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37.錯乱

 任務終了の時刻になり、フレアは更衣室で帰り支度をしていた。  複数の足音が近づいて、フレアを囲むように止まった。  古参の騎士どもだ。  狭い通路を塞ぐみたいに輪ができる。  「普段の態度がなってない」 誰かが言った。別の誰かが笑った。肩当てが擦れて、金具が鳴る。  フレアは返事をしなかった。  腰のベルトを締め直し、手袋を畳む。早く出たい。それだけだった。  額に、指が当たった。こつ、と軽い音。 続けて、もう一度。ふざけた力加減。周りが面白がっているのが分かる。  抵抗しても、得はない。  満足するまで放っておくつもりだった。  だが、三度目の指が、髪を掴むようにして頭を揺らした。  フレアは手を止めた。  一番前で偉そうに顎を上げている男に目を付ける。 拳を振った。顔に入った感触が骨に返る。  途端に、取り巻きが一斉にかかった。腕を掴まれ、背を押され、拳が飛ぶ。  それでもフレアは、標的だけを追った。  押し倒されても、視線を離さず、腕を伸ばして殴り続けた。  怒鳴り声が割って入った。 上官が止めに入る。  掴まれた腕が引き剥がされ、距離ができた。  フレアは息を吐いた。口の中が切れている。鉄の味が広がる。 溜まった血を、床に吐き捨てた。  取り巻きの連中は、顔色ひとつ変えない。  無傷だ。 標的にした男だけが、膝をつき、口元を押さえて呻いていた。  いい気味だ。  上官が全員を見回し、始末書を命じた。 フレアの名も、そこに並べられた。  被害者のはずの自分までが書かされる。  腹の底がざらついたまま、フレアは家へ帰った。  更衣室の金具の音も、始末書の紙の感触も、まだ皮膚に残っている。口の中の鉄の味が消えない。  自宅に着くと、鍵を出さずにノブを回した。引っかかりなく開く。ガシュウがいる時はいつもそうだ。  それだけで、呼吸が少し楽になる。  扉の向こうにいる顔を見れば、今日の出来事は薄まる。薄まってくれればいい。そう思った。 「フレアさま、おつとめご苦労様です」  弾む声が寄ってくる。  フレアは深く息を吐いてから顔を上げ――そこで、止まった。  床が見える。  家具が立っている。  空気が、通っている。  部屋が、きれいになっている。  息を吸うことすら出来ない。  視界だけが先に働いて、体が追いつかない。指も足も、動かし方が分からない。  なぜ。  脳が答えを探しているのに、何も見つからない。  散らかっていたはずのものが、ない。あったはずの山が、ない。  ――香水瓶。  ――割れた額縁。  ――封の切れた手紙。  床の端に転がっていたもの。棚の下に押し込んでいたもの。見ないふりをしていたもの。  それが、見えない。  そこにあったはずの「重さ」だけが消えている。  なぜ。  なぜ、片付けた。  ガシュウの声が、遠くで鳴っている。 「ガシュウは頑張りましたよ」  自慢げに身を揺らしている。褒めてほしい仕草。善意の顔。  なぜ。  喉の奥が冷える。  更衣室で殴られても折れなかったものが、ここで折れそうになる。理由が分からないのに、何かが崩れる。 「誰が……」  絞り出した声は、自分でも驚くほど冷えていた。 「誰が、こんなことをしていいと言った」  ガシュウはきょとんとしている。理解していない。理解できるはずがない。  部屋が片付いた瞬間、両親との思い出が片付いたようだった。  思い出?  あんなに嫌っていた両親の、思い出?  要らない。そんなものは要らない。  思い出など、ない。なくていい。  そう言い切りたいのに、胸の奥が空っぽになる。支えていたものが、抜け落ちる。空っぽの穴に、冷たい空気が流れ込んでくる。  なぜ。  自分が自分でなくなる。  ガシュウは明るい調子で喋る。 「本当はあたし、片付けは苦手なんです。でもね、フレアさまに喜んで欲しくて。前にポフがうちを片付けてくれたのが、あたしは嬉しくって。だから、このおうちもきれいにしたら、フレアさまも嬉しいってお思いになるでしょう」  言葉が、耳をすり抜ける。  理解するより先に、胸の奥に火がつく。    勝手に――  母も父も、最後は勝手に出て行った  出ていく時の背中は、いつも静かだった。  