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33.刻む
フレアは書類に目を通した。
医師の話では、弟の病状は深刻ではない。だが慢性的な栄養失調があり、しばらく入院させたほうがいいという。
そのほうがいい。ガシュウの家の状況を思えば、入院しているほうが、よほど人間らしい暮らしになる。
一緒に聞いていたはずのガシュウが「入院だなんて……」と不安げに呟いた。医師の言葉を、理解していない顔だ。
安心させてやる義理はない。
「医師の説明どおりだ」
それだけを返す。
「……俺は帰る。書類は明日、任務終わりに持ってくる」
付き添ったところで変わらない。明日に備えて寝たほうがいい。
ガシュウが両手を添えて頭を下げた。
「フレアさま。本当にたくさん、ありがとうございました」
白い髪が揺れて、首の鍵が鳴る。フレアは視線を落とした。
紙面には「入院契約の誓約書」とある。
契約。
なぜガシュウと契約関係になったのか。思い起こされるのは、裏切り者に罰を与えるため――だったはずだ。だが肝心の“裏切り”の輪郭が曖昧で、代わりに自分の欲望だけが、ずるりと前に出る。
そこから先を辿るのが怖ろしくて、フレアは「契約」を隠すように書類を伏せた。
翌日の夕刻、記入済みの書類を手に病院へ向かった。
昨夜と同じ、扉に「フォレスト」とある病室。ノックしてから入る。
椅子に座ったガシュウと、ベッドで身を起こした弟の視線が集まった。夕食時だったのだろう。ベッドサイドのテーブルに空の皿。食欲が戻っている。
ガシュウが立ち上がる。
「フレアさま」
片手で口元を隠して、頬がもごもご動いた。弟の食事に付き合っていたらしい。
フレアは一度だけ視線を刺して、弟へ戻した。
「体調はどうだ」
「安定しています。フレアさんが病院まで運んでくれたって、ガシュウから聞きました。どうもありがとうございます」
弟はゆっくり頭を下げた。
「子供がそんなことをする必要はない。顔を上げろ」
弟は、はにかむように姿勢を戻す。
「横にならなくて大丈夫か」
「はい。今は落ち着いています。熱もずいぶん下がりました。でも、また上がるかもしれないって、お医者さんが言ってました」
「そうか。安静にしろ」
言い切ってから、間を置く。
「……今、話をしても平気か」
「はい」
フレアは奥の椅子に座り、ポフの目線に合わせた。
「入院手続きの書類だ。俺が代理で記入してきた。保護者欄だけ確認が要る」
「ありがとうございます」
弟は礼を言った。今度は頭を下げない。大人に余計な負担をかけない距離の取り方が、すでに染みついている。
しっかりしている。しっかりした子供は苦手だ。
昔のフレアも、しっかりした子供だった。
「フレアさま」
ようやく口の中を飲み込んだガシュウに名を呼ばれる。フレアは一度だけ視線を向け、すぐ弟に戻した。
「確認する。おまえの後見人は誰だ。今、保護者として署名できるのは誰だ」
そう言いながら、顎でガシュウを示す。
「……こいつで通るのか」
「こいつですよ」
ガシュウが謎の返答をした。無視する。
弟が小さく息をのんだ。伏せた目を上げ、真っ直ぐこちらを見る。
「ガシュウは後見人ではありません。弁護士の方が後見人になっています。でも、今は連絡が取れていなくて……」
「なぜだ」
弟の指先が震える。
「あの……僕の両親の遺産が、その弁護士さんに引き出されたんです。それ以来、連絡は取れていません」
「……横領か」
「僕には難しくて、詳しいことは分からないんです。でも、遺産が弁護士さんの手に渡ったこと自体は、正式な手続きが踏まれていて……法的に問題がないそうです」
言葉は整っているのに、悔しさだけが隠しきれない。
「弁護士がそう言ったのか」
「ううん。ボランティアの生活員さんが気にかけてくれていて、その人が調べてくれたんです。でも、その人は法律の専門家じゃないから、それ以上は分からなくて……」
「……そうか。分かった」
予想外に面倒な話だ。フレアは顔をしかめた。
だが、その複雑さが、妙に、胸の奥を軽くした。
仲睦まじい兄弟。寄り添う姿。あの家の中で、そこだけ灯っていた色。
あれが、どこまでも“綺麗なもの”として立っているのが、気に食わなかったのかもしれない。
弁護士だの、遺産だの、横領だの。
十二歳の背に乗るには重すぎる現実。
――良かった。
この兄弟も、綺麗ごとだけでは生きていない。
そんなことで安心する自分が、ひどく嫌だった。
良かったとは何だ。悪趣味だ。
フレアは息を吐き、喉の奥に残った安堵を押し潰すようにした。
「大丈夫よ、ポフ。なんとかなるよ」
黙っていたガシュウが、やけに明るい声を出す。
「うん。そうだね、ガシュウ」
弟もにこやかに返した。
そのやり取りが、余計に刺さる。弟は“子供の顔”を選んでいる。弟の負担が、会話の底に沈んでいるのが見える。
フレアは視線を落とし、書類をベッドサイドのテーブルに置いた。
「なら、保護者欄は俺の名で通す。後見人が不在なら、代理として俺が署名する」
騎士の職は権限が強い。通るはずだ。
ペンを走らせる。
「今後も何かあったら、手続きは俺の名で通せ」
「いいんですか、フレアさん。そこまでしてもらうなんて……悪いですよ」
「子供が遠慮するものじゃない」
淡々と進めるフレアに、ガシュウが割り込む。
「ポフの保護者はあたしです! フレアさまは取らないでください」
騒ぐ声を気にも留めず、フレアは書類を整えた。
「ふふっ」
弟が笑った。
その笑顔が、居心地悪い。ひまわりみたいに、まっすぐすぎる。
フレアは目を逸らす。自分の中の“嫌な安心”を見られた気がした。
書類を持って立ち上がる。
「これを受付に渡したら、俺はそのまま帰る。おまえも来い」
ガシュウの瞳を絡め取って離さない。
「でも、ポフが……」
ガシュウの逡巡を、弟の声が遮った。
「従者の仕事の時間でしょ? しっかりフレアさんの役に立たないとね。……お仕事、頑張って。ガシュウ」
背中を押されるようにガシュウが立つ。
「明日、絶対絶対また来るからね。ポフ、元気でいてね」
永遠の別れみたいに抱きしめて、別れを惜しむ。
終わりそうにない挨拶に見切りをつけて、フレアは先に扉を出た。ガシュウが慌てて追ってくる。
胸の奥に、奇妙な充足が残った。
“助けた”からではない。
“名を入れた”からだ。
ガシュウの大切なものに、自分の名前を刻んだ。それが、気持ち悪いほど嬉しい。
受付で、フレアは入院契約の書類を丁寧に渡した。
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