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第三回
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【第5話】答えを探すαとΩ、揺れる「運命」のひびき
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――第9章:蒼司の謝罪と律のこえ
午後9時ごろ。小さな音を立てて、ドアが開いた。律が少し怯えた表情をしながら入ってくる。
蒼司は思わず席を立つが、近寄ろうとしてとどまった。
近づいてしまうとまた、同じことをしてしまうのではないかと恐怖心が頭をよぎる。
律は出入口の前。蒼司は共有スペース。数メートルの距離。
蒼司 「…律」
名前を呼ぶが言葉が続かない。律は戸惑うように視線を揺らした後、小さく頭を下げる。
律 「すみません、僕の管理が甘くて」
蒼司 「違う!律は毎日ちゃんとしてた。今日のことは、俺が悪いんだ。本当に悪かった」
そう言って、蒼司は深々と頭を下げた。
…自分が誰かに、こんなに真剣に謝ったことはあっただろうか。ふとそんなことを思った。
律 「…俺が悪い、というのは?どういうことですか?橘さんも、毎日抑制剤飲んでましたよね?」
律の問いかけに、蒼司は顔を上げた。質問に答えるようにゆっくりと頷く。
蒼司 「飲んでた。…律が用意してくれていたから」
律 「…じゃあ、お互いに抑制剤を飲んでいたってことですね。なら、謝ることないです。事故、みたいなものだし…」
蒼司 「…そうじゃない」
視線を合わせてくれない律に胸が痛みながら、蒼司は異を唱える。
蒼司 「律を、怖がらせた。それに、律が止めてくれなかったらもっと傷つけていたかもしれない」
そこまで言って、一度ゆっくりと息を吸ってから言葉にした。自分の甘さを。
蒼司 「俺は、多分、自分はラットにならないって、根拠もなく思ってたんだ」
律 「…橘さんらしいと言うか…」
律は、蒼司の言葉に少し表情をやわらげた。しかし、蒼司にはそれが一層苦しかった。一切、俺を責めずに、バースのせいだと言い聞かせているように見えたからだ。
蒼司 「怖かった、よな?」
律 「そう…ですね。アルファにあのように迫られたのは、初めてなので」
律が腕を組み、自分の体を抱きしめるようなそぶりをした。見ていられなくて再び頭を下げて謝る。
蒼司 「本当に、すまなかった」
律 「いえ、正気になってくれたので、大丈夫でしたから」
そう言われて、蒼司は思い出す。
蒼司 「あれは、律の声が聞こえたから戻れたんだ」
律 「え?」
律が首を傾げて目をぱちくりとさせる。蒼司は説明しようと、早口に告げた。
蒼司 「離せと、言ってくれただろ?止めてくれてありがとう」
律 「それで、ラット化を止められた?」
蒼司 「そうだな。いや、俺も初めてだから、分からないけど」
律は顎に手を当てて、少し思案する。ラット化はもしかして、ヒートのオメガを前にしても、止めるすべがあるんだろうか?
