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46.あやまち

 フレアは紅茶を一口飲み、皿に戻した。まだ、冷めてはいない。湯気は薄くなっている。 「……入院費」  ガシュウの消え入りそうな声が届く。 「入院費、ありがとうございます」  頭がさがる。弱々しい角度。  気にするな、と言いかけて止める。勝手に決めた言葉になりそうで、火種になる。  どう答えていいか分からず「ああ」とだけ、短く返した。 「あの、……必ず、お返ししますので」  返す必要はない。それも言えず、答え方が、わからない。 「……持ち合わせがなくて。何年かかっても、返しますから」  ……何年。  その時間の長さが、胸の奥に沈んだ。重いのに、妙に安堵が混ざる。  その長さの分、関係が続いていく。  今、そんなふうに安心している場合ではない。分かっているのに、体が先に反応する。 「これから、収入はどうするんだ」  金の催促ではない。  心配なのだ。もう、守れる距離にいない。 「……なんとか、探します」  顔を伏せたガシュウを、見てしまう。泣いていないか。涙の跡が増えていないか。  そういう確認をする自分が嫌で、視線を外した。  ……金の稼ぎ方。  契約を持ちかけた日を、思い出す。  任務で人を殺した。数を覚えている時点で、まだ血が抜けていない。  制服を脱いでも、黒いものが残ったままだった。抱えきれずに歓楽街へ行った。  そこでガシュウが客引きをしていた。  誰とでも寝るのが許せなかった。許せないのに、目を離せなかった。  金と力で縛りつけた。  正気の沙汰ではない。 「あれは危ない。……よせ」  言ってから、笑えないと思った。どの口が言うのか。 「……あれ?」 「男と寝て、金を取るやり方だ。危険だ。」  事件に巻き込まれる。暴力に近い距離に立つ。  忠告など、今さらだ。 「はあ……。危ないんですかね。あたしは、フレアさましか知りませんから、わかりません」  フレアは眉をひそめた。 「……俺しか知らない?どういうことだ」  ガシュウは淡々と言う。 「どうもこうも、あたしの誘いに乗ってくれたのは、フレアさまだけです」 「……なんだって?」  何を言っている。 「……歓楽街は金になるって、貧困街で聞いたんです。でも、誰もあたしを相手にしませんでした。今思えば、うまくいくはずないですよね。何も知らなかった」  何を言っているんだ。 「でもね、もうね、しません。フレアさま以外の人と……そういうこと、する気になれません。……どうしてでしょうかね」    指先が震えた。  怒りではない。寒さでもない。息がうまく吸えない。  ガシュウの言葉は聞けている。けれど視界がうまく映らない。紅茶の茶色が、ぼやける。 「今までは、フレアさまからお金をもらわなくても、なんとか生活していたんです。……それがもとに戻るだけです。心配いりません」  なんだ。何を言った。  なにか、取り返しのつかないことをしている。 「あの……帰ります。また明日も」 「待て」  ガシュウが立つ前に、咄嗟に腕を掴んだ。  なぜ、掴んだ。頭がうまく回らない。  離したら、終わってしまうようで。  終わっていいはずなのに、終わらせたくない。 「……なぜ、俺と会おうとする?」  すがるような声が出た。情けない声だ。  ガシュウは白目の広い瞳を見開いた。掴まれた腕に視線を移して、外すそぶりもしないで、座り直した。 「……会わないと、会えなくなるからです」 「もう、会う価値もないだろう」  そう言いながら、指が離れない。握る力を強めてしまう。  ガシュウは静かに瞳を閉じた。 「……孤児院にいた頃、スタッフさんのこと、親みたいに慕っていました」  閉じた瞳のまつ毛が、わずかに揺れている。 「でも、スタッフさんは辞めてしまった。次の人が来る。お金のない施設だから、人の入れ替わりは多かった。ボランティアも多かった。みんな一時的で、ずっといる人はいないんです」  ガシュウの声は淡い。淡くて、重い。 「別れの挨拶をしてくれる人もいるけど、いつのまにか来なくなる人もいる。信頼していた人に、一方的に、もう会えなくなるのは……怖い」  フレアは目を伏せた。  怖い。その言葉が、腹の底で反響する。 「こんな奴、信頼するな。俺は、おまえを都合よく金で縛って……手も上げた」  ガシュウは薄く目を開いた。 「あたしは出来が悪いから、よく殴られる。きっと、あたしが悪い」 「誰に殴られた」  瞬時に怒りが湧いた。なぜ。誰に。 「あ。いや、気にしないでくださいな。前のことなんで。首になった仕事先の店長とか、占いの客とか。いろいろです。まあ、仕方のないことです」  仕方がない。  そんな言葉で片づける口が、これほど腹立たしいとは思わなかった。  今からでもそいつを殴り返しに行きたいくらいだ。  自分がした事を棚に上げて、言える立場でもない。 「自分が殴られていい人間だと思うな。もっと怒れ」 「だから、今、怒ってます」  そう言われて、妙に納得する。  噴水広場での睨みも、王宮での叫びも、ここに繋がっている。 「……そうだな」  フレアはゆっくりと腕を離した。  姿勢を正して、座り直す。  ガシュウは掴まれていた箇所を、指で確かめるみたいに触っている。 「怒っていいと思えたのは、フレアさまがいつも、あたしを、ひとりの人間として扱ってくれたからです」 「……よせ」  俺はそんな人間じゃない。  言い返せば、また話がぐるぐる回る。言葉を飲み込んだ。  何を言えばいい。自分は何をしたい。  店内の騒がしさが、やけに耳に届く。  飲みかけの紅茶は、もう湯気を出していない。 「……今日は、帰ります」 「……ああ」  もう、引き留める方法を知らない。 「紅茶のお金、払います。おいくらですか」 「いい。そのくらい、俺が出す」 「払います」  強い言葉だった。  フレアは顔を上げた。もう、金で縛る関係ではない――そう言われている気がした。  ガシュウは懐から赤い小袋を出すと、銅貨をテーブルに落とした。  フレアは指で二枚を滑らせて、自分の側へ寄せる。 「これで足りる」 「はい。今日はありがとうございました」 「おごっていない。礼はいらないだろう」 「たしかに」  いつもする軽口のようで、空気が少し緩む。フレアは薄く息を吐いた。  ガシュウはテーブルに残った銅貨を袋に戻すと、立ち上がった。 「また明日。同じ時間に、同じ場所で待ってます」  返事をする前にガシュウは立ち去った。  出口に背を向けて座っていたフレアは、振り返れなかった。  宿舎に戻った。  廊下ですれ違った連中が笑い立てた。まだ噂で盛り上がれる神経が羨ましい。  一瞥もくれずに自室へ入る。  ベッドに倒れ込んだ。  今日の言葉が、頭の中で遅れて形になる。 「フレアしか知らない」  どういう意味だ。そのままの意味だろう。  ガシュウは他の男と寝ていなかった。  そして俺は、吐け口が欲しくて誰でもよかった。  あの日、任務で人を殺した。  その気持ち悪さを捨てる場所を探していた。  捨てる場所に、ガシュウを使った。  そういうことだ。  愚かしい。  くだらない。自分という存在が、くだらない。  腹の奥が重くて、吐きそうだ。  吐いて、楽になるものではない。  それだけは、はっきりと分かった。

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