言い訳もしない。振り返りもしない。  残されたのは、選ぶことを奪われた自分だけ。  息が先に出た。  声が出せているか分からない。 「……勝手に」  喉が震え、次の瞬間、腹の底から声が出た。 「勝手に決めるな!」  視界が狭まる。手が動く。頬を叩く衝撃。  ガシュウが倒れた。倒れる音が、きれいな床に響く。  見上げた顔は、何が起きたか理解できていない。  理解できないまま、痛みだけが届く。  頬をおさえるガシュウの腹を蹴り上げた。薄い体は宙を浮き、転がっていった。  うめき声をあげて、腹を抱えている。吐きはしなかったが、口からは涎が垂れている。  そんなガシュウに構わずに服を剥ぎ取った。上も下も取り払い裸にした。  息が荒いのは、自分かもしれない。  フレアも服を脱ぎ捨てた。   ガシュウを蹴飛ばして、仰向けにさせる。  ペニスをしごいてやった。暴れるから頭を押さえつけてやる。  上下する速度を上げて、早急にいかせてやる。   ガシュウはうめき声とも喘ぎ声ともとれる声を発していた。悲鳴かもしれない。  射精したガシュウの精子を指に絡め、尻穴をほぐした。  雑にかき回して、指が二本入ったところで引き抜いた。ペニスを挿入した。  深く挿れて、すぐ激しく動く。  なぜ。  なぜ、こんなことをしているのか。でも、止まったら壊れる。何が壊れるか、分からない。  体をかき乱すものを全て吐き出してしまいたい。  首を絞めると気持ちが良いとどこかで聞いた。快楽を求め、ガシュウの首に手をかけた。  可哀想なくらい細い首は、軽く力を入れるだけで折れそうで、不安を煽った。  それでも力を入れて絞めてやった。  力を込めるほど、ガシュウの中が締まった。  快楽に、不安が上書きされていく。  欲望のままに打ち付けて、打ち付けて、射精した。  奥で出して、溜めていたものを、吐き出した。  出し切りたくて、ゆるゆると動かして、残ったものを全て出す。  それから、引き抜いた。  首から手を外すと、ガシュウは動かなかった。  息が止まって、フレアは我に返った。  まさか、と思って顔を近づける。胸が、動いている。微かに上下している。  そこでようやく、肺が空気を思い出したみたいに息を吐いた。  喉が鳴る。吐き気が上がる。拳が痛む。  ガシュウは気を失っていた。  閉じられた目に、涙の跡がある。乾ききらずに光っている。  ――何をしているんだ、俺は。  言葉にした瞬間、体が冷えた。足の裏が床に貼りつかない。  座り込めば終わる気がして、立ったまま震える。膝が笑って、指先がうまく開かない。  怖い。自分が怖い。  ガシュウが起きない。起きなくてもいい。起きたら、俺を見る。  俺を見て、あの目で――怯える。  その想像だけで、胸が詰まる。呼吸が浅くなる。  違う。俺は、守る側だ。  そう思い込んでいた。そうでないと困るから。  なのに今、床に転がっているのはガシュウで、立っているのが俺だ。  恐れていた父親のように、自分は恐ろしい存在になってしまった。  “ように”じゃない。もう同じだ。  いや、もっと酷い。俺は自分で選んでやった。    その事実が喉を締める。舌の根が痺れる。  泣くな、と頭の奥で命令する声がして、同時に、泣け、と別の声がする。  どちらにも従えず、ただ目から溢れた。  涙が落ちる。  落ちても拭えない。拭う手が汚い気がして、動かせない。  泣いている。  幼い頃の自分が泣いている。  違う。  そうじゃなかった。  今までずっと、自分は泣いていた。  怒りにして、冷たさにして、仕事にして、殴る手にして。  そうして、泣いていた。  いったい誰が慰めてくれるというのか。  いったい誰が誰を護るというのか。  護ると言いながら壊したのは俺で、壊されているのに笑ったのはガシュウだ。  息を吸うたびに、部屋の空気が軽い。片付けられた空気だ。  軽いのに、胸の中だけが重い。    俺がここにいる限り、何も戻らない。  香水瓶も、額縁も、手紙も。見えない。  整った部屋は、初めから散らかっていなかったようで――空っぽだった。

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