4 / 8

第四回

==================== 【第7話】踏みにじられたΩと、選ばれしαの想い ==================== ――第15章:飯塚の強襲 蒼司の家に招かれてから数日後の朝。 律 「蒼司さん、遅刻しますよ」 蒼司 「ああ、えっと、大丈夫だ。忘れ物なし!」 律 「昨日で用意しておけば朝慌てないのに…」 朝の支度を済ませて、2人で寮の部屋を出る。律はあの日から、蒼司のことを「蒼司さん」と呼ぶようになっていた。 律曰く「なんとなく」とのことだったが、蒼司は名前を呼ばれるたびくすぐったいような気持ちになる。 寮の玄関口まで行くと、律と同じクラスのアルファである飯塚がいた。靴を履き替えていたが、こちらに気づくと、蔑むような目をしながら近寄ってくる。 飯塚 「一緒に登校とは、過保護だな橘?三浦もオメガらしく従ってんのか」 蒼司 「…何を言っている、逆だ」 飯塚 「逆?」 蒼司の言葉に、飯塚が少し首を傾げる。蒼司は淡々と続けた。 蒼司 「律がしっかりとしているから、俺が従っているんだ。勘違いするな」 飯塚 「アルファがオメガに尻に敷かれてんのか?なっさけねぇ」 飯塚は、嫌味ったらしく笑って見せる。律は一度キッと飯塚を睨むと、蒼司の袖を引っ張った。 律 「蒼司さん、構わず行きましょう」 蒼司 「ん?ああ、分かった」 律に促されて、蒼司は慌てて靴を履き替えて寮を出た。飯塚は、面白くないといった表情で靴箱にもたれかかり、2人を睨みつけていた。 その日の放課後。 日直だった律は、教師に言われた資料を図書室へと戻すように言われていた。 クラスの人数分約30冊ほどの近代社会の資料だ。さほどページ数もないので、一人でも運べそうだ。使い古された段ボールに入った資料を抱えて、律は廊下に出た。 図書館は、教室棟とは別の建物にある。律たち2年生の教室からは、3階の渡り廊下を使って向かうのが最短ルートだ。 階段の踊り場まで来た時だった。 3階部分に人影が見えた。律が顔を上げると、飯塚がいた。思わず、登る足を止める。 飯塚 「…オメガはやっぱり雑用が似合うな」 律 「…」 いつものように絡んでくる飯塚の言葉を無視して、律は階段を登った。登り終えて右に曲がれば渡り廊下だ。 しかし、無視された飯塚は機嫌を損ねたのか、段ボールを持っていた律の手首を引っ張る。 律 「…っ!」 支えを失った箱が落ちて、資料が床に散らばる。律は無言ですぐに飯塚の手を振り払った。 飯塚 「痛って、何すんだよ」 自分から手を出しておいて、飯塚はまるで律のほうが悪いといった風に大げさに腕を振ってみせた。律はすぐに散らばった資料を拾おうと身をかがめる。 しゃがみ込んだ律は、自分の影を覆うように、飯塚の影が重なったことに気づく。 悪い予感がして、体を半分ひねり、咄嗟に首の後ろを手で覆った。 半身をひねった状態で、床に押し倒される。 飯塚 「チッ、勘がいいな」 律 「何をっ…!?」 飯塚 「何って、俺の番にしてやろうと思っただけだけど?」 律 「はぁ!?僕はあなたの候補じゃ--」 飯塚 「あのポンコツ野郎に、お前はもったいないんじゃないか?」 飯塚は言いながら首筋を抑える律の手を剥がそうと、手首を握る。律は必死に抵抗するが、体格差が大きく、またがった飯塚はびくともしない。 飯塚がしようとしているのは、一方的な番化だ。 普段抑制剤を使用していることもあり、律はネックガードをしていない。それに、学校でこんな事態になるとも思ってなかった。 ラットでもないαに襲われるなど想定外だ。 