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第七回

==================== 【第13話】αとΩの震える手がつながるとき ==================== ――第31章:隠していたほんとうのこと 律 「お互いにフェロモンを感じないくらい、部屋を離してもらいましょう。それでいいですね?」 どうしていいかわからない律は、立ち上がって振り返りもせずに言った。 夜の空気と同じくらい、自分の言葉が冷えている。こんな風に言いたいわけじゃないのに。 蒼司 「律、待て…!」 蒼司は慌てて、立ち去ろうとする律を呼び止めた。とっさに腕を掴もうとするがそれは思いとどまる。 ほんの数秒の間があって、律はゆっくりと振り返った。 律 「何ですか?離れたいんでしょう?それが蒼司さんの頼みなら聞きます」 見下ろしてくる律の瞳が陰っている。視線を受け止めながら、必死で頭の中から言葉を探した。 蒼司 「そうなんだが…なぁ、何か勘違いさせてるか?俺は」 律 「勘違い?物理的に距離をしっかり開けるほうが、お互いにとって良いということでは?」 蒼司 「体への負担が、少ないほうが良いだろ。それだけだぞ?」 律 「…分かってます。同じ部屋じゃなくなれば、気遣う必要も無くなりますからね」 蒼司 「それは違う…!」 気遣わなくていいという言葉に、蒼司は思わず立ち上がった。 今度は蒼司が律を少し見下ろす形になる。 伸ばせない手を一度強く握り込み、今まで避けていた気持ちを言葉にした。 蒼司 「気遣いたいから離れるんだ」 律 「…だから、それは分かってます」 ため息混じりに律は頭を振った。蒼司は「そうじゃない」と続ける。 蒼司 「俺は、律が大事だ。だから、自分がラット化して、律を襲ってしまうのが怖いんだ...!自分自身の意思が黒く塗りつぶされるみたいな、そんな気持ちでつながったって意味がない。それに、そうなった時、律が嫌がっても気づけないかもしれない。俺は、それが一番怖い…。」 ほら、と蒼司は握り込んでいた手を開いて律に見せた。 蒼司 「あの日のことを思い出すと、こうなってしまう」 恐怖から身を隠す子どものように、手指が小刻みに震えていた。律はその様子を見て目を見開く。 蒼司 「俺はアルファだから、番を持つことが当たり前だと思ってた。それに、番になるオメガもそれを受け入れるものだと教わってきた」 白い息が途切れ途切れに夜の公園に溶けていく。 蒼司 「でも、律はそうじゃないだろ?俺は、律が番になりたいと言ってくれるのをちゃんと待ちたい。なのに、ラットになればそんな約束だって吹っ飛んでしまいそうなんだ。それが、めちゃくちゃ怖いんだよ」 手をゆっくりと下ろすが震えはまだ止まらない。蒼司は自分自身を落ち着かせるように、深呼吸をした。 蒼司 「だから、律のためなんて言ったけど、本当は俺のわがままだ。ごめん」 蒼司は軽く頭を下げた。 蒼司 「…一緒にいたくないわけじゃないってことだけ、伝えたかったんだ」 言うと蒼司は、いつものような笑顔を作った。しかし律は、硬い表情のままだ。 蒼司 「律?」 蒼司が名前を呼ぶと、律は唇を一度きゅっと結び、小さく息を吸った。 蒼司が話してくれた「怖い」はきっと、僕がヒートのたびに感じる「怖い」と同じだ。 打ち明けてくれたの、だから。自分も、応えなければ。 律 「蒼司さん」 蒼司は、律が提案を飲んでくれると思い、笑顔から真面目な顔に切り替える。 しかし、律が話し始めたのは、予想外のものだった。 律 「…僕も、同じです」 そう言われた蒼司はきょとんと小首を傾げた。その様子に少し、律の口元がほころぶ。 律 「僕がヒートで何より怖いのは、我を忘れてしまうこと、なんです。深い水に沈んでしまって身動きが取れないような、そんな感覚です。そのまま、本能だけで動いてしまうことが、僕も一番、怖いです」 蒼司 「え?」 律 「ヒートの時、オメガはアルファを求めます。それは、生物としては正しいことかもしれませんが、僕の意思がそこにない。