蒼司 「今後は、ヒートのときは、近づかない方がいいか?その時だけ、保健室に寝泊まりするとか確かできたよな?」
申請すれば、ヒートのΩは学校の保健室の夜間利用が可能だ。寮にも診療室はあるが、アルファも寮内にいるため、校舎の保健室利用が推奨されている。
律 「そうですね。次回はそうします。橘さんも、そのほうがいいでしょ?」
夜に律のいない部屋を想像し、蒼司の眉がしゅんと下がる。
蒼司 「…離れるのは少し寂しいが、仕方ない」
律 「…寂しい?非常時なんですから、我慢してください」
蒼司 「分かってる」
律はため息に交じりに言った。息を吐いたことで、少し緊張も和らぐ。お互いに、少しだけいつもの調子が戻ってきたように感じた。
打ってもらった抑制剤が効いているのだろう。律は、部屋の中へゆっくりと歩を進める。
蒼司のフェロモンは感じなかった。自身のフェロモン分泌もブロックできているはずだ。
恐怖心がゼロになったわけではないが、橘さんも不本意だったと分かっただけでもよしとしなければ。
頭を切り替えて、まだ心配そうにしている蒼司に律は問いかける。
律 「橘さん、僕のフェロモン感じますか?」
蒼司は、ハッとした後、何度かすんすんと部屋の空気を吸ってみせた。
蒼司 「いや、とくには感じないな」
律 「よかった。一応、明日も保健室に行って抑制剤を注射してもらいます」
蒼司 「…注射平気なのか?」
律 「苦手なんですか?」
蒼司 「できればやりたくないことランキングがあれば、3位以内に入る」
律 「子どもですか、注射くらいで」
蒼司がもごもごと何か言いたそうなのを無視して、律は自分のベッドに腰かけた。それを見て蒼司も椅子に座りなおす。
机の上にはノートと教科書が置いてあった。
律 「勉強、してたんですか?」
蒼司 「ああ。前に律に教わったところを復習していた。大事なんだろ?振り返りが」
律 「はい。忘れかけたころにやると、より効率的らしいですよ」
蒼司 「忘れたら忘れるからな…」
律 「あなたはほんとに、何というか…変なアルファですね」
うまい言い回しが見つからなかったので、率直に思った事を伝える。
蒼司 「変!?俺のどこがだ?!確かに勉強は苦手だが、顔もいいし運動もできるぞ!」
蒼司の顔が「ぷんすか」といった表情に変わった。
律 「そういうところですよ」
律は一瞬緩んだ口を結び、わざとらしくため息をついた。ぎこちなくベッドにあがり、体育座りをした。
ギシ、と軋む音が思ったよりも大きく響く。律は、今回のヒートやそれ以前の状況で、うすうすと感じていたことを話し始めた。
――第10章:運命の番
律 「橘さん…」
律が静かに呼びかける。なんだ?と蒼司が体ごと律を向いた。
律 「僕は、抑制剤を普段から使用していても、橘さんのフェロモンを感じることがあります。橘さんは?」
蒼司 「…ある。今日ほど強くはないが、近くにいるとたまにな」
それを聞いた律は、一度ぎゅっと目を閉じた。
律 「普通の番って、抑制剤を使っていればヒート時以外はほとんどフェロモンを感じないはずなんです。だから、不本意ですけど、普段からフェロモンを感じていた僕たちは…『運命の番』なのかもしれません」
律は、保健室で思い至った結論を口にした。
フェロモンの相性が良いアルファとオメガを番と言う。その中でも、さらに遺伝的に相性が良いとされるのが「運命の番」だ。
通常の番よりもフェロモンによる結びつきが強く、抑制剤も効きにくい。
律はこれまでの状況から、蒼司と自分は、単なる番ではなく運命の番であると考えたのだ。それを聞いて蒼司は、一度ゆっくり頷く。
蒼司 「やっぱりそうか」
蒼司の返答は、律にとっては意外だった。運命の番を知らないか両手を上げて喜ぶかと思っていたのに。しかし、淡々としている。
蒼司 「…律は、嬉しくないんだな」
律 「橘さんは、本能で結びつくことに抵抗ないんですか?」
蒼司 「…俺は、番を得ることが当たり前だと思っている。それが運命の番であれば、何と言うんだ、ラッキーだ」
