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49.本音
フレアは泣いていた。
泣き顔を他人に見せるなんて、いつぶりか。初めてだろうか。
泣き顔を見せている相手、ガシュウも泣いている。
声もあげず、流す涙だけが止められない。
蝋燭の火は静かに揺れていて、さっきまでと何も変わらないはずなのに、部屋の空気だけが別のものになっていた。
「……フレア」
ガシュウが、はっきりと名を呼んだ。
聞き逃さないように、フレアは目を逸らさず見つめた。
「もう、勝手にいなくならないでほしい」
願いだった。
責める声ではない。怒鳴り声でもない。泣きはらした顔のまま、それでもまっすぐ届く願いの声。
即答したかった。
それは自分の願いでもある。
なのに、言葉は喉の奥で止まる。
怖い、という感情が先に立つ。
誓いたいのに、誓っていいのか分からない。もしまた同じことをしたらどうする。もしまた自分の中の何かが切れて、目の前の相手を傷つけたら。
「俺は……怖い」
やっと出た声は、ひどく弱かった。
「自分を制御できなくなるのが、怖い。おまえに、また……何かしてしまうんじゃないか」
想像ではない。それが、積み上げてきた事実だった。
金で縛った。手を上げた。逃げた。終わらせると決めた。全部、自分がした。
ガシュウは眉を吊り上げて、身を乗り出した。
「……その時は、ガシュウがめちゃくちゃ怒りますから。大丈夫です」
細い体。細い手。
止められるはずがない。そう思うのに、その言葉が妙に現実味を持つ。
ガシュウが今、こうして目の前にいるのが証明だ。
「いいや。……もう、こんな奴の側にいるな」
口にした瞬間、自分で嫌になる。
今まで散々勝手に決めておいて、また逃げ道にしようとしている。
「……また、勝手に決めてる」
静かに言われた。責めるようでいて、諭すみたいな声だった。
フレアは息を吐いた。
反論はしない。
「……ああ、そうだな。全部、自分勝手な言い分だ」
「ガシュウが怒ると怖いの、伝わってるでしょう? ガシュウはしつこいんです」
ここ数日の光景が頭を巡る。
王宮で騒ぎ、拒否の隙も与えずに、こうして毎日会っている。
フレアは薄く息を吐いて、ほんの少し笑った。
「本当に、そうだ」
ガシュウは息を整えてから、震える声のまま続けた。
「あたしは、大切な人を自分で選べないのは嫌だ」
選べない。勝手に決められる。勝手にいなくなる。
それは、フレアにとってもずっと痛い言葉だった。
「孤児院のスタッフみたいに、いなくならないでほしい。勝手にいなくならないでほしい」
ガシュウの顔が、また傷ついた子供みたいになる。
自分の勝手さは、ガシュウの心をえぐる。
逃げて楽になるものは、ひとりもいない。
ガシュウは大袈裟に胸を張るみたいに息を吸い込んだ。
前のめりになり、顔が近付く。
「契約がなくても、フレアにそばにいてほしい」
フレアをまっすぐに見据えている。
「……俺は」
その視線を受けて、フレアの中で古い景色が浮かぶ。
母は家を出た。
父は家を出た。
どちらも勝手だった。
喧嘩の絶えない両親だった。
いつかそうなると思っていた。
そんなものだろうと思っていた。
違う。
本当は、いなくならないでほしかった。
本当は、傷ついていた。
――勝手にいなくならないでほしい
そう願っていいのだろうか。
この手を伸ばしていいのだろうか。
無意識に伸ばした手はガシュウに触れる前に、細い指に握り取られる。
ガシュウが、フレアの手を握った。
反射で引こうとして、そこで止まる。
駄目だ、と自分に言い聞かせる。
もう逃げたくない。
この手を離さない。
フレアは、もう片方の手も伸ばした。
握られた手の上から、重ねるように添える。
ガシュウは両手で包み込んだ。弱い力だ。けれど、今まで触れてきた何よりも強かった。
握り締めると、同じ力だけ返ってくる。
もうずっと泣いているのに、また泣いてしまった。
安心して、泣いてしまった。
「ずっと、俺には、おまえだけだった」
言った瞬間、胸の奥で何かがほどける。
出会った頃を思い出した。
路地裏。大きな樹の下は、葉の密度が濃くて、昼でも薄暗い。
そんな場所に店を構えるインチキ占い師。
初めて話した時から、不思議と楽しかった。
他人と距離を取るのが当たり前だった自分には、ありえないくらい自然に会話が続いた。
呆れて、可笑しくて、目が離せなかった。
そうだ。ずっと。あの頃から。
――初恋だった。
そんな言葉、似合わない。
似合わなくても、他に名前がない。
ガシュウの手は弱々しい。なのに、何よりも離しがたい。
この手を掴まれて、ようやく自分がどれだけ独りだったのか分かった。
ガシュウは泣きながら頷いた。言葉にならない息だけが漏れる。
握り合った手は、ほどけない。
蝋燭の火が揺れている。
ベッドはまだ未完成で、弁当の空き容器もそのままで、何ひとつ片づいていない。
それでも、この部屋の中でだけは、ようやく何かが始まった気がした。
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