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第二回

==================== 【第3話】噛み合わないαとΩ、すこし近づく午後 ==================== ――第5章:勉強を習う前に 土曜日の午後。 律は蒼司のデスクに椅子を寄せて座った。蒼司から、勉強を教えてくれと言われたためだ。 交換条件として、部屋の恒久的な片付けを出し、成立した。 これで少しは安らげる、と律は思った。 蒼司が教科書とノートを広げ、律が横から覗き込む。ノートは、板書の写しがされているページもあれば、空白が多いものもある。気分にむらがあるのか、分からずに諦めたのか。 律 「で、どこがわからないんですか?」 蒼司 「…ここか?」 蒼司は困惑した表情で、この前に授業で当てられた問題を指差した。 律 「僕に聞かれても答えられません」 蒼司 「なら、俺はどうすれば良いんだ」 律 「よくこの学校に入学できましたね」 蒼司 「ヤマが全部当たったんだ。凄くないか?」 得意げに蒼司は言った。 呆れた律は、肩を落として溜息をつく。 律 「運がいい人ですね…。じゃあ、一年の時は、授業は分かってたんですか?」 蒼司 「そうだな…、期末や年末のテストはクリアしているからな」 律 「それも勘で?」 蒼司 「それもあるけど、ルームメイトや友人がいろいろ動いてくれたんだ」 この人の周りにはお人好ししか居ないのか。だとすれば、と浮かんだ疑問を口にした。 律 「それなら、今回もそうすれば良いんじゃないですか?僕でなくても」 蒼司 「律はルームメイトだし俺の番候補だ。番になるなら仲を深めたいし、それに頭が良いと聞いたぞ」 蒼司が律の肩をポンと叩く。律はアルファに触れられたと、小さく体が拒否する。 律 「…何度も言ってますけど、僕は誰かと番になる気は有りません」 蒼司 「それだ!理由を教えろ。何でだ?」 今日までにも何度か、蒼司は律から番にはならないと聞いていた。 世の中には、番にならないオメガとアルファがいることは知っている。でも律の頑なさは、単に嫌がっている以上の何かを感じずにはいられなかった。 律 「…オメガだからといって、番にならなきゃいけないと思っていないので」 律は、蒼司のノートを確認しながら、言った。 蒼司 (何だこの、用意されたセリフみたいな言い方は) 本音を隠されたと感じた蒼司は、少しムッとして言い返す。 蒼司 「俺が相手でもか?嫌いか?俺のことは」 律 「は?好きになるって思ってます?」 蒼司 「思ってる」 即答した。俺は理由もなく嫌われるような人間じゃないはずだ。 律 「…僕がオメガで、あなたがアルファだから?」 蒼司 「バースはもちろん関係あるけど、俺はみんなに好かれるからだ」 俺には仲の良い友人もいるし、助けてくれるルームメイトもいた。ピンと来なかったから断ったが、何人かのオメガやベータから告白されたこともある。 好かれてるというのはそういうことじゃないのか。 律 「ここに、そうじゃない人間が居ますけど」 …やっぱり律は例外だ。番候補で、同室で、勉強も教えてくれるのに、俺を嫌いだと言う。 なのに、イヤな感じがしない。きっと、律もそうだ。そもそも嫌なら、今隣に座っている訳がない。 蒼司 「大丈夫だ。俺は辛抱強い方だからな」 何を根拠に大丈夫と言い切れるのかと、律は思った。僕は番にならないと再三伝えているのに、どこに希望を持っているんだろう。 そもそも、番になれるかはフェロモンの相性だ。僕以外にも、探せば候補は見つかるだろうに。 律 「…待ちぼうけにならないといいですね」 皮肉を言ってみるが、蒼司には伝わっていないようだ。きょとんとした顔をされてしまった。律は、本来の目的を思い出す。 ――第6章:素直が香る 律 「で、分からないが分からないなら、教科書の初めからやるしかないです」 蒼司 「もうすぐ9月になるのに、4月のものからか」 律 「初めからちゃんとやっておけば良かったんですよ」 そう言って、律は自分の教科書も引っ張り出してきて、一から蒼司に勉強を教える。問題の読み方、解き方、公式などについて、ひとつずつ丁寧に。 時折蒼司が質問をはさみ、律が答える。言葉足らずな質問に内心苦戦しつつも、律はできるだけかみ砕いて説明した。理解すると、蒼司の眉間によっていたしわがぱっとほどける。 そうして、どんどんと教科書を進んでいく。すると、さすがのアルファと言ったところか。一度覚えてしまえば、すらすらと問題を解けるようになった。蒼司の理解が早いので、律もつい教えるのに熱が入る。 しかし、蒼司が弱々しい声を上げて、突然机に突っ伏した。 蒼司 「律、もう無理…。脳みそパンクしそうだ…」 律は、倒れこんでいる蒼司の腕の下から、今日分のノートを引き抜いて、パラパラとめくる。金釘文字で読みにくいが、式も解もきちんと書かれていた。 律 「正直、凄いですね。橘さんがアルファだって、初めて実感しました」 素直にそう思った。少し羨ましさすら感じる。 蒼司 「凄い?これで?」 伏せたままの姿勢で、蒼司が顔だけこちらを向く。いつもは自信満々な眉が不安げに下がっていて、律は少し面食らう。 この人、自分に並外れた才能があるという自覚が無いのか? 律 「え?だって、4月に習った分、ほとんど終わりましたよ?」 蒼司 「そうなのか。それは凄いのか?」 律 「1ヶ月かけて覚えるものを、半日ですから、凄いです」 改めて伝えると、蒼司は体を起こして律を見た。何をするのかと律は少し身構えたが、蒼司の表情がゆっくり変わり、心底嬉しそうな顔になる。 人を惹きつけるアルファの、打算のない笑顔。 無意識に蒼司のフェロモンを吸い込んだのか、律の胸がドキリとした。しかし、どこか一歩引いたところから、この笑顔なら人に好かれるというのも分かる気がする、と冷静に見ている自分もいた。 蒼司 「…律に褒めてもらえるの、いいな。特別な感じがある」 律 「何ですかそれ」 蒼司があまりにも普通に言うものだから、反射的に早口になった。 特別?また、単に番候補だからと言うんだろう。そう思う律をよそに、蒼司は体を律の方に少し傾けて、ばつの悪い表情をした。 蒼司 「いつも、俺は怒らせてばっかりだろ」 律 「…まぁ、そうですけど」 蒼司 「来週も頑張ったら、褒めてくれるか?」 子どものような期待のこもった眼差しだった。蒼司の方が体格はいいのに小学生みたいだ。 律 (もしかして、橘さんは褒められ慣れてないのか?) 勝手な想像が、律の思い出を連れてくる。 母さんの手伝いをした時、テストで良い点を取った時。母は大袈裟に僕を褒めてくれたっけ。 懐かしさに浸りそうになり、はっと今に意識を戻す。 律 「部屋を散らかさないのとセットなら、いいですよ」 蒼司 「言ったな。俺はやればできるからな」 自信家の顔に戻った蒼司は、ふふんと鼻を鳴らした。 律 「片付けと勉強くらいで威張らないでください」 律は、自分の教科書をパタンと閉じて、立ち上がった。椅子も、自分のデスク側に戻す。 ふと時計を見れば、夕飯時だ。食堂は8時までだから、いい頃合だろう。 それは、自分でも理由の分からない気まぐれだったと思う。いつもなら、そのまま食事に行ってくると告げて部屋を出るのに。 見つけた何かを置いていくような気がして、律は蒼司に声をかけた。 律 「食堂、一緒に行きますか?」 蒼司 「行く!」 蒼司は、待てを解除された犬のような勢いで返事をした。その様子に思わず、口元が緩む。 蒼司 (笑った?) 初めて見たかもしれない、ルームメイトの表情。 当たり前だが、律も笑うんだな。 でも、それを口にしてしまうと、また頑なな律に戻る気がして、蒼司はグッと言葉を飲み込んだ。 そして、一度伸びをしてから立ち上がり、律と連れ立って部屋を出た。 ==================== 【第4話】追い詰められたΩと、揺れるαの本能 ==================== ――第7章:律のヒート 昨日から、体がだるい。