そして、助けを呼ぼうにも、運が悪いことに人気もなかった。 ――第16章:蒼司と飯塚、二人のα 蒼司と友人の二階堂は律の教室まで来ていた。 律を家族に紹介したと二階堂に話したところ、自分にも紹介しろと言われたためだ。二階堂のほうが律のことに詳しいと思っていたが、実際に話したことは無いのだという。 しかし、教室に律は居なかった。放課後ということもあり、教室の中に入ってみるが見当たらない。 律の鞄は彼の机の上に置いてあるので、帰った訳ではなさそうだ。 二階堂が適当な生徒に声を掛けると、資料を返しに図書室に向かったはずだと言われる。 二階堂 「日直なら待ってればそのうち戻って来るんじゃないか?」 蒼司 「なぁ、二階堂」 二階堂 「何?」 蒼司 「資料が重たかったら、俺が手伝えば律は喜ぶか?」 二階堂 「さぁ。助けられたいタイプかそうじゃないか知らないし」 蒼司 「助けられたいタイプではないな、律は」 二階堂 「じゃあ、ここで待てば?」 蒼司 「でも、手伝いをすると喜ぶぞ?だから、俺も行ってくる」 二階堂 「はいはい。点数稼ぎがんばって」 蒼司はそう言うと、教室を出る。ここからなら、廊下の突き当りから階段を登り、渡り廊下に向かうはずだ。 部屋の掃除や片付けでは、高いところや重たいものは蒼司が担当だ。言われた通りに手伝うと、助かる、とか、ありがとうございます、などと言ってくれる。 蒼司はその時の律を思い出しながら、目的地を目指した。 3階へ続く階段まで来た時、かすかに声がした。呻くような、泣くような。 蒼司 (喧嘩か?) ただ、声が律に似ている。蒼司は、歩を早めて階段を登った。 目に飛び込んできたのは、床に倒されている律とその首筋に噛みつこうとしている飯塚だった。 律と目が合う。助けて、と声にならない声が、蒼司には聞こえた。 蒼司 「飯塚!!」 そう吼えるやいなや、体を低くして飯塚に体当たりをして律から引き剥がした。勢いのまま、2人して廊下に転がる。飯塚の口からくぐもった声がした。 蒼司は素早く体勢を立て直すと、律と飯塚の間に入る。そして背中越しに律に声をかけた。 蒼司 「律、何があった?」 律 「…飯塚が…噛もうと、してきて」 蒼司 「噛まれてはないんだな?」 律は、転がった飯塚から視線を外さずにこくこくと頷いた。飯塚はやっと体を起こす。 飯塚 「なんだよ橘、邪魔すんな」 蒼司 「邪魔?お前、自分が何をしようとしたか分かってないのか?」 飯塚 「お前じゃねーんだから、分かってるけど?」 蒼司 「律はお前の番じゃないぞ」 怒りと疑問が混じった蒼司の声には、いつも寮で聞いているような穏やかな響きはない。律は二人のやり取りを黙って聞いていた。 飯塚 「だから何だよ。噛んじまえば別に候補じゃなくたって番になれるだろ」 蒼司 「律がそれを許すわけ無い」 飯塚 「オメガなんだから、番になれば気にしなくなるって」 蒼司 「お前は、オメガを何だと思ってるんだ!」 飯塚の物言いに、蒼司が声を荒らげた。しかし、飯塚は気にした様子もない。 飯塚 「優秀な遺伝子を残すための道具だろ、オメガなんて」 蒼司 「は?」 理解が出来ず、蒼司は少し間の抜けた返事をした。その様子に飯塚は、子どもに言い聞かせるようにゆっくりと喋った。 飯塚 「律は頭もいいし見た目も良い。お前みたいなポンコツにはもったいないから、俺がもらってやるって、どけよ」 蒼司 「お前みたいな奴に渡せるか!律は、俺の番候補だぞ!」 飯塚 「候補だろ?お前がさっさと決めないから、俺が番になってやろうって思ったワケ。