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41.立ち上がる
ガシュウは夢を見た。
古い廊下。板の床がきしむ。湿った布の匂いと、煮込みの匂いが混ざっている。窓は高くて、光が届かない。夜でも朝でもない色。孤児院の色だ。
泣き声がした。
小さい子供が、膝を抱えてうずくまっている。肩が細かく震えていて、息がひくついている。
泣いている子供を見ると、胸の奥がつらくなる。理由は分からない。ただ、放っておけない。
そばに寄って、しゃがんだ。
「どうしたの?」
子供は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま言った。
「お母さんとお父さんが、死んじゃったの」
ガシュウは、言葉が見つからなかった。
自分には、最初からお母さんもお父さんもいなかった。だから「同じだよ」とは言えない。
でも、死ぬ、という言葉だけは分かる。戻らない。呼んでも来ない。もう二度と、会えなくなる。
子供は泣き続ける。泣き続けて、息が苦しそうで、見ていられない。
泣いてばかりの子供が可哀想で、笑ってほしかった。
だから、ガシュウはおどけてみせた。
わざと変な歩き方をして、わざと転んで、わざと派手に痛がってみせた。
顔を潰して、尻を叩いて、「いたたた!」と大げさに言った。
子供は最初、泣きながら見ていた。
次に、泣きながら眉をひそめた。
それでもガシュウは続けた。ふざけるのをやめなかった。やめたら、この子はまた泣くだろうと思った。
ある日。
泣いてばかりの子供が、笑った。
声が漏れるみたいに、くしゃっと笑って、慌てて口を押さえた。
その仕草がまた可笑しくて、ガシュウはさらにおどけた。
子供は笑った。今度はちゃんと笑った。
その笑顔は、ひまわりみたいだった。
大きく咲いて、明るくて、まぶしくて。
自分の心にも、温かい風が吹いた。
息を吹き返したのは、子供じゃなくて自分のほうだった。
この子の名前を、ガシュウは知っている。
「お名前、なんていうの?」
子供は涙の跡を残したまま、口を開いた。
「ほぉれ……ふ……」
泣きすぎて、舌が回らない。音が崩れる。
それでも必死に言おうとしているのが分かる。
ガシュウは、聞き取れた音だけで呼んだ。
呼んであげたら、この子が少し楽になる気がした。
「……ポフ」
子供は目を丸くして、次に笑った。
それが合図になったみたいに、ガシュウはその子を抱きしめた。
小さな背中。細い肩。
温かい。生きている。ここにいる。
温かい光。優しい、ひまわり――――
太陽の光が顔に当たり、眩しさで目が覚めた。
古びた天井。自分の家だ。
頬が濡れている。涙がこぼれていた。手で拭って、ガシュウは身を起こした。
孤児院にいた頃の夢を見ていた。
思い出すのは、つらいことばかりのはずなのに、今の胸は妙に静かだった。
温かいものが残っている。
なぜ、ポフと今も一緒にいるのか。
簡単なことだ。
「……好きだから」
声に出した言葉が、はっきり自分の耳に届いた。
最近は、ぼんやりした声しか出していない気がしていた。なのに今日は腹から声が出る。
好き。
役に立つとか、立たないとか、そういう理由で一緒にいるわけじゃない。
ポフのことが好きだから、一緒に生きている。
ポフの周りには、頼れる大人がたくさんいる。
看護師も医者も受付の人も、みんな名前があって、それぞれの生活がある。
自分は手続きも金の準備もろくにできない。きっとこれからも足を引っ張る。
そんなの、とっくに知っている。
知っていて、それでも離れない。
それは「好き」だからだ。それだけだ。
ガシュウは喉を鳴らして、もう一度名前を呼んだ。
「ポフ」
声に涙が乗る。大切な名前。自分だけが呼ぶ呼び名。
ポフからも、たくさんの愛をもらった。笑い方も、怒り方も、許し方も。
……じゃあ。
フレアは。
名前を思い浮かべただけで、胸がぎゅっと縮む。
怖さと、痛さと、熱さが一緒に上がってくる。
喉が勝手に動いた。止められなかった。
「……好き、だ」
声に出していいか分からなかった言葉を、はっきり言った。言ってやった。
好き。そうだ、好きだ。
一緒に喋って、一緒にご飯を食べて、一緒に眠って。
家族を迎えるみたいに「おかえり」のハグをして。
もう他人じゃない。他人だなんて言わせない。
片付けのあと、殴られた。蹴られた。首にかけられた手は、怖くて。
次の日、「終わりにしよう」と言われた。
家は空っぽになって、鍵穴は変えられて、青い札がかかっていた。
勝手だ。
勝手に契約だと言って、勝手に入院費を払って、勝手に消えた。
なんて勝手な奴なんだ。
胸の奥が熱い。指の先までじんじんする。
怖いのに、熱い。
熱さが、形を持っていく。
怒りだ。
自分自身に怒っている。
何も言えなかった自分。追いかけられなかった自分。怖がって固まった自分。
ガシュウは怒っている。
フレアに怒っている。
なんでも、ひとりで決めてしまう。いつも勝手だ。
ひとこと言ってやらないと気がすまない。
怒っていい。怒らないと、ここで終わってしまう。
ガシュウは立ち上がった。ふらつく。腹が痛い。それでも立った。
壁に手をついて息を整える。
首のチェーンが揺れて、鍵が胸に当たる。
あたしは、周囲の反対を押し切ってポフを孤児院から連れ出した男だ。
やる時はやる男だ。逃げない。
逃げないふりじゃなくて、やるんだ。
フレアの居場所が分からない?
あいつは騎士だ。騎士なら王宮にいる。いなくても、王宮なら手がかりがある。
ガシュウはテーブルの上の書類を見た。返金の手続き。フレアのサイン。
文字は読めない。けれど、紙の重さは分かる。これを持って行く。逃げないために。
――待ってろ、フレア。
――ガシュウから逃げられると思うなよ。
書類を掴み、家を出た。
全部、全部、勝手に終わらせない。
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