蒼司さんがラットになって僕を噛みたくないのと同じで、僕もヒートに溺れて噛ませるようなことを、したくありません」 言いながら、律はまだ震える蒼司の手を取る。律の手も、小さく震えていた。冷えた指先同士が触れ合う。 律 「同じ、です。きっと、僕たちが「怖い」と思ってること」 律は手を握ったまま蒼司の目を見た。 蒼司は一瞬目をそらす。 しかしすぐに視線を合わせると、おずおずといった様子で聞いた。 蒼司 「律はヒートのたび、そんな怖い気持ちなのか?」 律 「…はい。でも、蒼司さん。前に、手を握っててくれましたよね?」 蒼司 「ああ」 律 「あの時、実は溺れそう、でした。でも、この手が引き戻してくれました。あと、蒼司さんのフェロモンも」 蒼司 「え?」 律 「不思議と落ち着いたんです。あの時の香り」 あの保健室で感じた、ひだまりを思い出す。 律 「それに、僕の声でラットから帰ってきたって言ってたじゃないですか」 蒼司 「ああ。声が聞こえて、暗い部屋から出たように体のコントロールが戻ってきた感じだった」 階段の踊り場で、自分を取り戻したことを思い出す。 律 「それも、似てると思いません?」 蒼司 「…似てるな」 律 「だから、また僕からの提案なんですけど、一緒に乗り越える方向で考えませんか」 律は柔らかく笑いかけた。 握った手にほのかに温もりが戻ってくる。 律 「僕がヒートに飲まれそうな時は蒼司さんが手を握る。蒼司さんがラットになりそうなら僕が声を掛ける。そうやって、いきたいです」 蒼司 「…いいのか?それで」 蒼司のその問いかけに、律は少し真面目な顔をした。 そして、乾いた唇を少し湿らせてから、頷く。 律 「僕は、蒼司さんの、運命の番ですから」 その言葉に、蒼司は思わず律の手を強く握り返した。同時に、視界が潤んでいく。 蒼司 「…っ」 何かを言いたいのに、嗚咽が漏れて上手く話せない。 喉ばかりが鳴る。 怖くて自分からは聞けなかった。 先延ばしにすることで、少しでも縁をつないでいたかった。 でもたった今。 律が、自分の想いに応えてくれた。 それだけで、こんなにどうしようもなくなるなんて知らなかった。 言葉の代わりに涙が次々と溢れて止まらない。 律は、空いていた手で少し背の高い蒼司の頭を自分の肩に引き寄せた。 寮でのあの日とは逆の構図になる。 蒼司 「…番に、なってくれる?」 少ししゃくりあげながら、耳元で蒼司が聞いてくる。律は「はい」と優しく返した。 蒼司 「ありがとう」 握っていた手が離れて、蒼司の両腕が肩を包む。冷えた体が蒼司の体温で暖まっていくのを感じた。 律もじわりと、自分の言葉に蒼司が喜んでくれていると実感して、乾いていた瞳から涙がこぼれて頬を伝う。 さっきと違うのは、涙の理由が嬉しさだと言うことだろう。 ほんの少し、このまま時が止まればいいのにと思った。 蒼司は律を抱きしめたまま、やっと出てきた思いを口にする。 蒼司 「律、好きだ。俺はまた律を、泣かせるかもしれないけど、大事にする」 律 「僕も、蒼司さんが大切です。だから、僕が泣いても、離れるなんて無しですからね」 蒼司 「ああ。多分…もう無理だ」 そう言って力いっぱい律を抱きしめると、律は「痛い痛い!」と笑いながら蒼司から離れた。 お互いの泣き顔を見て、愛しさが込み上げてくるのを感じる。 しかし律は、袖口で蒼司の涙を拭いながら少し申し訳なさそうに言った。 律 「…番化は、待ってくれませんか」 蒼司 「待つ」 蒼司は即答する。赤くなった目がキリッとした。 律 「いつまでとか、何でとか聞かないんですか」 蒼司 「律がいいと言うまで待つつもりだからいい。期限がある方がいいなら律が決めてくれ」 律 「分かりました。決めたら言います。…ありがとう、蒼司さん」 互いに笑顔を交わしていたが、律の鼻腔を冷気がかすめてくしゃみが出た。 よく考えれば、冬も近い。 勢いで連れ出した律は部屋着のままだ。蒼司は慌てて着ていた上着を脱いで、律に着せる。 律 「家まで近いから大丈夫なのに」 蒼司 「帰り数メートルで風邪ひくかもしれないだろ」 律 「意外と心配性ですか?」 