分かる?」 蒼司は余裕を見せる飯塚に違和感を覚えた。それをそのまま口にする。 蒼司 「…お前、自分が律に選ばれないって知ってるからそんなこと言うんだな」 飯塚 「あ?オメガがアルファを選ぶ?何言ってんだ逆だろ」 蒼司 「じゃあなぜ律はお前を嫌がる?お前はなんで無理やり番にする必要がある?」 飯塚 「…っ!」 蒼司 「こんなふざけたことをしないと、それがわからないのか?飯塚」 怒りに満ちた蒼司から発せられる低い声は、本能が恐怖を覚える音をしていた。 背中越しに聞いている律も、少し震えてしまうほどに。 それを真正面から浴びせられた飯塚は反射的に悟る。自分のほうがアルファとして格下だと。 口が乾いて、言葉が出てこない。目線を外すと、舌打ちをして階段を降りていった。 ――第17章:もしも君でなかったら 足音が遠ざかるのを確認してから、蒼司は律に向き直った。しゃがみ込んで視線をあわせる。律は泣き出しそうな顔で蒼司を見たあと、ふい、と顔をそらす。 蒼司 「…律?」 律 「あの、助かりました…本当に」 そういう律は膝の上で拳を握りしめている。かすかに震えているのが蒼司から見ても分かった。たまらなくなって、蒼司は律を抱き寄せる。律は一瞬驚いたが、拒むことはしなかった。 蒼司 「よかった…!間に合って」 律 「はい…」 蒼司 「心臓が止まるかと思った。今さら、めちゃくちゃ怖くなってきた」 律 「僕も、怖かったです」 蒼司の腕の中に収まっていると、律にもだんだんと安堵が広がっていく。かすかな蒼司の香りが、安心させてくれているように思えた。蒼司がポツリと漏らす。 蒼司 「…すぐ駆けつけたかった…」 律 「それができたら超能力者ですよ」 蒼司 「律のピンチは俺のピンチだ」 真剣な言い草に、律の口元が少し緩む。同時に、首筋まで迫ってきた飯塚の息遣いを思い出して身震いした。蒼司の腕から少し離れて、ふと浮かんでしまった不安を漏らす。 律 「…もし、僕が噛まれてたらどうしました?」 蒼司 「嫌だ」 律 「もしも、の話ですよ」 蒼司 「考えたくない」 律 「すみません、変な話をして。流石に怖くて、混乱してるのかもしれません」 蒼司 「怖くて当たり前だ!そうだ、保健室行くか?怪我してないか?気分が悪いとかは?」 蒼司は言うと、律の体をあちこち見回したり、ぽんぽんと触れたりして確かめた。律は苦笑しながら「大丈夫です」と言う。 律 「じゃあ、散らばった資料集拾うの手伝ってもらえますか?」 蒼司 「そうだ、手伝いにきたんだった。そっちの箱に集めればいいか?」 律 「はい。お願いします」 言って資料を拾っていると、二階堂がやってきた。 二階堂 「いくら待っても帰ってこないから来てみれば。何があったんだ?」 蒼司 「飯塚が、律を噛もうとしたんだ」 そう言うと律がハッとして、「そういうのは黙っておくもんです」と小声で蒼司を注意する。蒼司はすまん、と謝った。しかし知られてしまったので、事の顛末を二階堂に伝える。 二階堂はうーん、と腕を組んで考えた。 二階堂 「これさ、黙ってたら逆にダメじゃない?ちゃんと学校に報告したほうが良いよ」 律 「でも…」 蒼司 「律が嫌がることはしたくないぞ?俺は」 二階堂 「バレたくないなら、相手が誰かを言い出せないようにすればいいだけだよ。それに、アルファがこんな公共の場で無理やり番にするなんてさ、俺等アルファ家系だと勘当ものだよ?ね、蒼司」 蒼司 「そうだな。…言えた義理ではないが」 蒼司は自身がラットになったことを思い出して少し身震いした。 