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44.代償
ガシュウの一連の騒動は、宿舎の格好の餌になった。
廊下を曲がるたび、視線が刺さる。笑い声が途切れる。次に、ひそひそ声が始まる。
フレアに親しい者はいない。直接聞きに来る者はおらず、遠巻きにされるだけだ。
何を言われているかは知らない。知らないまま、分かってしまう。言葉より先に、空気が変わる。
耐えがたい。
しかし、自分が蒔いた種だ。王宮の取調室で暴れた。あれを他人が黙っているはずがない。
宿舎は居心地が最悪になった。出ていく当てもない。
帰る家は、もうない。
一人部屋なのが救いだろうか。扉を閉めても息がつけない。静かになると、考えが勝手に湧いてくる。
翌朝。
朝食のため食堂へ入った瞬間、何本もの視線がこちらを向いた。まるで検分されている。
フレアは何も見えていないふりをして皿を取る。口に詰め込むが、味は分からない。噛む回数だけ数えて、早々に席を立った。食器の音が、やけに響く。
朝礼で騎士団全員が集まる。
宿舎を使っていない者にまで噂は回っていた。端々で聞こえる声に、少し前の古参騎士との喧嘩沙汰まで混ざっていた。
内容はどうでもいいのだ。フレアを面白おかしく語れれば、何でもいい。
何でもない顔を作る。背筋を伸ばす。目線を落とさない。
気丈な姿勢を崩さないのが、せめてもの抵抗だ。こんな連中に合わせるつもりはない。
――と言い切りたいのに、今日の自分には、まだ難題が残っている。
任務終わりに、ガシュウと会う。
行かなければならない。昨日みたいにまた王宮で騒がれたら困る。
病院の書類も、サインをした。渡さなければならない。
それしか道がない。
任務終了時刻になった。
いつもなら更衣室に直行して制服を脱ぎ捨てるのに、今日は着たままにした。私服で会うのがためらわれた。私用ではなく、公務の延長だと思いたいのか。
公私混同もはなはだしい。
嫌っていた騎士の制服に、身を守られている気がする自分が滑稽だった。
噴水広場。露店の近く。ベンチ。
指定された場所に向かうと、ガシュウがいた。
ベンチに座り、俯いている。足をゆらゆら揺らしていた。
姿を見た途端、靴底が石畳に貼り付いたみたいに動けなくなった。人混みの中へ半歩引き、影に身を隠す。
――会いたくて来たわけではない。そう言い訳して、さらに足が止まる。
ガシュウが顔を上げた。こちらに気づいて、勢いよく立ち上がる。
「フレアさま!」
大きく手を振った。
ガシュウはハッと目を見開いて、すぐ口を固く結ぶ。笑顔を押し込め、眉根を寄せて、目を尖らせる。
今さら睨まれても怖くない。
昨日、全く同じことをしただろう。
学ばないのか。
――おかしくて、ほんの少しだけ息が抜けた。腹の底の硬さが、ほんの少しほどける。
「おつとめ、ごくろうさまです」
ねぎらいの言葉の形をしているのに、棘がある。どういう立ち位置で喧嘩をしているのか、分からない。
「ああ」
刺激しない返事を選ぶ。ここは人が多い。注目を集めてはならない。
制服のまま来たのは逆効果だった。目立つ。逃げ道がない。
ガシュウがベンチに腰を下ろしたので、フレアも隣に座った。
ガシュウは腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。首元の鍵が揺れた。
自分から話す資格がないように思えて、ガシュウが口を開くのを待った。
白目の広い目が細められている。目玉が動いて、視線が合う。
フレアは反射で逸らした。逸らした自分が情けない。
ガシュウが言う。
「そ、れ」
持っていた書類を指している。
「サインはしておいた」
差し出すと、ガシュウははたくように書類を奪った。上から下へ、視線を滑らせて、サインを確認する。
確認し終えた途端、ガシュウは立ち上がった。
「じゃ、あたし帰りますから」
「……は?」
声が漏れた。意味が分からない。
「明日、同じ時間に、ここで待ってます」
「……何?」
返事は来ない。
ガシュウは駆け出して、すぐ人混みに紛れて姿を見失う。
フレアは立ち上がることすらできなかった。ベンチに一人で座っている騎士は、きっと奇妙に見えるだろう。
何がしたい。
分からない。分からないままに放置されたのが、いちばん嫌だった。
――ガシュウは、わざとやっているのか。
宿舎に戻る。制服を脱ぎ、私服に着替える。自室へ向かう。
その短い距離だけでも噂話が耳に入る。あることないこと、楽しそうに話している。
食堂へ行く気力がなく、夕食を抜いた。
狭い部屋のベッドに横たわる。
明日も待っている、とガシュウは言った。
行かなければならないだろう。
考えたくなくて目を閉じる。
コン。コン。
ノックの音。
フレアは舌打ちをして身を起こした。
「誰だ」
扉を開けると上官が立っていた。表情を引き締め、姿勢を正す。
「失礼しました。ご用件は」
上官は公務の顔だった。私用ではないようだ。
「先日の、ガシュウという男の件だ」
今、頭から追い出そうとしていた名があがる。
頭痛がした。奥を握られるみたいな痛み。
「……はっ」
「調べさせてもらったが、お前の血縁関係者ではないな。どのような関係だ」
フレアは息を吸った。吸うと胸が痛い。
言葉が出ない。その沈黙だけで、余計に怪しまれる。
上官は続けた。
「王宮も最近は物騒だ。スパイ事件があったのを、お前はよく知っているだろう?」
知っている。
フレアが未然に防いだ事件だ。表彰もされた。
けれど、胸糞の悪い事件だった。相手を殺した。英雄の札で包まれても、あの感触は消えない。
「ガシュウという男がスパイで、お前も繋がっているという見方をする者も出ている」
「まさか、そんなこと……」
あるわけがない。
だがこれは噂話ではない。上の間で問題が形になり始めている。
「一応、話をしっかり聞いておきたい。これから聴取する」
「……はっ」
本当に、何もない。
そう言い切れるのに、関係を問われれば言い淀む。
言い淀んだ瞬間に、罪が生まれる。
何もしていないのに、“何か”が出来上がっていく。
長時間拘束された。
部屋の空気は乾いて、椅子は硬く、言葉は細かい針みたいだった。
最後まで、フレアは上官の目を見て答えた。姿勢だけは崩さなかった。崩せなかった。
疲れた。
部屋に戻って扉を閉めても、息が入らない。
明日は噴水広場。
今日の噂より、今日の聴取より、そっちのほうが怖い。
――ツケは、まだ終わっていない。
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