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39.空っぽ

「そろそろ、フレアさんのところに行く時間でしょ」  元気のないガシュウを勇気づけるようにポフが背中を押した。  ポフに本当のことなんか何も言えなくて、ガシュウは黙って頷いた。「また明日来るね」と不器用に笑って病室を出た。廊下は自分の足音だけが響いていて、空気が冷たい。  どこに向かうのか。今朝、「終わりにしよう」とフレアに言われた。話し合う勇気が出なくて、フレアの家に足を運べなかった。  フレアの家に行く時間なのに、自宅へ帰った。鍵があるのに、行けなかった。  明かりも付けずに床に座り込んだ。  体が鉛のように重くて動かない。なのに頭の中はやけに冴えていた。フレアにされたこと、言われた事が繰り返される。  前にポフが倒れた時、フレアがうちに様子を見に来てくれた。  今日もそうなるといい。「なぜ来ないんだ」と眉をひそめて迎えに来てほしい。怒ってくれていい。  いつまで待ってもそんなことは起こらなかった。ひとりぼっちの夜が明ける。  翌朝。  寝ていないような気がする。もうずっと疲れているから、分からない。  ポフのお見舞いに行こう。ポフが寂しがらないように。ポフの側にいてあげよう。  ポフのために――。 「ガシュウ、何その顔!」  病室に入るなり開口一番にポフは叫んだ。  ……顔。自分の顔が何かおかしいのか。 「顔色が悪いよ」  自分の顔色はいつも悪い。気にすることじゃない。 「今日はもう帰って、今にも倒れそうだよ。明日もお見舞いに来ないで平気だから、しっかり休んでほしい」  強い口調で言われ、ポフが怒っているのがわかる。  追い出されるように病室から出されてしまった。最近、フレアにも同じようなことをされた。  立ちくらみがする。閉められた扉は、世界を断絶してるようだ。息ができないのは、もうずっと前からだ。  廊下の立て鏡が目に入る。鏡に映った自分の姿は、まるで死を宣告された病人のようだった。  自宅に戻り、横になった。疲れているのに眠れない。  フレアに追い出され、ポフに追い出され、もう来なくていいと言われた。  どうしてなのか、考えることが出来ない。 「終わりにしよう」  その言葉しか知らないみたいに、頭の中を巡る。  ぼんやりしていると、部屋の中は薄暗くなっていた。  時計を見ると、いつもフレアの家に向かう時間になっていた。  もう、行く気力はない。誰にも必要とされていない。  指を、首の鍵に絡めて、目を閉じた。  次に目を開けたら、外は明るかった。  朝だ。  寝れたようだ。少しだけ、体が軽い。  半身を起こす。ポフのお見舞いに行こう。  ――いや、「今日は来るな」と怒られたのだった。  怒ってくれていい。フレアも、怒ってくれていい。  終わりを告げたフレアは、穏やかな笑顔だった。らしくない顔。  ……フレア。  フレアに会いに行こう。怒られに行こう。  何がダメだったのか聞くから、謝るから、呆れてくれていいから。  フレアに会いたい。  まだ昼過ぎだったけど、フレアの家に向かった。  フレアの任務が終わる時間まで、家でじっと待っているつもりだ。  フレアの家の近くは白い石畳の道になっていて、太陽に反射して美しく光るのが苦手だった。  黒い靴はボロボロだけど、お気に入りだ。それがここでは許されないように感じる。  閑静なこの場所に似つかわしくないガタガタと騒がしい音が近づいてきて、ガシュウは顔を上げた。  大型の荷馬車だ。住宅街で、珍しい。  道を譲るため、端に寄った。すれ違うときに、息を飲んだ。  車体に王国の紋章。幌が掛けられていて、何が運ばれているのかは見えない。  幌は青い布地――騎士団の官用車だ。  フレアの制服と同じ色で、どうしても思い浮かべてしまう。  荷馬車が走り去り、革と金具の匂いが残った。  フレアと同じ匂いがする。苦しい。涙をこぼす前に指で拭った。  フレアの白い家の前で、深呼吸をした。顔を上げられず、ずっと足元だけを見ていた。  わざわざフレアがいない時間に来た自分は、ずるいのだろう。待つ時間が長いのが、罰だ。  首にさげた鍵を握り、鍵穴に差し込む。  回して、違和感を覚える。  ……鍵が回らない。  回す方向を間違えたのかと思い、逆方向に回した。動かない。  何度も繰り返したが、ガチャガチャと動かない金属が鳴るだけだった。  鍵を抜いた。  変形してしまったのかと観察する。硬い金属は簡単には曲がらない。  なぜだろう。鍵穴を見つめた。  ――息が止まった。  体の血が全て抜けるように冷たくなっていく。  古びた玄関扉で、鍵穴だけが真新しい。夕日を弾いて金色に輝いている。  鍵穴を変えられたのだ。  心臓の鼓動が速くなる。吐いてしまいそうだと、息を飲み込んだ。  落ち着け。落ち着け。大丈夫だ。  鍵を変えた。それだけだ。大丈夫だ。深い意味はない。大丈夫だ。  とにかく、今は、フレアが帰ってくるのを待とう。  玄関の前でじっと待っていた。  外は随分と寒くなっていた。かじかんだ手で鍵を閉じ込めている。  あまりの寒さに耐えかねて、どこからか中に入れないかと庭に回った。  窓を触ってみるがもちろん鍵は閉まっていた。窓から部屋の中が見える。  ――空っぽだった。  家具が何一つない。カーテンすらない。室内には、本当に何も残っていなかった。  息を呑んだ。鍵を握りしめる力が強くなり、指先が震える。  家の周りをぐるりと回り、別の窓からも覗いた。どの部屋も同じだ。家財は何もなく、ただ空だけがある。  玄関の前に戻る。鍵を握りしめたまま、ガシュウは立ちすくんだ。気を抜けば、その場に崩れそうだった。  玄関脇に青い看板があるのに今更気が付いた。黄色い文字が並ぶ。  貧困街でも、同じ札を見たことがある。文字は読めなくても“空き家”を示す札だと知っていた。  先ほどすれ違った荷馬車を思い出す。青い幌の、騎士団の官用車。  王宮は身内のこととなると途端に手配が早い――貧困街で、誰かが吐き捨てていた言葉が蘇った。  つまり、そういうことだ。  フレアは、どこかへ行ってしまった。  息がうまく吸えない。呼吸が荒くなる。  力が抜けたガシュウの手から、役目を終えた鍵がこぼれ落ちた。金色のチェーンに繋がれたその鍵は、地面に落ちることを許されない。胸元で騒がしく揺れていた。  どこをどう歩いたか覚えていない。気づいたら自宅の床に座っていた。  誰もいない、静かな家だ。  暗いから、蝋燭に火をつけた。  蝋燭は、風もないのに火が大きく揺れた。  消える前の炎は激しく燃えるのだと、どこかで聞いた事があった。 第二章 完

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