二階堂 「だから、三浦くんが襲われたんじゃなくて、アルファの飯塚がオメガに襲いかかった、ってところを強調すれば、飯塚が言いふらすことはまず無い」 律 「アルファのプライドが残ってれば、ですけど」 先ほどの蒼司の圧に逃げ出した飯塚を思い出す。ヤケになる可能性も否定できない。 二階堂 「言うじゃん。で、学校だって公にしたくない。多分、君らが思うより大問題だよこれ」 蒼司 「…律、どうする?」 律 「そうかもしれませんが、僕だと分かると母にも心配かけてしまうので、ここは黙ってていただけませんか?」 二階堂 「そっか。」 蒼司 「二階堂、お前も黙っておけよ?」 二階堂 「当たり前じゃん、”三浦くんのこと”は誰にも言わないよ」 軽い印象だが、蒼司の友人であれば信用してもいいだろう。 それに、この男が言いふらすメリットもないように律は感じた。悔しさや恐怖は残るが仕方ない。 母に知られたら、何を差し置いてでも飯塚を追い詰めてしまうだろう。そんな迷惑はかけたくなかった。 3人は資料を集め直すと、一度図書館に行ってから教室に戻った。飯塚の姿がないことに、律は内心ホッとする。 今日は、二階堂と律といっしょに夕飯でもと思っていたが、それは後日となった。 寮に戻り、やっと一息つく。 蒼司はちらちらと律の様子を気にしていた。まだ、心配が抜けないらしい。 制服の上着をクローゼットに仕舞い、部屋着に着替えようとするが蒼司の視線が気になる。 律 「蒼司さん、着替えたいんでジロジロ見ないでください」 蒼司 「あ!悪い。そういうつもりじゃないからな?」 律 「分かってます。それに、もう大丈夫ですから」 その言葉を聞いて、蒼司は律に背を向けた。 飯塚の番になっていたらどうしたか。そう問われた時、絶望しか浮かんでこなかった。そして、あくまでまだ候補なのだと思い知らされた。 飯塚のしたことは許せないが、言われたことには一理あると思ってしまう自分が情けなく感じる。 自分だってまだ律に選んでもらえていないのだ。 蒼司 (律は番になりたくないと言っていた) 蒼司 (その気持ちが変わらなかったら…?) そんな考えが浮かんで、気持ちが沈む。以前は好かれて当然だと思っていたのに。 肩を落としていると、律が着替えました、と報告してくれた。じゃあ自分も、と蒼司もクローゼットに向かう。 律は蒼司から視線を外して、いつものように予習を始めた。衣擦れの音が聞こえる。 蒼司が駆けつけてくれた時、心から安堵した。 顔を見ただけで、もう大丈夫だと思えた。 抱きしめられたときも、ちょっと驚いたが嫌じゃなかった。 飯塚に覆いかぶされたときは、全身に鳥肌が立つくらいの拒否感があったのに。 律 (俺の番候補だ、か) 律 (出会った時の蒼司さんなら、番だ、って言ってただろうな) 律 (僕がその気がないって言ってるから、合わせてくれてる) 蒼司の変化に、律は温かい気持ちになる。同時に、早く答えを出さなければと言う焦りもあった。 橘家での食事会は途中で終わってしまったけど、由緒ある家柄なのは明らかだった。 なら蒼司には、ふさわしい家柄のオメガのほうが、合っているだろう。運命の番はそうそう出会えるものではないが、単なる番であれば探せば見つけられるはずだ。 それに、僕に固執して相手が見つからないなんてことになってもいけない。 ふと心に影がさす。それが何かは、律自身まだ気づいていなかった。 翌日、飯塚は登校してこなかった。 さらに翌日には、急な転校が決まったとクラス担任から告げられる。蒼司も驚いていたので、二階堂が手を回したのかもしれない。