蒼司 「心配するのは律だけだ」 律 「…嬉しいですけど…もっと周りの人にも気を配ってください」 並んで歩き出そうとした時、不意に蒼司の手が律の手に触れた。 反射的に律は手を引っ込めてしまう。 律 「すみません!不意に触られるのが、慣れてなくて…嫌じゃないですからね?」 蒼司 「じゃあ、律から手を出してくれればいいのか?」 律 「それなら、大丈夫だと思います」 律が左手を蒼司に差し出す。蒼司は右手の指を絡めた。 蒼司 「平気か?」 律 「はい」 そして手をつないで、律のアパートまで戻る。短い道中、少しだけゆっくりと歩いた。 ――第32章:意図しない泊まり 律をアパートまで送り届ける。 そのまま寮に戻ろうとする蒼司を呼び止めたのは、律の母親の志保だった。 タクシーで帰ると言ったが、泣いて目を腫らしている息子と蒼司をそのまま帰すことはできないと、家に上げる。 2人にタオルを渡すと顔を洗うように言い、戻ってくれば「律の服だけど」と部屋着も出してくれる。 蒼司 「何か悪いな…」 蒼司は着替えながら漏らした。 律の服なので、裾や袖が足りないが、柔軟剤の良い香りがする。部屋もきれいに片付いているし、掃除も行き届いているようだ。 蒼司は、普段の律の様子から、やっぱりこの母親に育てられたのだと感心した。 律 「気にしないでください。あ、僕はリビングのほうで寝ますから、僕のベッドは蒼司さんが使ってください」 蒼司 「いや、それはできない。俺が床で寝る」 律 「それは僕が嫌ですよ」 蒼司 「律は体が冷えてるだろう。俺のことは気にするな」 そんな言い合いをしていると、寝室に戻っていた志保がやってくる。 志保 「律の部屋で、静かに寝なさい」 顔は笑っているが、目が笑っていない。 結婚式から疲れて帰ってきたと思ったら息子が連れ出され、番相手がやってきたのだ。疲労もピークなのだろう。 蒼司と律は無言で律の部屋へと移動した。 8畳ほどの部屋には、勉強机とシングルベッド。 そして蒼司には、律のフェロモンが感じられた。番になってくれると言われた相手の香りとあって、ほのかな幸福感に包まれる。 しかし、ハッとして律に尋ねる。 蒼司 「いいのか、俺と同じ部屋にいて」 律 「あ、僕は今は蒼司さんのフェロモンを感じません。今日は長距離移動だったので、いつもより強めの抑制剤を母からもらって使ってるんです。だから、平気だと思います」 蒼司 「そうか。良かった」 律はベッドの横の床に、毛布を敷いた。 ベッドの上には掛け布団が残っている。 律は毛布の上に座り、蒼司を見てベッドをぽんぽんと叩いた。使えということだろう。 蒼司 「だから、俺が床でいい」 律 「イヤです。強情ですね、蒼司さん」 蒼司 「律もだぞ」 小声で言い合うが、結論が出そうにない。蒼司は少し考えてから、律に提案する。 蒼司 「じゃあ、ベッドで2人で寝よう」 律 「は?」 蒼司 「それなら俺もベッドで寝ていい」 律 「狭いですよ、蒼司さん体格いいし」 蒼司 「じゃあ2人で床で寝るか」 律 「いえ、床のほうがもっと狭いです…」 蒼司 「決まりだな」 蒼司は律に壁側を譲る。 律はぎこちなく壁側を向いて横になった。 背中側がきしんで、蒼司が横になったと分かる。 律 (流石に恥ずかしい…) 蒼司 「律、俺は寝相があんまり良くはない」 律 「そうですね…蹴飛ばさないでくださいね」 蒼司 「気をつける。あと、寝ている時に触れてしまったら…ごめん」 さっき、手を慌てて引っ込めたことを気にしているのだろう。 気にかけてくれることは嬉しかったが、気を遣わせているのは悪い気がした。 律 「…今すぐは難しいかもしれませんが、慣れるようにしていきたいので、気にしないで、ください」 蒼司 「ん」 律 「あと、寝にくければやっぱり僕が床に行くので言ってくださいね」 蒼司 「…」 返事がない。 少しだけ体を捻ってみると、蒼司はもう寝ていた。 眠れているならいいかと、律は再び壁を向いて、自分も目を閉じる。 疲れていたのだろう。あっという間に律も眠りについた。 