律 「は?ラッキー?」
その言い方に律は少しムッとする。蒼司は言い訳するように言葉を続けた。
蒼司 「俺の家はアルファ家系だから、俺の相手はオメガしか認められない。なのに、ここで運命の番に出会えるなんて、すごい確率じゃないか!」
律 「…家のため、ですか」
律は自分でも分からない、小さな棘が胸を刺したのを感じた。蒼司は大げさに胸を張って言葉を続ける。
蒼司 「家のため、だった。でも今は、律が相手でよかったという気持ちの方が大きいんだ」
律 「え?」
律の鼓動が少し早まる。フェロモンは感じていないのに。蒼司は、少し頬を上気させながら、一つ一つの言葉をゆっくりと紡いでいく。
蒼司 「律は、なんていうか、俺を甘やかさないだろ?アルファだから従おうとか、名家出身だから優しくしようとか」
律 「それは、そう、ですけど」
蒼司 「俺はそれがなんか、嬉しいんだ。特別と、いうか。それに、番なんて嫌と言いながらも、勉強を教えてくれて…さっきだって自分のことより俺を心配してくれただろ?」
律 「…アルファは、オメガのヒートに影響されているだけですから…」
蒼司 「違う!俺が本能にのまれなければ、怖がらせることはなかった!」
蒼司の真剣さに律は思わず息をのむ。違う。…いや違わない。我を失っていた蒼司は確かに怖かった。でも、本当に恐れていたのは、オメガとしての本能に乗っ取られてしまうことだ。
そう、言いたかったのに、言葉の代わりに息を吐く。
ヒートはオメガにしかない。アルファの蒼司に話しても、分かってもらえない気がしたのだ。
暗い海の底に沈められるような息苦しさを思い出して、膝を少し引き寄せる。
蒼司 「さっきも言ったが、俺は、律が運命の番で良かったと思ってる」
さっきの剣幕とはうらはらに優しげに言われて、自分の頬が熱を帯びたのを感じる。急なヒートの後だから、ちょっと変なのかもしれない。顔を見られたくなくて、体育座りをした膝に額を乗せた。
律 「…だとしても、僕は、あなたと番になる気はありません」
蒼司 「…俺はなりたいけど…」
律 「拗ねてもダメです」
その言葉が「これ以上何も聞くな」という拒否の意味を含んでいることは、蒼司にも分かった。それ以上は追求をやめる。
少しの間の沈黙を破ったのは律だった。勉強を教える時のようなキリっとした顔で蒼司に問いかける。
律 「…僕の声で、正気に戻れたって言ってたじゃないですか?」
蒼司 「ああ。そこでブレーキがかかった感じだったな」
律 「なら、抑制剤だけじゃなくて、なんというか気持ち?で抑えられるかもしれないですね」
蒼司 「気持ち?」
律 「ラット自体は、ヒートのオメガに対する反応としか知らないんですけど。戻れたなら、初めから抑えることもできるのかなと」
蒼司 「気合か。分かった、頑張ってみるからな」
律 「それで駄目だったら嫌なんで、試したいとか言わないでくださいね」
蒼司 「…そうか…でも万が一を考えておく…」
律 「そうしていただけると助かります」
いつの間にか深夜近くになっていた。蒼司のあくびにつられて、律もふわぁと息がもれる。
保健室で寝たから寝れるか心配だったが、大丈夫そうだ。
蒼司 「律、もし体調が悪くなるようなら遠慮なく起こせよ?」
蒼司は律に言った。律は少し申し訳なさそうに答える。
律 「…ありがとうございます。あ、僕の抑制剤の場所」
蒼司 「引き出しの二段目だろ?分かってる」
律 「はい。もしものときは飲ませてください」
蒼司 「ああ。じゃあ、おやすみ」
律 「…おやすみなさい」
寝る前の挨拶を交わし、蒼司が部屋の明かりを消す。すぐに、蒼司の方から寝息が聞こえてきた。
律 (橘さんもきっと疲れたんだな)
恐怖と安心。
そして、ほのかに灯った「運命の番」という事実。
律はメガネを外してヘッドボードに置く。少しの間、蒼司のぼやけた寝顔を見ていた。
僕の声で、理性を取り戻したなんて本当なのだろうか。