確か「学校には言わない」とは彼は言っていなかった。 ただ、律はあえて何も聞くことはなかった。 アルファの世界はアルファの世界で、庶民なオメガには分からない世界があるのだろう。 ==================== 【第8話】溺れるΩと耐えるαとひだまり ==================== ――第18章:再ヒート 飯塚のことがあって3日後。朝、目を覚ました律は体調の変化を感じていた。 呼吸が浅く、体が熱い。 そして、いつもは抑制剤でほとんど感じない蒼司のフェロモンを明確に感じる。 律 (ヒート…?何で) やっとの思いで体を起こす。腕で口元を覆いながら、ベッドから降りようとしたとき、蒼司もちょうど起きてきた。 律のフェロモンの変化を感じ取ったのだろう、蒼司も反射的に口元を押さえる。 蒼司 「律?ヒートなのか?」 律 「そう、みたいです。周期的にはまだの予定だったんですけど、最近色々あったので」 蒼司 「ああ…そうだな。座ってろ。律の抑制剤、持ってくる」 蒼司は、以前律に教えてもらった棚の2番目から、オメガ用の抑制剤を取り出して、水と一緒に律に渡す。 律が飲んでいる間に、少し離れて自分もアルファ用の抑制剤を服用した。 律 「僕、今日は学校休みますね。保健室、行きます」 蒼司 「分かった。始まったばかりだろ?送る」 律 「ありがとうございます」 二人は簡単に着替えを済ませて、部屋を出た。寮を出てから校舎へ入り、1階にある保健室にたどり着く。 ドアにはプレートがかかっており、15分後に戻ります、と書いてあった。 蒼司 「先に入って休んでろ。先生が来たら俺が話すから」 律 「はい。あの、蒼司さん?」 蒼司 「ん?」 律 「その、蒼司さんは、大丈夫ですか?僕のフェロモンの影響は?」 蒼司 「今のところは平気だ」 適当に空いているベッドに律を寝かせる。横になってしばらくすると、律は目を閉じた。 顔色を伺うと、抑制剤を飲んだにも関わらず、症状は強くなっているようだ。 浅い呼吸の音が、消毒液の匂いがする部屋にこだまする。 蒼司は、ベッド横の椅子を少し離してから座り、黙って律の様子を眺めていた。 蒼司の姉はアルファで、母親はベータ。 身近なオメガは律が初めてだ。 こんなに苦しそうな様子なのかと、心がずーんと重くなる。 その時、不意に律の右手が空に伸ばされた。何かを探すように指先がさまよう。 律 「…どこいったの…?」 呼吸に混じって、そんな言葉が聞こえた。 いつもの律と違って、か弱い子どものような響き。 思わず駆け寄り、蒼司は両手で律の手を包んだ。 瞬間、ぎゅっと律が握り返す。 蒼司 (…震えてる。怖いのか…?) 蒼司 「ここにいるぞ、律」 そう声をかけるが、震えは収まらない。自分の手を握る律の指は、爪が白くなるほど力が入っていた。 律 「…ひとりに、しないで…」 蒼司 「分かった。心配するな」 夢を見ているのだろうか。見る限り、良くない夢を。 しかし、名前を何度か読んでも、律の意識は熱に浮かされたままだ。 徐々に律のヒートは進行しているようだ。抑制剤を使っているが、香りが強くなるのを感じる。 蒼司 (…マスクでも持ってくるんだったな) 蒼司は律の手を握りながら、フェロモンに釣られて顔を出しそうになる本能を押し殺す。 今苦しんでいる律に対して、自分が理性を失う訳には行かない。 飯塚と同じこと…いやそれ以上のことをしてしまえば、どれだけ律を苦しめることになるか分からない。 あの時我に返してくれた律の声。 