頭がぼーっとする。 2時限目までは何とか耐えていたし、持ってきていた追加の抑制剤も服用した。 律 (なんで、収まらないんだ…) 律の様子に、飯塚やクラスのオメガたちが、訝しげな視線を送る。この授業が終わったら、保健室に行こう。 確か、点滴か注射かでヒート用の抑制剤を投与してもらえるはずだ。 授業が終わると同時に、ゆっくりとした足取りで教室を出る。 視界がぐらりとして、思わず壁に手をついた。心配そうに見てくる生徒もいるが、誰も声はかけない。 ヒートの管理はオメガの責任だと考えられているためだろう。 遅々として進まない足取りにもどかしさを感じながら、進んでいく。やがて、短い休み時間が終わり、廊下から生徒がいなくなった。 階段の踊り場まで来て、一度座り込む。 律 (こんなに重たいのなんて、久しぶりかもしれない) 思い当たる節はある。アルファである蒼司と同室なことだ。しかも、抑制剤を飲んでいるのに、時々フェロモンが香ることもあった。 番候補だと言われているし、相性が良いのは本当なのかもしれない。 それに、感じなかったとしてもアルファのフェロモンを毎日吸引していたのだろう。これまでよりもヒートの症状が重いのも頷けた。 再び保健室を目指すために、立ち上がろうとした時だった。 ゆっくりとした足音が、上の階から聞こえてきた。 律 「橘…さん?」 そこにいたのは蒼司だ。一歩一歩、律に向かって歩いてくる。しかし、様子がおかしい。肩で息をしており、目の焦点があっていないような、静かに狙いを定めているような視線を律に向けている。 蒼司 「律…なんて匂い、させてんだ」 そう言って蒼司は、生唾を飲む。ゆっくりと喉仏が上下した。いつもと違う蒼司に、律に緊張が走る。 律 「…それ以上、来ないでください。授業中でしょう?」 蒼司 「授業?そんなもの、今やってる場合か?」 ジリジリと、律は追い詰められる。 …ラットになりかけているのか?僕のヒートのせいで。 走って逃げたくても体が言うことを聞かない。蒼司が近寄ってくるにつれて、フェロモンの香りも野性味を帯びてどんどんと強くなる。 蒼司 「律、逃げるな…!」 律 「なっ…!」 蒼司は、律の両肩を掴んで壁に押し付けた。肩口に顔を埋めて大きく呼吸をすると、息が更に荒くなっていく。 律は言いようのない恐怖心とフェロモンに反応する熱を同時に感じていた。頭がくらくらする。 怖い。このままだと、我を忘れそうで、怖い。 律 「やめてください…!離せっ!!」 今までにない大声が出た。必死の叫びに、蒼司の力が一瞬抜ける。肩から手が外れた。 蒼司 「あ、れ?」 言葉に正気が滲む。律は隙を突き、転がるようにして踊り場をあとにした。足がもつれるが、必死で走る。保健室の中に飛び込むと、保健医が驚いて駆け寄ってきた。 保健医 「どうしたの!?その様子、ヒート?抑制剤は?」 律 「使ったんですけど、効かなくて…」 保健医 「そう、じゃあ注射用意するわね」 保健医は、律を支えて近くのベッドに座らせると、テキパキと注射を用意した。アルコール綿で腕を消毒して針を刺す。 薬品が体内に入ってくる感覚がした。普段使用している抑制剤より効果があるはずだと、律はやっと安心する。 保健医 「しばらくしたら落ち着くと思うから、ベッドで休んでて。あ、クラスと名前教えてくれる?」 律 「2-C、三浦律、です」 保健医 「三浦さんね。担任の先生とかには連絡しておくから、体を休めなさい」 律 「はい」 ゆっくりとベッドに横になる。呼吸を整えながら、さっきの蒼司を思い出した。 我を忘れたアルファを見たのは初めてだ。 強い力、獲物を狙うような視線、耳元の生暖かい息、そして我を忘れそうになる香り。 ぞくり、と今になって背筋が凍る。 律 (フェロモンにのまれていたら、僕はあの場でどうなっていたんだろう…) ヒートのオメガとラットのアルファ。