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47.買い物

 翌朝。  フレアは目を覚ました。  目覚めた瞬間から、頭が重い。  半身を起こして、眉間に指を当てる。実際に痛むわけではない。昨日の会話が、昨日の温度のまま残っているだけだ。言葉の切れ目、紅茶の匂い、鍵の音。そのまま胸に貼りついている。  息を深く吐いた。そのまま立ち上がる。  立ってしまえば、体は動く。朝の支度を淡々とこなす。顔を洗い、髪を整え、着替える。鏡の中の自分はいつも通りだ。いつも通りに、見えればいい。  食堂で朝食を多めに取った。視線が刺さっても、噂が流れていても、今はどうでもいい。それどころではない。食べて、動けるようにしてなくては。  倒れたら終わる。ガシュウに会うのには、気力がいる。  今日も、ガシュウと会う。  どんな顔で会えばいいのか、分からない。  逃げる気は、もうない。逃してはくれない。  任務終了時刻。  制服を脱ぎ捨てて、私服を着る。それが、ガシュウに会う合図のようだった。  今に始まったことじゃない。もう、ずっとそうだった気がする。  噴水広場へ向かった。  ゆっくり歩いても仕方がない。待たせるだけだ。  フレアは足を早めた。  噴水広場の、いつものベンチ――に辿り着く前だった。 「フレアさま!」  ガシュウが駆けてくる。息を切らしているのに、笑っている。昨日までの睨みの顔がない。笑顔のまま、跳ねるみたいに体が揺れる。首元の鍵がよく鳴った。  予想していなかった光景に、フレアは足が止まった。 「ポフがね、退院決まりました! 明後日です!」  硬くなっていた体の力が、少し抜けた。呼吸が戻る。言葉が遅れて出る。 「……そうか。よかったな」 「ええ! ええ!」  喜ぶ顔を、久しぶりに見た。自分に向けられた笑顔ではない。これは弟に向けられた笑顔だ。  ガシュウの笑顔に安堵して、同時に胸が冷える。  自分の居場所が、また一段遠くなる気がした。 「やっと家に、ポフが帰ってきます!」  ガシュウの声が弾む。フレアの耳が一瞬遠くなる。  自分が関われない日常が始まるように感じた。  景色が変わったのは自分だけだ。ガシュウにとっては、弟が戻る。それが世界の中心だ。  契約の話も、勝手の話も、今は脇に置けるのかもしれない。 「フレアさま!」  呼ばれて、我に返る。 「……なんだ」 「ポフが病み上がりでしょう? うち、寝床は毛布を重ねてあるだけなんです。少しね、いい寝床にしてあげたくてね。……その、買い物に付き合って欲しいんです」  買い物。  この状況で、その言葉が出るのか。無神経と言うには、ガシュウはいつもこうだ。現実の重さを、別の行動で押し流す。  ……構わない。  今の空気を壊す気はない。 「ああ。大丈夫だ」 「良かった!」  ガシュウが勢いよく頷く。 「あたしはね、買い物の仕方がわかりませんでね。フレアさまにお任せしたいのでございますよ。どこで買うかも、わかりません」  頼られている。胸の奥が緩み、安心してしまう。  そんな自分に、苛立つ。 「ああ、任せろ。予算はどれくらいだ」 「これだけ持ってきました」  赤い袋を差し出された。昨日、銅貨を落とした袋だ。  ――財布だろう。  それを簡単に、他人に渡すな。 「不用心だろう」 「何がです?」  真顔で返される。  俺を信頼するなと言えば、昨日の続きになる。そうなれば、息が詰まる。 「いや……」  言い淀む。言葉を探して、見つからない。 「早くお金を確かめてください。足りるか見てくださいな」  全面的に信頼しているらしい。  なぜそうなるのか、分からない。  フレアは呆れた。  呆れているのに、嬉しい。呆れは、自分にか。  フレアはため息をつき、袋の口を開いた。銅貨の数を指先で数える。軽い音。小さな重み。足りるかどうかは、ぎりぎりだ。 「……最低限でいく」 「はい!」  返事だけはいい。  簡易ベッドを買った。大きすぎないもの。運搬は一週間かかると言われた。待てないだろうと思った。台車を借り、自分で運ぶ。  道中、ガシュウは何度も「重くないですか」と聞いた。重い。言葉に出すほど柔な鍛え方はしていない。台車の軋む音が、やけにうるさい。  ガシュウの家に着いた。台車から下ろすのに手間取った。二人がかりでないと運べない大きさだ。ガシュウの腕力がなさすぎて、ほぼフレアに重心が乗る。  二人きりでガシュウの家で過ごすだなんて、そんな繊細なことを考える暇はない。  息を吐いてベッドを押し込んだ。  家に入れたら次は組み立てだ。どこに置くか決め、部品を組み立て始める。  ガシュウは手伝えることを探して、落ち着きなく揺れている。  任せられることがない。 「何か、食べるもの買ってこい。……買ってこれるか?」  言ってから、言い方が悪いと思った。  命令する癖が抜けない。嫌な癖だ。  夕食を食べてないのは、ガシュウも同じだ。 「はい!」  役割ができたガシュウが、元気よく敬礼をした。 「……二人分だぞ」  前に夕食を作った時は一人分しか作らなかった。変な遠慮をする。 「おまかせを!」  建て付けの悪い扉をガタガタと鳴らし、ガシュウは出ていった。  ひとりになると、この家は驚くほど静かだ。  静かなのに、居心地が良い。宿舎よりも、あの家よりも。  蝋燭の灯りだけの室内は、思ったより明るい。炎が揺れるたび影が動く。  窓ガラスがないから、冷たい風がそのまま入る。古い布をカーテン代わりに垂らしているが、役に立っていない。  窓もどうにかした方がいいだろう。  勝手に決めることではない。ガシュウが戻ったら相談してみよう。  フレアは組み立てを続けながら、ガシュウの帰りを待った。  扉が鳴る音を、妙に待っている自分がいた。

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