目の前でヒートに苦しんでいる律と強く握られた手。 それらが蒼司の理性をつなぎとめる楔になっていた。 蒼司 (耐えられる…いや、耐えてみせる) それから保健医が来るまでの15分。 蒼司は、律の額に浮かんだ汗を時折拭いながら、律の言っていた「最近色々あったので」と言う言葉を思い出す。 一つは飯塚のことだろう。もう一つは、自分が家に招いたことだと思った。 まだ、候補という段階なのに、親に言われて律を招いた。そして、最悪な雰囲気にしてしまった。律は、母がすみませんと言っていたが、そもそも招くこと自体を、律ともっと相談すればよかった。 律 「…怖い…っ…母さん…どこ」 律がまたうわ言を発した。幼い頃を夢に見ているのかもしれない。 蒼司 「大丈夫だ、お前の母さんじゃないが、俺はどこにもいかないぞ。安心しろ」 蒼司は再び両手で、律の手を握り返した。 すると、徐々に浮かんでいた眉間のしわが解け、力の入っていた手も緩んでいく。 そして、うっすらと律が目を開けた。焦点が蒼司を捉えるのがわかる。 律 「…蒼司さん?」 蒼司 「何だ?してほしいことはあるか?」 律 「…香り、変わった」 蒼司 「香り?フェロモンのことか?」 律 「…安心、する」 そう言うと、律は瞳を閉じてゆっくりと呼吸する。 さっきまで荒い息を繰り返していたので、抑制剤が効いて、少し落ち着いたのかもしれない。蒼司がほっとしていると、保健室の扉が開いて保健医が入ってくる。 保健医 「え?どうしたの?」 蒼司 「あ、律が急にヒートになったみたいで。抑制剤と、良くなるまで休ませてもらえないかと」 保健医 「律…三浦くんね。今朝とか昨日の夜に抑制剤は?」 保健医は律と蒼司を交互に見ながら様子を伺う。 蒼司 「朝飲みました。えっと、1時間くらい前に」 保健医 「そう。見たところ、それが効いてるのかしらね。落ち着いてきてるみたい。ヒートの症状以外で何か、痛いとか胸が苦しいとかはあった?」 蒼司 「そんなことは、言っていなかった」 保健医 「分かったわ。じゃあ、後は私が見てるから、あなたは授業に出なさい」 安心させるように蒼司の肩をポンポンと叩いて、保健医は部屋のドアへと促す。 蒼司 「いや、先生。俺は、律の番候補なんだ。ついててもいいか?」 保健医 「アルファがヒートのオメガの側にいるのは、許可できません」 蒼司 「…俺も抑制剤は飲んでいる。それに、律も落ち着いてきた」 毅然と首を横にふる保健医に、蒼司は食い下がる。しかし、彼女は顔色ひとつ変えない。 保健医 「ダメなものはダメです。問題ないと判断できたら連絡してあげるから。名前とクラスは?」 蒼司 「橘蒼司、2年A組…です」 保健医は蒼司の氏名とクラスをさっと付箋に書き込むと、外に出るように促す。 蒼司は名残惜しそうに律の手をもう一度握ると、ごめん、と一言告げて保健室を出た。 ――第19章:今は君の手 保健室のベッドに横たわったあと、律は熱に浮かされながら夢を見ていた。 夢というよりは追体験に近いかもしれない。 中学2年生の冬。 律は、初めてのヒートに戸惑っていた。母親が学校に迎えに来てくれて、フラフラになりながらアパートの階段を登る。 転ばないように支えてくれた母は、何度も「大丈夫」と声をかけてくれた。その声にひどく安心したのを覚えている。 急な事態だったため、母が使っている抑制剤を飲んでベッドに横たわった。 心臓の鼓動が耳の中で響くほど大きくて、視界がぐるぐるとまわる。目を開けていると酔ってしまいそうで目を閉じた。 呼吸も上手くできない。 