律 (もしまた、橘さんがラットになってしまったら、また僕が戻せるのかな)
そんな疑問が浮かんだが、やがて律も夢に誘われていった。
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【第6話】困惑するΩと、震えるαの正義感
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――第11章:迎えにいく午後、母を語る時間
その日律と蒼司は、橘家が所有する車の後部座席に座っていた。夕方の街を、運転手が運転する車が通り抜けていく。
今日は、蒼司の家で食事会だ。蒼司の両親が、番候補である律とその母親を招いていた。
今は、律の母親を迎えに律の家まで向かっている。住所はカーナビに登録済みのため、特に指示することもない。
オレンジ色の光が淡く律の髪を透かしていた。
しばし見とれていた蒼司は、はっとして何か話題をと思い、家族の話を振ってみた。
蒼司 「…律の母親って、どんな人だ?」
律は少し首を傾けてから答えた。
律 「どんな…。そうですね、敵わない人、ですかね」
蒼司 「強いのか?」
律 「母もオメガなんですけど、それで職場を転々としたらしくて。だから、今の職場ではヒート休暇制度の導入を推進して認めさせたんですよ。助成金?も出るとか言って。そのときは珍しく家でお酒飲んでましたね」
蒼司 「…すごいな」
律 「でもベータの人の負担が増えちゃいけないって、仕事は倍こなすようにして。寮に入る前は、僕の世話もしていたし。…ほんと、敵いません」
律はどこか誇らしげな顔をした。蒼司もつられて柔和な顔になる。
蒼司 「律は、母親が大事なんだな」
律 「え、そりゃ、そうです。女手一つで、育ててくれたので。橘さんは?」
聞かれて蒼司の緩んでいた表情が少し曇る。
蒼司 「…最近、よく分からん。昔は、優しかったんだが」
律 「…今日お会いするの、ちょっと怖くなってきました」
蒼司 「あ、悪い。そんなつもりはなかった。ただ、何かあれば俺からも、ちゃんと、言う」
律 (言えなさそうだ…)
そんな話をしていると、郊外にあるアパートにたどり着く。3階建てのこじんまりとした作り。
律は母親を呼んできます、と一度車から降りた。階段を上がって2階の一番奥。そこが律の家のようだ。
少しして律と女性が一緒にやってくる。蒼司と運転手も車を降りて出迎えた。
志保 「はじめまして。律の母の志保です。わざわざ、お迎えまでありがとうございます」
そういうと志保は二コリとする。柔和な雰囲気だが、先程の律の話を聞いているため、蒼司はちょっと緊張した。一度、背筋を伸ばしたあとに勢いよく頭を一度下げて、自己紹介をする。
蒼司 「橘蒼司です。今日は、どうぞよろしくお願いします」
志保 「こちらこそ。蒼司君、でいいかしら?橘くん、だと親御さんと一緒になっちゃうし」
蒼司 「はい、あ!律…律くんも、今日はそう呼んでくれたほうがいいかも!」
律は少し真顔になる。
名前を呼ばせたいだけでは?そんな気がしたが、確かに全員「橘」なので、予め呼び分けておくほうが便利だと思い至って頷いた。
蒼司が少し嬉しそうなのが気になるが。
話が一段落したところで、運転手が車へ乗るように促す。3人を乗せた車は、ゆっくりと発車し、橘家のある市内へと走り出した。
――第12章:迎えられたのは、空気とまなざしだけ
市内にある橘家に到着する。ひと目見て豪邸だ。律は静かに目を丸くした。
普段の少し頼りない蒼司と立派な家とがすぐには結び付かない。
車が門をくぐり、アプローチを通って玄関前ロータリーへ進む。玄関口では、使用人と思われる人物が律と志保を迎えた。
使用人 「三浦志保様、律様、お待ちしておりました。お荷物があればお預かりします」
志保と律は少し圧倒されながらも、特に大荷物もないのでそれを丁重に断る。すると、使用人は「では」と家の中へ案内した。蒼司はその後ろからついて行く。
