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54.手を伸ばした

 次に案内された家は、明らかに広かった。  玄関を入ると、そのまま居間に繋がっている。  奥に台所と水回り。階段の脇に一部屋。二階にはさらに二部屋あり、廊下の片側がそのまま広いバルコニーになっていた。庭の代わりなのだろう。  一人で住むには広すぎる。  あの兄弟だけでも、まだ持て余すだろう。  三人で住むのにちょうどいい家を、なぜ見て回っているのか。そこだけがおかしかった。 「うわあ。ここ、バルコニーがあっていいね」  弟が窓を開けて外へ出た。 「街が遠くまで見えます」  ガシュウもその横へ行き、手すりの向こうを覗き込む。  ここへ来るまでの坂は急だった。家賃が相場より低いのは、そのせいだろう。だが、高いぶん眺めはいい。見渡した街はいつもの喧騒から少し離れて見えた。観光客で賑わう通りも、ここからだと別の場所のようだ。 「この家いいね」 「ね」  兄弟は、もうすっかり気に入っていた。 「フレアさん、家賃の割合ってどうしましょうか。僕たちは二人だから、七対三くらいにしますか」  子供に多く払わせる気はなかった。 「五対五だ。金の差は、そのまま力関係に出る」 「分かりました」 「待て。まだ住むとは決めていない」 「それも、分かってます」  ガシュウが小声で、「往生際が悪いですよ」と言った。  なぜ責められているのか分からない。  先に一階へ下りると、ポフだけがついてきた。  ガシュウはまだ二階で何か見ているらしい。 「フレアさん」  ポフが声を落とした。 「ガシュウの勘違いで巻き込んでしまって、すみません。僕も、一緒に住むって聞いていたから……嬉しくなってしまって」 「……迷惑ではない」  本心だった。 「でも、フレアさんはそんなつもりじゃなかったでしょうし」  ポフはそこで一度言葉を切った。まだ十二歳の顔だった。けれど、その目つきだけが妙に大人びて見える。 「ご存知の通り、ガシュウはあんな感じなので……正直、不安なところもあります。お金のことも、生活のことも。僕が頑張れば何とかなるとは思ってますけど、フレアさんが一緒なら、心強いと思ったのは本当です」  簡単な頼み事ではない。  子供ひとりが言うには、重い言葉だった。 「誰かと一緒に住むなんて、簡単なことじゃないのに、頼んでしまいました。フレアさんの意思を尊重しますので、返事はまた今度で大丈夫です」  ポフは頭を下げた。 「……ああ」  それしか返せなかった。  しっかりした子供に、情けない返事しかできない。大人のくせに、答えを持っていない。  そのとき、二階からガシュウが軽い足音を立てて下りてきた。  危なっかしくて、つい見てしまう。落ちないかと、そんなところばかり気になる。 「あたし、この家、気に入っちゃいました」  にこにこと笑っている。  楽しそうで、何よりだった。  そのあとも何軒か見たが、フレアの頭にはさっきの家が残っていた。  兄弟と別れ、宿舎へ戻る。  廊下の向こうで、任務を終えた連中が立ち話をしていた。こちらを見て、何か言って、笑う。噂話でもしているのだろう。くだらない。  視線を無視して、自室へ戻る。  扉を閉めた途端、静かになった。  宿舎は息が詰まる。  早く出ようと思っていた。  そう思っていたはずなのに、今日、頭に残っているのは部屋の狭さでも家賃でもない。  あの家だ。  坂の上にあって、不便で、少し古い。  広すぎるくらいの間取り。  バルコニーの向こうに街が見えた。  あの兄弟が並んで立っていた。  この家いいね、と笑っていた。  その声が、ずっと耳に残っている。  思い出すのは、もっと前のことだ。  初めて兄弟の家に入った日。  狭くて、古くて、貧しい部屋だった。  なのに、あの場所だけ妙にあたたかかった。  手を伸ばせば届く場所に、兄弟の気配が満ちていた。  呼吸の音まで近かった。  あの時も思った。  届く。  だが、届いてはいけないと。  金で縛っておいて。  壊しておいて。  今さら何食わぬ顔で、その輪の中に入りたいと思うのか。  図々しいにもほどがある。  それでも。  今日、あの家の窓辺に立つ兄弟を見て、また思ってしまった。  そこに帰れたら、と。  誰かが待っている家。  自分の帰りを知っている人がいる家。  くだらないことで噛み合わない声がして、食卓を囲んで、灯りが消える家。  そんなものを、欲しいと思ってしまった。  怖かった。  手を伸ばした先にあるのが、ただの家ではないと知っている。  あれは、兄弟が守ってきたものだ。  入るなら、壊したくない。  自分が入れば壊れるのではないか。  自分の持っているものを、また向けてしまうのではないか。  それでも、欲しい。  欲しいと思ってしまった以上、もう見なかったことにはできなかった。  その晩は、なかなか寝つけなかった。  翌日、少し早く宿舎を出た。  いつもならロビーで待つが、今日は入口の外に立った。冷たい空気が頬に触れる。 「あら、フレアさま。どうしました」  時間通りにやってきたガシュウが、外で待っているフレアを見て目を丸くした。 「話がある」 「話ですか。寒いですし、中に入りましょうよ」 「弟もいた方がいい」  ガシュウがぱちぱちと瞬きをした。 「ポフですか。……呼んできます?」 「二度手間だ。今から、おまえの家に行っていいか」 「うちに? もちろん!」  ガシュウが飛び跳ねた。首元の鍵が一緒に跳ねる。  兄弟の家へ行き、ローテーブルを挟んで向かい合う。  ガシュウとポフが並んで座っていた。  その距離を見て、少しだけ息が詰まった。  今から、自分はここに手を伸ばそうとしている。 「返事は、早い方がいいと思った。一晩、考えた」  二人の顔つきが変わる。 「一緒に住む話のことだ」  短く息を吸う。  ここで断れば、元に戻れる。  ひとりの家に帰るだけだ。  それなら傷つけずに済む。壊さずに済む。  けれど、もう無理だった。  欲しいと思ってしまった。  頭を下げる。 「……入れてくれ」  自分の声なのに、少し掠れて聞こえた。 「俺も、おまえたちと一緒に住みたい。俺でよければ」  しばらく沈黙があった。  次の瞬間、ガシュウが息を呑む音がした。 「もちろんです」  弾んだ声だった。 「もちろん。大歓迎です」  ポフも言った。  顔を上げると、兄弟は手を取り合っていた。ガシュウは今にも抱きついてきそうな顔をしていて、けれど必死に座っていた。  その様子が、ひどく眩しかった。  受け入れられた。  それだけで、胸が熱くなる。  息が詰まるのとは違う。  苦しくて、あたたかいものだった。  もう、自分ひとりのためだけに家を探すことはないのだと思った。

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