「そのうち抑制剤が効いてくるはずだから」そう言いつつ、母はどこかへ電話したり、僕の汗を拭いたりしてくれた。 意識が沈む。 ゆっくりと水の中に引き込まれるような感覚が襲ってくる。 溺れる。 息ができない。 怖い。 ここはどこ? 怖い。 お母さん! 母の「律、大丈夫?」と言う声がぼやけて聞こえてきて、もがくように手を伸ばした。 その手をすぐに、誰かが握ってくれる。反射的に強く握り返した。 手のひらから伝わる体温が、緩やかに全身に広がる。 息が、できるようになる。 静かに呼吸すると、春の日だまりのような安らぎを感じた。 律はそこで目を覚ました。目線だけを動かして見えたのは、心配そうな蒼司の顔と自分の手を握る姿。 律 「…蒼司さん?」 かすれた声で呼びかけた。その声を聞いた蒼司は、安心したような不安が増したような顔をして応えてくれる。 わずかに体がこちらを向いた時、お日様のような香りをかすかに感じた。 蒼司 「何だ?してほしいことはあるか?」 かつての母のようなことを蒼司が言うので、思わず笑ってしまう。 ただ、表情までは動いてくれなかったが。そしてまた、ひだまりのような温かい香りが鼻腔をくすぐる。 律 「…香り、変わった」 気になったことを尋ねてみる。 蒼司 「香り?フェロモンのことか?」 しかし、蒼司はよく分かっていないようだった。今、それについて詳しく話す気力は律にはない。 律 「…安心、する」 それだけ告げて、律は目を閉じた。 もう、溺れるような感覚は消えていた。 2時間ほどして律は目を覚ました。 何度かまばたきをして、深呼吸してみる。あの時感じた香りはもうしなかった。 ゆっくりと体を起こしてみると、めまいも落ち着いたようだ。 律が起きた気配を感じて、保健医がパーテーションの向こうからやってくる。 保健医 「三浦さん、もう平気?」 律 「はい、大分落ち着きました」 軽く会釈をすると、保健医は気にしないでとばかりにニッコリしてみせた。 保健医 「よかった。でもまぁ、今日は授業はお休みしたほうがいいかな」 律 「そうですね…。職員室、行ってきます」 保健医 「ああ、大丈夫。私の方で担任には伝えておくから、そのまま帰りなさい」 律 「…お手数おかけします」 保健医 「気にしない気にしない。あ、そうそう。橘君?あなたの番なんですって?」 律 「え、あ、はい…」 正確にはまだ候補なのだが、訂正する気力もないので何も言わなかった。保健医は、ふぅと一息ついて続ける。 保健医 「アルファにとってヒート中のオメガのフェロモンって、結構揺さぶられるらしいんだけど、頑張ってくれてたわよ」 律 「…はい、僕もそう、思います」 前回のヒートでは、蒼司のラットを誘発してしまった。 しかし今回は、自分を保健室まで運び、側についてくれたのだ。 ただ、手を握って。 自分の事ではなく僕のことを心配して。 初めてのヒートの時に母がしてくれたことを、今日は蒼司がしてくれた。本能に飲まれる恐怖を溶かしてくれた香りを思い出す。 同時にたまらなく嬉しい気持ちが湧いてきて、顔が熱くなった。耳も熱い。 保健医はその様子を見ていたが、特に何かを言うことなく続ける。 保健医 「でも、万が一があったらまずいから、一応追い出したけどね」 律 「すみません、ルームメイトがご迷惑をおかけして…」 保健医 「保健医として事故を起こす訳にいかないから。今回は何もなかったけど、次も大丈夫とは限らないから、兆候が出たらすぐ相談に来てね」 律 「はい」 律は保健室を後にした。授業中のため、廊下には自分しか居ない。 