長い廊下を歩くと、開けたスペースが現れた。中央には大きなテーブルがあり、カトラリーがセットしてある。
座っていた妙齢の男女が、やってきた蒼司たちに気づいて立ち上がった。
蒼司 「三浦さんたちをお連れしました。こちら、父の橘雅臣と母の薫です」
学校では聞いたこともない丁寧な口調で、蒼司が両親を紹介する。
律は慌ててお辞儀をし、志保は一度腰を折ってからお礼を述べた。
薫 「蒼司さんの番候補、律さん。お会いできて嬉しいわ。お食事、楽しんでね」
薫は律を値踏みするように見てから、機械音声のような口調でそう言った。律も志保も、直感的に歓迎されていないことを悟る。
今日は、蒼司に恥をかかせないことが第一目標になりそうだった。
――第13章:橘家での食事会という名の何か
食事は、フランス料理のコースだった。お抱えのシェフなのか、この日のために招いたのかは分からない。
本格的な料理は初めてで、味も好みだ。
ただし、律は頭の中で必死にマナー辞典をめくりながら口に運んでいたので、ゆっくりとは味わえていなかった。
落ち着けない理由はそれだけではない。
蒼司と律の母が、静かに舌戦を繰り広げているのだ。
薫 「うちの蒼司さんは昔から優秀で、家柄に恥じないように育てたつもりなんですよ。律さんも、同じ高校に入られたってことは、相当に頑張っていらっしゃるんでしょうね」
志保 「ええ、おかげさまで。うちは家柄がありませんので、息子がすごく頑張ってくれて。自慢の息子です」
薫 「それで蒼司さんの番候補になるなんて、運も良くていらっしゃるのね」
志保 「そうですね。でも、蒼司君に何もかも世話してもらうことが無いように、気をつけますね」
表情や言葉は穏やかだが、裏にある意味を考えると律は胃が痛む思いだった。
ちらりと蒼司を見てみるが、言葉を額面通りに受け取っているのか、気にした様子はなく食事を口に運んでいる。その様子に律は、心強いのか心もとないのか分からなくなった。
薫 「律さん」
不意に名前を呼ばれて、律はひゅっと息を呑んだ。
まさかこちらに矢が飛んでくるとは思っていなかったためだ。志保の表情も一瞬固まる。
律 「はい。何でしょうか…?」
薫 「蒼司さんの番になる準備は進んでいますか?橘家に入るなら、高校卒業後にはお迎えして、いろいろと教えたいと思ってますから」
律 「あ、あの、た…蒼司さんとはまだ、そこまでのお話はしていません」
薫 「あら?橘家のアルファの番になにか不満が?オメガなら喜ばしいことじゃない?」
律は言葉に詰まる。普通はそうなのかもしれない。蒼司だって「ラッキー」と言っていたし。
オメガなら良いアルファに選ばれることは、喜ばしいことだと世間的にも言われている。
でも、オメガだからといって将来まで決められてしまうのは、何か違うような気がした。
その時、椅子を引く音がした。律が視線をやると、蒼司が立ち上がっていた。
蒼司 「母さん、それは俺と律が決めることです」
薫 「…え?」
蒼司が放った言葉に、薫は驚いて声を上げる。ただし、あくまでも冷静さが感じられる響で。蒼司は薫の反応に少し戸惑いを見せたが、すっと息を吸ってから話を続けた。
蒼司 「…律はすごく勉強ができる。俺は聞いていませんが、卒業したら大学に行ったり、知識を活かした仕事に就いたりしたいかもしれません」
薫 「…何が言いたいのかしら?」
蒼司 「俺や橘の家が、律のことをオメガだからって何でも決めるのは、違うと、思います」
そう言う蒼司の手は、少し震えていた。
律からも、それが見て取れる。
家柄とか良くはわからないけど、蒼司が勇気を出してかばってくれたことは分かった。
さっきまで胃が痛かったのに、今度は心臓がきゅっとなる。
蒼司の父が何か言いかけた時だった。
? 「ただいまー!あれ、何?食事会って今日だっけ!?てか空気やばー。お通夜じゃん」
声の主に視線が集まる。明るい髪色をしたスーツ姿の女性が、肩をすくめながら入ってきた。
律 (顔が蒼司さんに似てる?)