蒼司のベッドに潜り込んだ日の夢を見た。 翌日。朝は志保に起こされ、顔を洗って朝食を食べた。食べ終わってテーブルを片付けていると、蒼司が志保に話しかける。 蒼司 「あの、志保さん。話したいことがあります」 志保は察したように、蒼司の向かいに座る。 蒼司のとなりの律は少し不安そうにしていた。この人はまた何か突拍子もないことを言い出すんじゃなかろうか。 蒼司 「いつになるかまだ分からないですが、律君を番として迎えたいです」 律 「!?」 志保 「…そうなの」 蒼司 「その時はまた、挨拶に来ます」 志保 「じゃあ、律をちゃんと大事にしてくれるかは、その時に聞くわ」 志保はそう言うと、にこりと笑ってから律と蒼司の頭をくしゃくしゃと撫でた。 そして、洗い物をしにキッチンへと向かっていく。 律 「いきなり何を言うかと思いましたよ…相談してください、そういうのは…」 蒼司 「ふと、言っておかないと思って。撤回したほうがいいか?」 律 「…しなくていいです」 2人して乱れた髪を直しながら、律が言う。 律 「僕もそのうち、蒼司さんのお家に行ったほうが良いですかね」 蒼司 「うーん…どうだろうな。今すぐじゃなくてもいい気がするな」 律 「申し訳ないですけど、ちょっとホッとしてます」 律は苦笑した。蒼司は、先に姉に話を通しておこうかと考える。 その後は、いくつかの家事を手伝い、引き出物から食べられるものを少し小分けにして、寮に戻ることにした。 駅までの道は、蒼司がねだったので手をつないで向かった。 ==================== 【第14話】これはまだ、番になる前のはなし ==================== ――第33章:変わらない変わったこと 昼過ぎごろ、2人は寮に戻った。たった1日半ほどだが、どこか懐かしさを覚える。 いや、そうではない。 見慣れた部屋なのに、互いの関係性が変わったことで、少しそわそわするのだ。 律 (…変な感じ) 先に部屋に入った蒼司の背中を見る。 見慣れているはずなのに、やっぱり知らない感覚が胃のあたりで小さくざわめいていた。 ただ、それは温かくもあった。 蒼司はベッド脇に荷物を置くと、少し窓を開けた。もはや日課になっている。 冬の気配を含んだ風が吹き込んで通り過ぎる。冷たい風が律の頬から熱を奪っていった。 2人は、持たされた荷物を片付けてから、お互いのベッドに腰掛けて、改めて今後について話した。 部屋替えは無しになり、距離を取ることもやめることになった。 律 「じゃあ、そういうことで」 蒼司 「ああ」 律 「無理も禁物で」 蒼司 「わかってる。というか、律の方が我慢しがちだろ。無理はダメだからな?」 律 「…そうですね」 律は少し困ったように笑った。 律 (無理しないように頑張らないと) 律が内心で決意を新たにしていると、蒼司が神妙な面持ちで口を開いた。 蒼司 「律、一つお願いがある」 律 「何ですか?」 蒼司 「ヒートのときだけでいいから、ネックバンドを着けてくれないか」 ネックバンドは、オメガの首を守るカバーのことだ。アルファに噛まれるのを防ぐ目的がある。 首の後ろを広くカバーでき、アルファの歯を通さない素材が使われているため、抑制剤が効きにくいオメガやヒート事故を防ぎたいオメガが使用する装具だ。 だが、近年は抑制剤の品質向上に伴って、着けている人は減ってきている。 律も普段は着けていない。 でも、蒼司の言うことには一理あると思った。 律 「お互いのためですね。保健室に行けば、用意があるかもしれません」 蒼司 「良ければ一緒に買いに行かないか?」 律 「え?」 蒼司 「律に似合うやつがあるかもしれないし…。なんだ、その、記念に」 律 「記念に首輪を…?」 蒼司 「いじわるな言い方をしないでくれよ」 蒼司がしょげると律が「すみません」と笑った。 律 「今は素材やデザインも色々あるみたいなので、ヒートのときでも着けやすいやつが良いですね」 蒼司 「似合うかは俺が選んでいいか?」 律 「お願いします」 律が言うと、蒼司は任せろと言わんばかりに頷いてみせた。 