47 / 59
47.買い物
翌朝。
フレアは目を覚ました。
目覚めた瞬間から、頭が重い。
半身を起こして、眉間に指を当てる。実際に痛むわけではない。昨日の会話が、昨日の温度のまま残っているだけだ。言葉の切れ目、紅茶の匂い、鍵の音。そのまま胸に貼りついている。
息を深く吐いた。そのまま立ち上がる。
立ってしまえば、体は動く。朝の支度を淡々とこなす。顔を洗い、髪を整え、着替える。鏡の中の自分はいつも通りだ。いつも通りに、見えればいい。
食堂で朝食を多めに取った。視線が刺さっても、噂が流れていても、今はどうでもいい。それどころではない。食べて、動けるようにしてなくては。
倒れたら終わる。ガシュウに会うのには、気力がいる。
今日も、ガシュウと会う。
どんな顔で会えばいいのか、分からない。
逃げる気は、もうない。逃してはくれない。
任務終了時刻。
制服を脱ぎ捨てて、私服を着る。それが、ガシュウに会う合図のようだった。
今に始まったことじゃない。もう、ずっとそうだった気がする。
噴水広場へ向かった。
ゆっくり歩いても仕方がない。待たせるだけだ。
フレアは足を早めた。
噴水広場の、いつものベンチ――に辿り着く前だった。
「フレアさま!」
ガシュウが駆けてくる。息を切らしているのに、笑っている。昨日までの睨みの顔がない。笑顔のまま、跳ねるみたいに体が揺れる。首元の鍵がよく鳴った。
予想していなかった光景に、フレアは足が止まった。
「ポフがね、退院決まりました! 明後日です!」
硬くなっていた体の力が、少し抜けた。呼吸が戻る。言葉が遅れて出る。
「……そうか。よかったな」
「ええ! ええ!」
喜ぶ顔を、久しぶりに見た。自分に向けられた笑顔ではない。これは弟に向けられた笑顔だ。
ガシュウの笑顔に安堵して、同時に胸が冷える。
自分の居場所が、また一段遠くなる気がした。
「やっと家に、ポフが帰ってきます!」
ガシュウの声が弾む。フレアの耳が一瞬遠くなる。
自分が関われない日常が始まるように感じた。
景色が変わったのは自分だけだ。ガシュウにとっては、弟が戻る。それが世界の中心だ。
契約の話も、勝手の話も、今は脇に置けるのかもしれない。
「フレアさま!」
呼ばれて、我に返る。
「……なんだ」
「ポフが病み上がりでしょう? うち、寝床は毛布を重ねてあるだけなんです。少しね、いい寝床にしてあげたくてね。……その、買い物に付き合って欲しいんです」
買い物。
この状況で、その言葉が出るのか。無神経と言うには、ガシュウはいつもこうだ。現実の重さを、別の行動で押し流す。
……構わない。
今の空気を壊す気はない。
「ああ。大丈夫だ」
「良かった!」
ガシュウが勢いよく頷く。
「あたしはね、買い物の仕方がわかりませんでね。フレアさまにお任せしたいのでございますよ。どこで買うかも、わかりません」
頼られている。胸の奥が緩み、安心してしまう。
そんな自分に、苛立つ。
「ああ、任せろ。予算はどれくらいだ」
「これだけ持ってきました」
赤い袋を差し出された。昨日、銅貨を落とした袋だ。
――財布だろう。
それを簡単に、他人に渡すな。
「不用心だろう」
「何がです?」
真顔で返される。
俺を信頼するなと言えば、昨日の続きになる。そうなれば、息が詰まる。
「いや……」
言い淀む。言葉を探して、見つからない。
「早くお金を確かめてください。足りるか見てくださいな」
全面的に信頼しているらしい。
なぜそうなるのか、分からない。
フレアは呆れた。
呆れているのに、嬉しい。呆れは、自分にか。
フレアはため息をつき、袋の口を開いた。銅貨の数を指先で数える。軽い音。小さな重み。足りるかどうかは、ぎりぎりだ。
「……最低限でいく」
「はい!」
返事だけはいい。
簡易ベッドを買った。大きすぎないもの。運搬は一週間かかると言われた。待てないだろうと思った。台車を借り、自分で運ぶ。
道中、ガシュウは何度も「重くないですか」と聞いた。重い。言葉に出すほど柔な鍛え方はしていない。台車の軋む音が、やけにうるさい。
ガシュウの家に着いた。台車から下ろすのに手間取った。二人がかりでないと運べない大きさだ。ガシュウの腕力がなさすぎて、ほぼフレアに重心が乗る。
二人きりでガシュウの家で過ごすだなんて、そんな繊細なことを考える暇はない。
息を吐いてベッドを押し込んだ。
家に入れたら次は組み立てだ。どこに置くか決め、部品を組み立て始める。
ガシュウは手伝えることを探して、落ち着きなく揺れている。
任せられることがない。
「何か、食べるもの買ってこい。……買ってこれるか?」
言ってから、言い方が悪いと思った。
命令する癖が抜けない。嫌な癖だ。
夕食を食べてないのは、ガシュウも同じだ。
「はい!」
役割ができたガシュウが、元気よく敬礼をした。
「……二人分だぞ」
前に夕食を作った時は一人分しか作らなかった。変な遠慮をする。
「おまかせを!」
建て付けの悪い扉をガタガタと鳴らし、ガシュウは出ていった。
ひとりになると、この家は驚くほど静かだ。
静かなのに、居心地が良い。宿舎よりも、あの家よりも。
蝋燭の灯りだけの室内は、思ったより明るい。炎が揺れるたび影が動く。
窓ガラスがないから、冷たい風がそのまま入る。古い布をカーテン代わりに垂らしているが、役に立っていない。
窓もどうにかした方がいいだろう。
勝手に決めることではない。ガシュウが戻ったら相談してみよう。
フレアは組み立てを続けながら、ガシュウの帰りを待った。
扉が鳴る音を、妙に待っている自分がいた。
ともだちにシェアしよう!

