54 / 59
54.手を伸ばした
次に案内された家は、明らかに広かった。
玄関を入ると、そのまま居間に繋がっている。
奥に台所と水回り。階段の脇に一部屋。二階にはさらに二部屋あり、廊下の片側がそのまま広いバルコニーになっていた。庭の代わりなのだろう。
一人で住むには広すぎる。
あの兄弟だけでも、まだ持て余すだろう。
三人で住むのにちょうどいい家を、なぜ見て回っているのか。そこだけがおかしかった。
「うわあ。ここ、バルコニーがあっていいね」
弟が窓を開けて外へ出た。
「街が遠くまで見えます」
ガシュウもその横へ行き、手すりの向こうを覗き込む。
ここへ来るまでの坂は急だった。家賃が相場より低いのは、そのせいだろう。だが、高いぶん眺めはいい。見渡した街はいつもの喧騒から少し離れて見えた。観光客で賑わう通りも、ここからだと別の場所のようだ。
「この家いいね」
「ね」
兄弟は、もうすっかり気に入っていた。
「フレアさん、家賃の割合ってどうしましょうか。僕たちは二人だから、七対三くらいにしますか」
子供に多く払わせる気はなかった。
「五対五だ。金の差は、そのまま力関係に出る」
「分かりました」
「待て。まだ住むとは決めていない」
「それも、分かってます」
ガシュウが小声で、「往生際が悪いですよ」と言った。
なぜ責められているのか分からない。
先に一階へ下りると、ポフだけがついてきた。
ガシュウはまだ二階で何か見ているらしい。
「フレアさん」
ポフが声を落とした。
「ガシュウの勘違いで巻き込んでしまって、すみません。僕も、一緒に住むって聞いていたから……嬉しくなってしまって」
「……迷惑ではない」
本心だった。
「でも、フレアさんはそんなつもりじゃなかったでしょうし」
ポフはそこで一度言葉を切った。まだ十二歳の顔だった。けれど、その目つきだけが妙に大人びて見える。
「ご存知の通り、ガシュウはあんな感じなので……正直、不安なところもあります。お金のことも、生活のことも。僕が頑張れば何とかなるとは思ってますけど、フレアさんが一緒なら、心強いと思ったのは本当です」
簡単な頼み事ではない。
子供ひとりが言うには、重い言葉だった。
「誰かと一緒に住むなんて、簡単なことじゃないのに、頼んでしまいました。フレアさんの意思を尊重しますので、返事はまた今度で大丈夫です」
ポフは頭を下げた。
「……ああ」
それしか返せなかった。
しっかりした子供に、情けない返事しかできない。大人のくせに、答えを持っていない。
そのとき、二階からガシュウが軽い足音を立てて下りてきた。
危なっかしくて、つい見てしまう。落ちないかと、そんなところばかり気になる。
「あたし、この家、気に入っちゃいました」
にこにこと笑っている。
楽しそうで、何よりだった。
そのあとも何軒か見たが、フレアの頭にはさっきの家が残っていた。
兄弟と別れ、宿舎へ戻る。
廊下の向こうで、任務を終えた連中が立ち話をしていた。こちらを見て、何か言って、笑う。噂話でもしているのだろう。くだらない。
視線を無視して、自室へ戻る。
扉を閉めた途端、静かになった。
宿舎は息が詰まる。
早く出ようと思っていた。
そう思っていたはずなのに、今日、頭に残っているのは部屋の狭さでも家賃でもない。
あの家だ。
坂の上にあって、不便で、少し古い。
広すぎるくらいの間取り。
バルコニーの向こうに街が見えた。
あの兄弟が並んで立っていた。
この家いいね、と笑っていた。
その声が、ずっと耳に残っている。
思い出すのは、もっと前のことだ。
初めて兄弟の家に入った日。
狭くて、古くて、貧しい部屋だった。
なのに、あの場所だけ妙にあたたかかった。
手を伸ばせば届く場所に、兄弟の気配が満ちていた。
呼吸の音まで近かった。
あの時も思った。
届く。
だが、届いてはいけないと。
金で縛っておいて。
壊しておいて。
今さら何食わぬ顔で、その輪の中に入りたいと思うのか。
図々しいにもほどがある。
それでも。
今日、あの家の窓辺に立つ兄弟を見て、また思ってしまった。
そこに帰れたら、と。
誰かが待っている家。
自分の帰りを知っている人がいる家。
くだらないことで噛み合わない声がして、食卓を囲んで、灯りが消える家。
そんなものを、欲しいと思ってしまった。
怖かった。
手を伸ばした先にあるのが、ただの家ではないと知っている。
あれは、兄弟が守ってきたものだ。
入るなら、壊したくない。
自分が入れば壊れるのではないか。
自分の持っているものを、また向けてしまうのではないか。
それでも、欲しい。
欲しいと思ってしまった以上、もう見なかったことにはできなかった。
その晩は、なかなか寝つけなかった。
翌日、少し早く宿舎を出た。
いつもならロビーで待つが、今日は入口の外に立った。冷たい空気が頬に触れる。
「あら、フレアさま。どうしました」
時間通りにやってきたガシュウが、外で待っているフレアを見て目を丸くした。
「話がある」
「話ですか。寒いですし、中に入りましょうよ」
「弟もいた方がいい」
ガシュウがぱちぱちと瞬きをした。
「ポフですか。……呼んできます?」
「二度手間だ。今から、おまえの家に行っていいか」
「うちに? もちろん!」
ガシュウが飛び跳ねた。首元の鍵が一緒に跳ねる。
兄弟の家へ行き、ローテーブルを挟んで向かい合う。
ガシュウとポフが並んで座っていた。
その距離を見て、少しだけ息が詰まった。
今から、自分はここに手を伸ばそうとしている。
「返事は、早い方がいいと思った。一晩、考えた」
二人の顔つきが変わる。
「一緒に住む話のことだ」
短く息を吸う。
ここで断れば、元に戻れる。
ひとりの家に帰るだけだ。
それなら傷つけずに済む。壊さずに済む。
けれど、もう無理だった。
欲しいと思ってしまった。
頭を下げる。
「……入れてくれ」
自分の声なのに、少し掠れて聞こえた。
「俺も、おまえたちと一緒に住みたい。俺でよければ」
しばらく沈黙があった。
次の瞬間、ガシュウが息を呑む音がした。
「もちろんです」
弾んだ声だった。
「もちろん。大歓迎です」
ポフも言った。
顔を上げると、兄弟は手を取り合っていた。ガシュウは今にも抱きついてきそうな顔をしていて、けれど必死に座っていた。
その様子が、ひどく眩しかった。
受け入れられた。
それだけで、胸が熱くなる。
息が詰まるのとは違う。
苦しくて、あたたかいものだった。
もう、自分ひとりのためだけに家を探すことはないのだと思った。
ともだちにシェアしよう!