蒼司が「初デートだ」とウキウキしている。 律も口には出さないが、口元が緩んだ。 蒼司 「じゃあ、来週の土曜日とかどうだ?」 律 「はい。あ、本屋にも行っていいですか?」 蒼司 「もちろん。欲しい本があるのか?」 律 「はい。参考書をいくつか見に行きたいなと」 蒼司 「もう何冊も持ってるのに?」 律はスマホを取り出して、メモしていた本のリストを確認した。 律 「この前…蒼司さんと距離を取っていたときに解き終わってしまって」 蒼司 「すごいな。俺なんて、授業の復習しかしてないぞ」 律 「じゃあ今度、僕が解き終わったやつやってみますか?」 蒼司 「ああ。多分、俺も大学に行かないといけないだろうから、また勉強教えてくれ」 律 「蒼司さんなら大丈夫だと思いますよ?僕が教えなくても」 いつだったか、初めて勉強を教えた日を思い出す。 本人が苦手意識を持っているだけで、蒼司は勉強ができないわけではない。むしろ、本気を出せばあっという間に追い越されるだろう。 そう思っての発言だったのだが、蒼司は少し不服そうにしていた。 蒼司 「…」 律 「何か拗ねてます?」 蒼司 「教えてくれないのか?」 律 「いえ、聞かれれば教えますけど…。なんでちょっと不満そうなんですか」 蒼司 「一緒に勉強をする時間が、俺は結構好きなんだ」 律 「…」 律は、言葉の意味を考える。 教える必要性を感じないと言ったことが、一緒に勉強したくないと受け取られたのだと理解した。 この人の言葉は、分かりやすいけど分かりにくい。 昨日の通話でも、それを痛感した。 律 「蒼司さん」 蒼司 「なんだ」 律 「蒼司さんが、僕に教えてくれてもいいんですよ?」 蒼司 「え?勉強をか?」 律 「はい。僕はそこの机で、勉強するんで、いつでも教えてください」 律は視線だけで並んだ勉強机を指した。蒼司の顔がぱっと明るくなる。 蒼司 「一緒に勉強してくれるんだな!」 律 「そういうことです」 蒼司 「でも、律に教えるとなると、本気でやらないとだな…」 律 「僕も張り合いが出ます」 来年の今頃はもう、受験に向けて猛勉強中だろう。 律は少しだけ先のことを考えた。 ――第34章:少しの無理をして紡ぐこと 夕食と入浴を済ませた後。 部屋で思い思いに過ごしていると、蒼司が律を呼んだ。 蒼司 「律、あのさ」 律 「何ですか?」 蒼司 「…隣座っていいか?」 律は目線だけでどうぞ、と返してベッドの縁に座り直す。蒼司が横に並んで腰を下ろした。 蒼司 「えっと、なんて言えばいいか…」 少し言い淀んだ後、蒼司は少し律をのぞき込むように体を捻った。 不意に体が触れないように注意しながら。 蒼司 「律は、触られるのが怖いのか?」 聞かれた律は少しドキリとする。昨日だって、思わず手を振り払うようなことをしてしまった。 蒼司も不安げな様子だ。 言葉をたぐるように、律は膝の上で手を開いたり閉じたりした。 律 「触られるのが怖いと言うより、その、ヒートになったり意識が飲まれたらどうしようと、思ってしまって」 申し訳なさそうな律の声色に、蒼司は視線を落とした。 やはり話しづらいことなんだろう。でも、聞いておきたかった。 蒼司 「昨日みたいに、律から触れるのが平気なのは、自分の意思でできてるからか?」 律 「そう、かもしれません。ただ、本当にその…蒼司さんなら嫌ではなくて、えっと」 蒼司 「俺は、いつも急に触ってしまってるからな…気をつける」 蒼司は、嫌ではないという言葉に思いきり律を抱きしめたくなる気持ちを抑えた。 自分はこんなに何かにつけて律に触れたいと思っていたのかと、今更ながらに気づく。 嫌ではなくても怖がらせたくはないし、昨日やっと律から番になると言ってくれたのだ。 今はそれだけで十分だろう。 欲張るな、と自分に言い聞かせる。 と、律から意外な質問が飛んできた。 律 「蒼司さん、僕がヒートのときなんですけど、その、いろいろしたいですか…?」 驚いて律の顔を見ると、見たことがないくらいに赤い。赤面した様子に、言葉の意味を理解する。 