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40.取り残された

 フレアが消えた。  そのことを、ガシュウはポフには言えないでいた。  今日も、何事もないようにポフのお見舞いに行く。  病室の扉を開けたら笑い声が漏れ聞こえた。 「今度、その本を読んでみるね、フォレストくん」 「うん、感想聞かせてくださいね」  ポフと看護師が、おしゃべりをしていた。  扉の前で立ったままでいると、ポフが気がついて手を振った。 「ガシュウ」  看護師も振り返り、「フォレストくんのお兄さんですね」と挨拶をされ、ポフの体調は安定していると伝えると退室していった。 「ガシュウはちゃんと、休んだの?」  少しムッとした表情で問われる。前に来たときに顔色が悪いから休めと怒られた。機嫌が悪いわけではなく、体調を心配されている。 「うん、よく寝れたのよ」  寝れたような気がする。寝れてないような気もする。少しは寝たはずだ。嘘ではない。  笑顔は自然に出来ているはずだ。 「無理しないでよ」  ポフは困ったように笑った。嘘を知った上で、許してくれたように思った。 「……ポフは、看護師さんと仲良しなのね?」  先ほど、楽しそうに話していた。 「うん。レイシルさんも本が好きだから、おすすめし合ってるんだ」 「そうなんだ」  本の話はわからない。あの看護師さんがレイシルという名なのも知らなかった。 「ロッカさんは猫を飼っていて、すごく可愛がってる話をよくしてくれる。レムさんは遅番だから僕がちゃんと寝れているか気にかけてくれてるよ。主治医のヒビキ先生は登山が趣味なんだって。雪山も登るらしい、すごいよね」  うんうん、と頷いてはいるけど、よく分かっていない。  看護師さんとお医者さんがいるとしか分かっていなかった。みんな名前があって、それぞれの生活がある人たちだ。当たり前なのに、分かっていなかった。  ポフの周りには、いつもたくさんの大人がいる。大人が助けてくれている。  無力なのは、自分だけだ。何の役にも立っていない。  ガシュウがいなくても、ポフの世界は回っている。  フレアの家に行く時間だと言って病室を出た。言うときに、身がちぎれそうだった。  フレアの家は――空っぽだ。思い出したくなくて、首を振った。  自分はいったいどこへ行くというのか。白い灯りの廊下をひとりで歩いた。 「フォレストくんの保護者の方ですよね」  面会札を返す時に、受付に呼び止められた。 「……はい」  保護者。自分のことでいいのか、分からなかった。  名を呼ぶ声に親しみがこもっていて、きっとこの人もポフと親しいのだろうと想像できた。 「ポフ……フォレストが、お世話になっております」  ガシュウは深々と頭を下げる。 「いえいえ。それで、入院費のことなんですが」  ……入院費。  そうだ、すっかり頭から抜け落ちていた。どうしよう。 「多めに預かっているので、退院時に過剰分をお返しになると思います。ですので、こちらの返金手続きの書類にサインをお願いします。」  数枚の書類が差し出された。ガシュウは反射的に受け取ってから、疑問が沸いた。 「入院費を、預かっている?あの……支払いが、済んでいるって…ことでしょうかね?」 「はい。後見人代理の騎士の方が支払われています。たしか…フレアさんですね。本人のサインでお願いしますね」  受付の人の言葉が、頭に入ってこない。視線を書類に向けるが、文字は読めない。  ガシュウは動けないでいた。  受付の人が困ったように笑って「次回来るときに持ってきてください」と声をかけられ、ここにいたら邪魔だと思い外へ出た。  フレアが、入院費を支払ってくれている。  そういえば、そんなことをフレアが言っていたような気がする。  よく覚えていない。  思いだせば「終わりにしよう」と言われた光景を引きずり出すことになる。  怖くて、そこに近寄れない。  ……フレア。  なぜ、お金を払うのか。  なぜ、いなくなったのか。  なぜ、何も言ってくれないのか。  なぜ――。  ガシュウは重い足を動かした。  向かった先は、路地裏だった。鍵をもらう前は、いつもフレアとここで待ち合わせていた。  意味もなく、その場に立った。ここで待っているとフレアが来てくれるような気がした。来ないことは、分かっている。他にどうすればいいか、分からなかった。  フレアの家には、怖くて近づけない。  空っぽの家をもう一度覗くことは、恐ろしい。  路地裏の大きな樹の下は、太陽の光をさえぎっていて薄暗い。まるでここだけ、世界から取り残されたようだった。  夜になってもこの場所に居続けていた。もちろんフレアが来ることはなかった。寒さに耐えられなくなり、ようやく路地裏を離れることにした。家に着いて、蝋燭をつけて、毛布に包まって床に座る。  蝋燭の明かりが、テーブルの上に置いた書類を照らす。  フレアのサインが必要な書類だ。フレアがお金を払った証だ。  チャカリと金属のぶつかる音がした。首にかけた鍵が、テーブルにぶつかって揺れている。  この鍵もフレアのものだ。  返さないと。  お金も、鍵も、全部。  全部、フレアに返さないといけない。  返す相手が、どこにもいない。  ガシュウは鍵を両手で握りしめ、口元に寄せた。  それは祈りの姿に似ていた。

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