蒼司 「姉さん!?」
薫 「綾乃さん、なんですか急に!はしたない」
綾乃 「はいはい。どうせお母様がそこのオメガのお二人に嫌味言ってたんでしょ?」
綾乃は、志保と律に表情だけでごめんね、と言った。律は少しだけ肩の力が抜ける。
蒼司は、何か言いたそうにしているが言葉が出てこないらしくあわあわとしていた。
綾乃はふぅ、と一息つくと薫に言った。
綾乃 「今日はお開きにしたら?」
雅臣も綾乃の提案に乗る。
雅臣 「そうだな、このままという訳にもいくまい。三浦さん、律君、すまないがよいだろうか?」
良いかと尋ねる口調だが、今日は終わりだという言外の圧があった。律も志保も、ではと言って席を立つ。
薫は何も言わずに席を立つと、規則正しい足音を立てて奥の部屋へ行ってしまう。
雅臣 「妻が失礼をして申し訳ない。言い含めておきますので、今日はお引き取りください」
志保 「いえ、私もこのような場が何分初めてで、大変失礼いたしました」
親同士が頭を下げる横では、綾乃が律に絡んでいた。
綾乃 「君が蒼司の番候補?うちの弟、大変でしょ?バカだからさ」
律 「いえ、蒼司さんにはいつも良くしていただいています」
綾乃 「本当?私も親も結構甘やかしちゃったからさ、番になるかもしれないんだし、気に入らないときは厳しくしちゃっていいから、ね」
律 「はい…」
綾乃に気おされて声が小さくなる。
姉と弟だが、性格はあまり似ていないようだ。黙る律に構わず綾乃は、ご飯食べれた?とか蒼司に勉強教えてやってね、と話し続けている。
蒼司 「姉さん、恥ずかしいからやめてくれないか」
業を煮やした蒼司が割って入ってきた。
綾乃 「え?小6までぬいぐるみと寝てた話とかしようと思ったのに」
蒼司 「姉さん!?ストップ!!!!」
律 「ぬいぐるみ?」
蒼司 「今はしてないから!」
顔を真っ赤にした蒼司をみて、綾乃も律も思わず笑ってしまった。
蒼司は、何がおかしいんだ!と言い返すが、綾乃はそういうとこ、と取り合わない。
そうしてる間に親同士の話は済んだらしく、志保が律を呼んだ。
綾乃は「残ったやつは私が食べる。もったいないし」と、母親の席について本当に食べ始めた。
律 (綾乃さんのおかげで、助かったかもしれない)
綾乃に会釈をしてから、律たちは食堂を出た。
蒼司は玄関まで見送りのためについて行く。その間も、姉の言動が恥ずかしかったのか、ばつが悪そうにしていた。
玄関を出て、車が用意されるまでの間に、蒼司は律と志保に頭を下げた。
蒼司 「母が申し訳ありませんでした。俺からも、今後失礼がないように言っておきます」
志保 「私もごめんね蒼司君。大人げなかったわ」
志保も蒼司に謝罪する。二人は同時に頭を上げた。謝ったのに、蒼司の表情は晴れていない。その様子に、志保が声をかける。
志保 「お母様は、蒼司君が大事だからこそ律や私が気になったんだと思うわ」
蒼司 「そうなんですかね…」
志保 「うちの息子は凄いんだぞ、って言う気持ちは、私も一緒だから」
志保は軽く握りこぶしを作って見せた。その様子に、蒼司は律が言った「敵わない」の意味が分かった気がした。
蒼司 (母さんともちゃんと話さないとな…)
蒼司が律を見るとちょっと照れくさそうにしていた。仲睦まじい親子の様子に、思わず頬が緩む。
そんな会話をしていると、車がロータリーに入ってきた。
自宅ではなく、最寄りの駅まで送ってもらえないかと母が運転手に伝えている。
その隙に、律は蒼司の肩を軽く叩く。蒼司が何だ?と言った様子で振り返った。
律 「あの、蒼司さん。庇ってくれて、ありがとうございました」
率直に思っていたことを伝えた。震える手を思い出しながら。
蒼司 「あれは、その、体が勝手に。将来のこととか、勝手に言って悪かったな」
