そういえば、フレアとはそのような関係だった。どうしてそんな関係になったのか、うまく思い出せない。思い出そうとすると、なぜか痛い。どうだっていい。今、フレアが隣にいるのだ。
紙の束を握る指が、力の入らない手のまま震える。
ぼんやり眺めていると、背後から手が伸びてきて書類を奪っていった。振り返るとフレアが読み進めている。速い。迷いがない。
「どうせ、おまえには分からないだろう。手続きは俺がやる」
その通りだ。フレアのおかげでポフは今ここにいる。ガシュウは役に立たない。何も…。
情けない。けれど、事実だ。ガシュウでは駄目だ。ガシュウでは…。
「お願いいたします」
深々と頭を下げた。
ガシュウは、ポフの、全てのことを、フレアに託すしかなかった。
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