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38.破綻
ガシュウが目を開けると、朝だった。
天井が高い。光が白い。匂いがいつもと違う。何かが、整いすぎている。
なぜか床に寝転んでいた。なぜか裸だった。何もまとわない体は、ひどく心許ない。
起きようとして、体中に痛みが走る。腹が痛い。首が痛い。体の奥が痛い。あちこちが痛い。息を吸うだけで、どこかがきしむ。
なんで。
思い出そうとすると、今度は頭が痛くなった。熱い痛みではなく、奥のほうを握られるような痛み。考えるな、と脳が言っているみたいだった。
手をついて、なんとか半身を起こす。床が冷たい。皮膚がひりひりする。
そばに自分の衣服が落ちているのを見つけた。痛みに耐えながらローブだけなんとか被って、体を隠した。
衣服をまとうと、少し、冷静になる。視線を動かして、ようやく分かった。
……ここは、フレアの家だ。
見慣れないのは、昨日、自分が片付けたからだ。
床が見える。家具が立っている。瓶も紙も、まとまっている。自分がやったことのはずなのに、他人の家みたいに思える。
喉が痛い。口の中が乾いている。声を出すのが怖い。
それでも、そっと呼んでみた。
「……フレアさま」
掠れた声が出て、自分で驚く。
目の前のソファに、フレアが座っていた。前屈みで太ももに肘をついている。下を向いた顔は、どこを見ているか分からない。いつも鋭い金の瞳は、今日は力がない。目の下に隈があった。寝ていないのだろうか。
フレアが、ゆっくりこちらを見た。
目が合った。
フレアは目を細めて、やわらかく微笑んだ。
そんな顔は、初めて見た。
胸の奥が、ふわっと温かくなる。嬉しくて飛び起きようとした。けれど体が痛んで、情けない声が漏れた。
「おはよう」
フレアの声は、ゆったりしていた。なんて穏やかな空気。
元気よく返したいのに、痛さで息が混じる。
「お、おはようございます……」
フレアの視線が外れた。窓のほうへ向く。笑みは消えて、表情が薄くなる。
その横顔を見て、さっきの微笑みが夢だったみたいに思えてくる。
「契約は、もう、終わりにしよう」
言葉が、頭に入ってこなかった。
「……え?」
なんと言った。
終わり。
契約。
ここに来なくていい。フレアの相手をしなくていい。
そういう意味だ。胃の奥が冷える。
「な、なんで……。あたし、昨日……」
昨日のことを口にしようとして、喉が詰まった。思い出せない。思い出したくない。けれど、痛みだけが残っている。
「……弟の入院費のことが心配だろう」
フレアは淡々と言う。
「安心しろ。もう払ってある」
払ってある。
その言葉がありがたいはずなのに、嬉しくない。胸がざわざわする。フレアは目の前にいるのに、遠い。
「……これは俺のエゴだ。お前には関係のないことだ。気にするな」
突き放す声だった。
そして、立ち上がる気配。
「待ってください、フレアさま。契約が終わるって、そんな、急に……」
拒否の言葉を口にした。拒否していい立場じゃないのに。怖くて、言葉が勝手に出た。
フレアとの関係が終わる。どうして。自分が何かしたのか。悪いなら謝る。何度だって。謝るから。
「お願い。話を、聞いてください……」
フレアは返事をしなかった。玄関のほうへ歩いていく。
ガシュウは痛む体を引きずって追いかけた。
「フレアさま……!」
扉が開いて、冷たい空気が入る。
外へ押し出されるみたいに、視界が揺れた。
次の瞬間、扉が閉まった。
内鍵が掛かる音がした。
外に出されて、呆然と立ち尽くした。それから慌てて扉を叩いた。
「待って、待ってください!入れてください!話が……」
どんどん叩いても、反応がない。
合鍵はある。けれど、フレアが鍵を掛けた以上、今は開けてはいけない気がした。開けたら、もっと壊れる気がした。
扉の向こうは、静かだった。
耳を当てても、足音すらしない。
時間だけが過ぎる。
そろそろ、ポフの見舞いに行かなければならない。
ざわざわした気持ちのまま、ガシュウはフレアの家を離れた。
自宅には寄らなかった。寄れなかった。誰もいない部屋に戻ったら、戻れなくなる気がした。
病院へ向かう道は、いつもより長い。足音がやけに大きい。胸の中が、空洞みたいに鳴る。
病院の白い匂いが、今日はきつかった。
病室の扉をノックして入ると、ポフが笑った。
「今日は早いね」
その笑顔を見た瞬間、堪えていたものが決壊した。
ぽろぽろと涙が落ちてしまう。止まらない。口を押さえても、頬を伝ってしまう。
「ガシュウ?どうしたの」
ポフが慌てる。ベッドから身を乗り出しそうになる。
首を振って、笑おうとした。うまくいかない。
何をどう話せばいいか分からなかった。
フレアが契約を終わりにしたこと。追い出されたこと。自分が昨日、何かをしてしまったこと。痛い体。怖い心。全部が絡まって、言葉にならない。
だから、逃げた。逃げる言葉を選んだ。
「……ポフが、早く元気になりますように、って」
願いの言葉にすり替えた。
それしか言えなかった。
ポフは、少し目を丸くして、それから、やさしく笑った。
「心配かけてごめんね。僕は大丈夫だよ。先生も、ずいぶん良くなってるって言ってた」
慰められてしまった。
病床の弟に。
胸の奥に、罪悪感が滲んだ。自分が泣いたせいで、ポフが気を遣っている。責任を背負わせたみたいだ。
自分が、とてもずるい人間だと思えた。
ひとりの家に帰るのが怖い。ポフのいない夜が怖い。フレアがいない朝が怖い。
その怖さを、ポフの前で漏らしてしまった。
ポフの手が、ガシュウの指先に触れる。
小さくて、温かい。
その温かさにすがりながら、何も言えずにうなずいた。
ポフの笑顔が、まぶしい。
まぶしいほどに、胸が痛い。
フレアに言われた「終わりにしよう」の声が、まだ耳の奥に残っている。
怖い。現実はいつだって、恐ろしい。
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