部屋着のままで歩く経験は初めてで、少しの非日常を感じた。そのまま、妙に高揚した気持ちで校舎を出て寮に戻る。 部屋につくと、ベッドに突っ伏した。 気分は良くなったとは言え、ヒート中は体力の消耗も激しい。僅かな距離の移動でも、疲れてしまう。 ウトウトとし始めた時、向こう側にある蒼司のベッドが目に入った。もちろん蒼司は授業に出ているので空だ。 シーツも掛け布団も朝起きたままになっている。 自分を送ってくれたから直す時間もなかったのだと、ぼーっとする頭で律は考えていた。 律 (…) おもむろに体を起こして、のそりと移動する。裸足の足裏がペタペタと床で鳴った。 眠気で回らない頭のまま、蒼司のベッドに潜り込む。 かすかな蒼司の香りが、律を包む。落ち着く。 そのまま枕に顔を埋めて、体を丸める。冷静な自分が頭の中で色々な言い訳を繰っていたが、睡魔がそれを遠くへ押しやった。 初めてのヒートの日、母の膝に頭を乗せた事を思い出す。 何度か額をすりつけるうちに、律は規則正しい寝息を立てながら、蒼司のベッドで眠りについた。 ――第20章:無防備な寝顔 昼休憩になったタイミングで、保健医が蒼司の教室を訪れた。姿を見つけて駆け寄ると、律はもう大丈夫だという。 保健医 「三浦さんは今帰したから、保健室に来なくて大丈夫よ」 蒼司 「…わざわざありがとうございます」 保健医 「伝えるって言ったしね。それに、番のことは心配でしょ」 蒼司 「律は番じゃなくて、まだ候補だぞ」 保健医 「あらそうなの?三浦さんは番だって言ってたけど」 蒼司 「え?ほんとに…!?」 蒼司は目をパチクリとさせて驚く。律が?本当だったら、どれだけ嬉しいだろう。 保健医 「うーん、どうだったかな。でも、大事にしてるみたいだし、今後も気遣ってあげてね」 蒼司 「もちろんだ」 保健医 「頼もしい。あ、抑制剤が聞いてるとは思うけど、まだ本調子じゃないと思うから安静にするよう伝えておいてね」 蒼司は大きく頷いた。保健医は軽く手を振って去っていく。 蒼司は教室の時計をちらりと確認すると、昼食に誘ってくれた二階堂に簡単に経緯を説明して、一度寮に戻ることにした。 安静にと言われたのでそっと部屋の扉を開く。電気が消えていて、カーテンの隙間から射す少しの陽光を頼りに中に進む。 そして、部屋に入ると蒼司は固まった。 蒼司 (律がなんで俺のベッドで…!?) 小さい子どものように体を丸めた律が、自分のベッドですやすやと眠っている。 薄暗いながら、辛そうな様子はなく、胸を撫で下ろした。 起こさないように気をつけながら、ベッド脇まで近寄った。ヒート中特有の濃いフェロモンの匂いは感じない。 残り香が少しあるが、この程度であれば気にしないでも良さそうなほどだった。 蒼司 (…) 息を殺してしゃがみ込み、少し顔を近づけた。 普段、自分のほうが先に寝て、律のほうが先に起きる事が多いので、こんなふうに寝顔を見る機会はほぼない。 前に見たときは、仰向けで微動だにしない寝姿だったから、こんな風に体を丸めているのも珍しく感じる。 力の入っていない眉間、少し空いた口、小さく鳴る寝息。 無防備な姿に、蒼司の胸が締め付けられた。 蒼司 (番だと思ってくれたのは、本当なのか?) 口には出さないが、眠る律に問いかける。そっと触れたい衝動を抑えて、暫くの間眠る律を見ていた。 宝物を眺めるように。いつか、自分自身にこんな顔を見せてくれる時が来てくれるかと考えながら。 20分ほどして、蒼司はまた静かに立ち上がり、ゆっくりと部屋を歩いて出ていった。

ともだちにシェアしよう!