保健体育の授業で習った現象だ。フェロモンが神経を高ぶらせるため、本能的に行動してしまう。そして、番同士に性的興奮や支配、従属を促す。 知識として知っていたが、体験としては初めてだ。 律 (あんな場所でそんなことになれば、学校にいられない) 良くて停学、最悪の場合は退学もありえなくはない。それだけは避けたかった。 それに、首の裏をアルファに噛まれれば、心身ともに「番」となり、オメガ男性はアルファの子どもを宿すために体が徐々に変化していく。 その際の体の負担は、想像に難くない。だからこそ、大事にならなくてよかったと、律は胸を撫で下ろす。 律 (橘さんが一瞬正気になってくれて良かった…) あの様子から察するに、彼も初めての経験だったのかもしれない。律は、無理やり従属させられる恐怖と同時に、困惑した蒼司に少し同情心もあった。 橘さんは僕から離れて正気になれたのだろうか。 徐々に抑制剤が効いてきて、気持ちや体の昂りが収まってくる。同時に、疲労のせいか睡魔が襲ってきて、律はゆっくりと眠りに落ちた。 ――第8章:蒼司とラット 蒼司は、踊り場での一件のあと、自我を取り戻すと教室に戻った。教師に早退を告げて寮の部屋に帰る。 律は保健室に行けたのだろう。しんと静まり返っている。 ベッドに寝転がって天井を見つめた。 「離せっ!」 聞いたことのない律の声で、意識を取り戻した。あの声がなければ、そのまま何をしていたかわからない。 蒼司 (ラット?俺が?) あの時は確か、教師が来るのが遅れていて…。 机にノートを広げて律に習ったところを見返していたら、甘いフェロモンが香ってきた。クラスが違うから、そばに律がいるわけがないのに。 気がついたら、香りに引き寄せられるように席を立っていた。 その後は、よく覚えていない。正確には、自分とは違う自分が、勝手に体を動かしていて、まるで映画のスクリーンに映る映像をもどかしく見ているような感覚だった。 …香りの先に律がいた。 いつもよりいい匂いがした。 もっと嗅ぎたい。 そう思って、無理矢理、壁に押し付けた。 いい匂いがした。 体に力がみなぎってきて、力ずくでも律を――。 蒼司 (そんなこと、して良いわけがない) 蒼司は唇を噛む。自分ではどうしようもできない、本能の奔流。フェロモンを感じてすぐに、人格の座を奪われてしまった時の感覚が消えてくれない。 それを律の声が断ち切ってくれた。 蒼司 (止められて、良かった) あのまま、本能のままに律に襲いかかっていたら?肉食獣が草食獣を狩るように。しかも、自分の意志とは関係なく。 でも確かに、自分自身がしたくてそうしていた。そんな取り返しのつかないことを、俺が?そう、俺のなかにあるアルファの本能が。 ぐるぐると考えている間、蒼司は息を止めていた。限界が来て、思い切り咳き込む。気持ちが悪い。 自分の身体なのに、自分でなんとかできないなんて。 コントロールを失う恐怖心が、蒼司の心の底にこびりつく。 ざらりとした肉食獣の舌の感覚が、怯える自身ですら舐め取ってしまいそうだ。 蒼司 (だから、律は抑制剤を飲めと言っていたんだ) 今さらながらに、自分の浅はかさを知る。 何がアルファだ。何が橘家だ。番候補を傷つけてもそれが言えるのか。 律の声で、正気に戻れた。 すぐに律は離れていったが、一瞬見えた瞳は明らかに怯えていたと思う。 当たり前だ。学校の階段の踊り場で――。 ヒートにならないようにと日々抑制剤を飲んでいるのに効かなくて、そこに俺のようなアルファが来れば、怖いに決まっている。 蒼司 (律が戻ってきたら…戻ってきてくれたら、謝ろう) 許してもらえるかは分からない。ただ、何事もなかったようにはできない。蒼司は一つ深呼吸をして、身を起こす。 律を待つ間、ノートと教科書を開いた。あの土曜日の楽しさが、戻ってくるよう願って。

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