とたん、体温が上がった。 蒼司 「え!?いや、あ、これは嫌ではなくて!したいかと言われればしたいが、大丈夫だ!我慢する!」 さっき押し込んだ欲が顔を出しそうになるのを、必死で押さえつける。 律 「そうですよね…アルファですし…。ラットになるかは別として、僕達はそういう生き物ですもんね」 蒼司 「でも、律はイヤだろ?だから、律がいいと言うまでは我慢するぞ」 律 「…でもそれだと、いつまで経っても蒼司さんに我慢させるだけになりそうで」 蒼司 「それは、そうかもしれないが…」 お互いに本能には飲まれたくない。 それが怖いと、そして乗り越えようと誓ったばかりだ。 でも叶うなら、と蒼司はもじもじしている律の手を見た。律から手を伸ばしてくれたから、繋げた手のひらの感触を思い出す。 その視線に気づいているのかいないのか、律からさらに思ってもない提案が飛んできた。 律 「蒼司さん、あの、目を瞑るのでちょっと僕を触ってみてくれませんか?」 蒼司 「へ?」 律 「ダメそうなら、ストップって言うので」 そう言うと律は、体を少し蒼司の方に向けて目を閉じる。膝がコツンと当たる。 蒼司のほうがびくりとしてしまった。 蒼司は顔を真っ赤にしながらも、深呼吸をすると、そっと手を伸ばして律の肩に触れた。 瞬間、逃げるように律が体を反らす。 しかし、ストップはかからない。 蒼司 「目を開けたほうがいいんじゃないか?」 律 「…心の準備をしない練習なので」 蒼司 「怖くないか?」 蒼司の問いかけに、律は目を閉じたまま小さく頷いた。 律の覚悟を受け取った蒼司は、両手で律の手に触れてみる。 指がピクリとした。律がふうと小さく息を吐いた。 律 「すみません、大丈夫です」 蒼司 「無理してないか?」 律 「…無理したい気分なんです」 蒼司 「わかった」 今度は両手で律の頬を包んだ。またしても反射的に体を引いてしまうが、律は大丈夫と漏らして、されるがままにしている。 蒼司の指が、頬や髪に触れた。 その度、慣れない感覚を拒否するように体が震えてしまう。 大丈夫。 怖がる必要は無い。 頭でも心でも分かっているのに、体だけがちぐはぐだ。 口元に触れる感触がして、思わず目を開けた。 蒼司の顔が律に近づく。 律はぎゅっと目をつぶるが、蒼司の唇が触れたのは額だった。感触が離れると、律はゆっくりと再び目を開く。 優しげな蒼司の顔が近くにあった。そっと、頬から手を離す。 蒼司 「今日はここまででいいか?」 律 「はい、ストップで、お願いします…」 蒼司 「俺もこれ以上はちょっと、マズイかもしれない」 律 「すみません、急に変なこと言って」 蒼司 「いいんだ。頑張ってくれたんだろ?ありがとう」 今更ながらに恥ずかしさが込み上げてきて、律の頬が上気する。蒼司も触れていた膝を少し離した。 手をパタパタとさせて熱を冷ました。 落ち着いた律は立ち上がると、窓を開けて換気した。触れ合いのせいで、お互いのフェロモンが濃くなったのを感じたためだ。 香りが薄くなるのを待ってから、律は改めて提案する。 律 「蒼司さん、あの、今後も、慣れるのに付き合ってくれますか」 恥ずかしそうに律が言うので、受け止めなければと蒼司は平静を装いながら応える。 蒼司 「もちろんだ。それに、俺も我を忘れない訓練になりそうだからな」 律 「…ありがとうございます」 蒼司 「でも、律がヒートに飲まれそうなときは、勝手に手を握るからな」 律 「はい。お願いします」 蒼司 「俺が飲まれそうなときは、頼んだ」 律 「戻ってくるまで何度でも呼びます」 そんな言葉を交わすと、お互いに笑った。 次のヒートでどうなるかは分からない。 ラットになるかもしれない。 決して切り離せない本能の影と、いつか手を取り合える日がくると信じるしかない。 その時は、今日のように並んでいたい。 運命なら、そのくらい乗り越えさせてくれるだろうという、どこか楽観的な気持ちが蒼司と律には芽生えていた。 【おわり】

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