律 「いえ、考えてくれてたの、嬉しかったです」
律は少しはにかんだ。蒼司はその顔を直視できず、ふっと視線を逸らす。
心臓がどきどきして、考えがまとまらない。
何かを言おうとしたが、運転手から声がかかり、律と志保は車に乗り込んでしまった。
バタン、とドアの閉まる音で再び律の姿を視界に入れる。シートベルトをした律は、蒼司の視線に気づくと軽く手を振った。
蒼司も小さく手を振り返す。志保もこちらを見て会釈をしたので、それにも返す。
蒼司 (今日は頭を下げてばかりだな…)
車はゆっくりと動き出し、やがて門を出ていく。蒼司はすぐに家の中に戻らず、しばらく夜風にあたっていた。
――第14章:選ぶのは、ふたりでいられる未来かどうか
律と志保は、橘家の最寄り駅から電車に乗った。
電車内の人はまばらで、並んで席に座る。ガタンゴトンと心地よいリズムの中、志保がふーっと息を吐いた。
志保 「ごめんね律、蒼司君ママと言い合いになっちゃって」
律 「ほんと、胃が痛かったよ」
律は腹のあたりをさすって見せた。志保はますます溜息を深くする。
志保 「だって、律のこともオメガのことも…ってやめておくわ。陰口言ったって意味ないし」
終わり、とばかりに志保は手を振って思考を散らした。律は、今日の食事会で思ったことを母に尋ねる。
律 「…母さん、もしさ。僕と蒼司さんが番になったら、あのお母さんとも付き合わないとダメだよね」
志保 「そうね。家柄がしっかりしてるし、避けられないんじゃないかな」
律 「母さんも、今日みたいにバカにされたりするのかな」
志保 「私は大丈夫よ、見てたでしょ?」
志保はにっと笑って見せると、少しトーンを抑えて律に聞き返す。
志保 「それより、蒼司君のことだけど、どうなの?」
律 「どう…って、今は学校が決めた番候補でルームメイトってだけだよ」
志保 「私は、今日の蒼司君みて、いい子だなって思ったけど。律のことちゃんと守ってくれる子だなって」
律 「それは、そうかもしれないけど…」
律は少し居心地が悪くなって、志保から視線をそらして向かいの座席の窓を見る。そこに映る母を見た。
その視線を受けた志保は、そうねぇと言いながら、律の膝をポンとたたいた。
志保 「どっちにしても、あなたと蒼司君で決めることよ。母さんができるのは、アドバイスとか背中を押すとか、ウチの子に何すんのよー!って文句言うことぐらいよ?」
律 「文句はやめてほしいかな…」
志保 「もし2人が一緒に進んでいきたいならそれでいいし、番として相性が良くても道を違えてもいい。大事なのは、幸せの中に不幸があるのか、不幸の中に幸せがあるのか考えること」
律 「…どういうこと?」
志保の手が律の膝をぽんぽんとなでる。
志保 「例えば、番になって将来は結婚も考えるって決めたとき、蒼司君のママとか家柄とかは切っても切れない問題でしょ?でも、それ以上に2人でいるのが幸せなら乗り越えられる。逆に、そういった問題のほうが大きいなら、2人でいることに固執して、多分不幸になっちゃう」
律 「…なんか、実感こもってない?」
志保 「そりゃそうよ、私の人生で得た持論だもの」
律 「僕と2人になったのは、そっちのほうが幸せだったから?」
志保 「そう!だから、苦労もあったけど、私は律が居てくれて、今こんなに大きくなってくれて、幸せよ」
志保は律の頭を、子どもの頃にしたようにくしゃくしゃになるまで撫で回した。
律はやめてよ、といいつつも、胸の中があったかくて、自然と笑顔になる。
やっぱり、敵わないなと思いながら。
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