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36.お礼
ノックの音がして看護師が入ってきた。
ガシュウは会釈をした。
看護師は食事を食べ切ったことを確認すると、空の食器を下げて出ていった。
金属の台車が廊下を転がる音が遠ざかり、扉が閉まって、また静けさが戻る。消毒薬の匂いだけが、部屋に残った。
ポフは毛布の端を指でつまみ、折り目を整えてから、やっと口を開いた。声が小さい。
「あの、さ。ガシュウ。フレアさんは、もうお見舞いには来ないのかな」
ガシュウは一瞬、言葉が詰まった。喉の奥に何かが引っ掛かる。
フレアの顔が浮かぶ。あのぶっきらぼうな目。来ると言ったわけでも、来ないと言ったわけでもない。約束にならない、曖昧なままの距離。
「あたしね、いつもポフのこと話してるの。一緒にお見舞いに行きませんかって聞いたこともあるのよ。でもフレアさまは、ガシュウの話だけで十分だって」
「そっか」
ポフの返事が、軽いのに重い。聞き分けのいい声が、余計に苦しい。ガシュウは笑って受け止めたいのに、頬の筋肉が固まった。ポフの前では、空気を沈めたくない。
「ポフが望むなら、ガシュウが頼み込むよ。ポフは、フレアさまに来てほしいの」
言い切ってから、ガシュウは自分の声の明るさに驚いた。明るさで押し切ろうとしている。いつもの癖だ。
「そうじゃなくて……本当はフレアさんに直接相談しようと思ってたんだ。でも」
ポフが視線を落とし、指先を握った。爪が白くなる。いつもは本に向けるその指が、今は怖いものを押さえ込んでいる。
「親切にしてもらった上に、こんなこと相談するの、心苦しいから。……入院費のこと」
ガシュウは、息を飲んだ。
入院費。考えていなかった。病院に運ばれて、医師の言葉を聞いて、書類が出てきて、全部が流れるように進んで、そこに金が必要だという当たり前が、頭から抜け落ちていた。
呆れが湧く。自分に対しての呆れだ。何も考えていない。気が回らない。ポフの前で笑っている場合じゃない。
笑って、安心させたつもりで、肝心なことから目を逸らしていた。
「ポフが悩むことじゃないよ」
ガシュウは、いつもより少し低い声を出した。怖がらせない程度に、でも揺れないように。声が揺れると、ポフが拾ってしまう。
「ガシュウが、フレアさまに話す。……お願いする。入院費のこと」
言った瞬間、胃の奥がぎゅうっと縮んだ。頼みごとは苦手だ。しかも、お金の話。
ポフは小さく頷いた。
安心したのか、申し訳なさが増したのか、どちらか分からない顔だった。
「ごめん。……こんなこと」
「ううん。言ってくれてよかったよ」
ガシュウは笑ってみせた。笑い方が、うまくいったかは自信がない。
病室を出て廊下を歩きながら、ガシュウは別のことも考え始めていた。
礼がしたい。頼りっぱなしだ。
ポフが倒れてから入院するまで、フレアにずっと助けられている。何も返せていない。口で礼を言うだけでは足りない。足りないと思うのに、足りないと口にするのも怖い。
でも、金も贈り物も意味がない。
高価なものは買えないし、支払い主はフレア自身だ。これから金の相談をしようという時に、無駄遣いもできない。何か形にするなら、フレアの負担を減らす形がいい。
礼。礼とは何だ。
白い廊下の窓から差し込む光が、床を四角く切っていた。そこを踏まないように歩く。病院の床は妙に滑る。
ふと、思い出した。
フレアが家に来た時、ポフが部屋を片付けてくれていた。頼んでもいないのに。あれが嬉しかった。嬉しくて、胸が熱くなって、泣きそうになって、笑ってごまかした。
誰かが自分の生活の汚れを、黙って拾ってくれる。あれは、贈り物だった。叱らないで、見捨てないで、ただ手を動かしてくれる優しさ。
そうだ。
片付けをしよう。
フレアの家は、足の踏み場もない。
散らかり方が、清々しいほど堂々としている。片付け甲斐がある。部屋がきれいなのは、誰だって嬉しいはずだ。
病院を出て、まっすぐフレアの家へ向かった。
何も入院費のためだけじゃない。
フレアはきっと喜ぶ。喜ぶ、というより、少しだけ息がしやすくなるだろう。
首から下げたチェーンに指をかけ、鍵を手に取る。
金属が冷たい。病院の冷たさとは違う。指に馴染んだ冷たさだ。
フレアの家の鍵穴に差し込んで、回す。いつもより音が大きく感じた。ガチャリ。中の静けさが、こちらを待っていた。
意気揚々と扉を開けた。
隙間から空気が流れ出てくる。埃と布と、乾いた生活の匂い。家の匂い。人の気配が薄い匂い。
扉が軋みながら開ききると、散らかった部屋がそのまま押し寄せた。床に転がった衣類、積み上がった紙束、空の瓶。足の置き場がない。
いつも通りの光景だ。
――これを、きれいにしておけば。
フレアが帰ってきたとき、眉間の皺がゆるむだろうか。
「助かった」とか言うかもしれない。言わなくても、顔が少しマシになるはずだ。
フレアは、こういうの、嫌いじゃない。たぶん。うん。
ガシュウは扉を背中で押して閉めた。鍵はかけない。すぐ帰ってくるから。
袖をまくって、手を叩く。
「よし!フレアさまがびっくりするほどきれいにしちゃいますよ」
言葉にすると、少しだけ勇気が出る。帰ってきた時のフレアの顔が、楽しみだ。
鼻歌まじりに一歩、部屋へ踏み込んだ。
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