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48.名前
フレアは組み立て作業を中断し、弁当を食べていた。
小さなローテーブルを挟んで、ガシュウと向かい合っている。
蝋燭の火が、テーブルの真ん中で静かに揺れていた。
ガシュウが買ってきた弁当は、小さな器に米がぎっしり詰めてあり、その上にクリームソースのパスタが乗っていた。
こんな謎なものをどこで見つけてくるか。おかしな方向にセンスがある。
フレアは先に食べ終えていた。うまいものではなかったから、この程度でいい。
ガシュウは不器用にフォークを動かして、ちまちまと食べ続けている。
ふっと息を吐いて、体を楽にした。
ガシュウは次の一口を運びながら「足りました?」と聞くので、足りなかったが「ああ」と肯定した。
黙々と食べるガシュウを見つめて、静かな時間が流れる。悪くない時間だ。
「……ベッド。もうすぐ完成ですね」
ガシュウの視線が組み立て途中のベッドへ向く。
「ああ。仕上げに支えがいる。おまえも手伝える」
「あら、やっとガシュウので出番ですね」
ガシュウは「ふふふ」と笑う。そうして、残り少ない弁当を口へ運んだ。
そんなガシュウを見て、フレアはふっと薄く息を吐いた。
「……ねえ、フレアさま」
「なんだ」
「なんで、契約を終わりにしたんですか?」
空気が止まった。
体のどこから固まったのか分からない。気づいた時には、背筋まで硬くなっていた。
蝋燭の火は変わらず揺れている。窓の古い布も動かない。静かなままだ。
静かなまま、言葉だけが急所に入る。
ガシュウは最後の一口をもぐもぐ食べていた。
取り留めない話をするかのように、なんでもない顔だ。
フレアは休めていた背を起こし、姿勢を正した。
自然に。ぎこちなく見えないように。
息が浅くなるのを感じて、意識的に呼吸を深くした。
――契約を終わらせた理由。
もう、逃げられない話だ。
契約関係の始まりが、自分の思い込みと衝動だった。
金で縛り、身体を使い、都合よく近くに置いた。
酷いことをした。取り返しはつかない。
指先が冷たくなる。心臓まで届くような冷たさ。
どうしたらいい。謝ればいいのか。
一体何に対して謝るのか。心当たりが多すぎる。
謝罪の言葉だけでは、何一つ足りない。
ただ一つ、確かに言えることがある。
間違えずに言わなければならない。
「……契約したことを、後悔している」
やっと絞り出した声だった。
金で縛る形にしたことを。最初からあれを契約と呼んだことを。
もっと別の始まり方があったのではないか。
もっと普通の。もっと――。
――カチャン。
フォークが皿に当たる音。フレアは顔を上げた。
ガシュウがフォークを落としていた。掴むものを失った手は震えていて、頬から、水滴が落ちる。瞳から大粒の涙が流れていた。
「なんで……なんでそんな事、いうんですか」
震えているのに、しっかりと熱を持った声。
「あたしと、出会ったことは、後悔ですか」
叫びのような声。
そこで初めて分かった。届いた言葉が違っていた。
「あたしとの時間は、なかった方がよかったですか」
ガシュウは声を上げて泣いた。
子供みたいな泣き方。喉の奥からそのまま出る泣き声。
「違う、そんなんじゃない!」
フレアはほとんど反射で答えていた。
「何が違うんですか! もう嫌だ! もうずっとフレアのことを考えてるのは嫌だ! ずっと苦しい!」
息が乱れる。涙で言葉が千切れる。
それでもガシュウは止まらない。
「今日、買い物に付き合ってくれて嬉しかった。来てくれないと思ってた。断られるはずだった。だって、もう契約は終わった。でもフレアは来てくれた! あたしは嬉しかった。嬉しかったのに……!」
ひきつった呼吸の合間に、言葉がこぼれ落ちる。
「もうずっと、気を張っていた。フレアを、フレアを失うかもって。ひとりで、ずっとひとりで頑張って。また前みたいに一緒にいられるのかもしれないって、期待してしまった……!」
泣きながら言い切って、ガシュウはテーブルに突っ伏した。
今日のガシュウはずっと機嫌が良くて、元気だった。心の中は、ずっと不安だったのか。
……自分と変わらない。
フレアは手を伸ばしかけて、止めた。触れていいのか分からない。触れたら壊す気がした。
「違う」
拳を握る。行き場がない。
「出会ったことを後悔しているんじゃない」
聞こえるように、一語ずつ切る。
「おまえとの時間が、なかった方がいいなんて、思っていない。一度もだ」
ガシュウの肩がぴくりと揺れる。
泣き声は止まらない。けれど、聞いている。
「後悔しているのは、契約にしたことだ。金で縛ったことだ。おまえを……都合よく、近くに置こうとしたことだ」
喉が痛い。声がうまく張れない。
「泣くな。……いや、違う」
違う。命令するな。
泣き声が、頭の中に響く。
泣いている。
……誰がだろう。
泣いているのは、ガシュウ。
もう、心に入り込んでいる。
「確認したいなら、する。何度でも言う」
ガシュウが少しだけ顔を上げた。目元が真っ赤だ。
「おまえと過ごした時間も、後悔していない」
そこで止まらずに、フレアは続けた。
「何ひとつ、だ」
ガシュウの涙がまた落ちる。
今度は、さっきとは違う落ち方だった。
「……じゃあ、なんで終わらせたんですか」
しゃくり上げながら、それでも聞いてくる。
確認しないと進めないのは、自分たちの悪い癖かもしれない。
フレアは視線を逸らさなかった。
「怖かったからだ」
やっとそこまで辿り着く。
見ないふりをしてきた中心だ。
「金で縛って、身体をいいようにもて遊んで。それで、それなのに」
息を吸う。逃げるな。
「お前をどんどん、好きになっていった」
声は、張れなかった。頼りない声だ。
それでも、本当の言葉しかない。
「俺は弱くて、弱さを見ない振りして生きてきた。そんな俺が、ガシュウ、おまえに出会って救われた気がした」
胸の奥が熱い。吐きそうだ。
「弱い。実際、そうなった。過去に飲み込まれて、おまえにぶつけた。手も上げた。家からも逃げた。契約も終わらせた。全て、俺が壊した」
ガシュウは、もう泣いていない。
呼吸だけが揺れている。
「だから逃げた。おまえからじゃない。俺自身からだ」
ガシュウがのろのろと顔を上げた。テーブルに両手をついて体を支えている。目は泣き腫らして赤い。
フレアは逃げずに、その目を見る。
鍵がテーブルに当たって、かちゃりと鳴った。
「……今、呼んだ」
涙で掠れた声だった。
「今、ガシュウのことを呼んだ」
何のことか迷い、許しを乞うかのようにガシュウを見つめた。
「フレアが、初めてガシュウのこと、名前で呼んだ」
ガシュウの目から、また涙がこぼれた。
フレアは目を見開いた。
そんなことすら、していなかったのか。
距離を作ることばかり覚えてきて、近づくためのいちばん小さなことさえ、していなかった。
両親が家を出ていってから、誰とも距離を取って生きてきた。
けれど、目の前の相手は、距離を作りたい相手じゃない。
「……ガシュウ」
今度は、はっきり言った。
胸の底から湧いてくる温かいものに、名前をつけるみたいに。
ガシュウは泣いて、声も出せずに、頷いた。
フレアの中で何かが決壊した。涙が溢れて止められなかった。
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