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05.

 かすかに物音が聞こえて、俺は目を覚ました。どうやら内心のた打ち回って(もだ)えているうちに寝落ちてしまったらしい。  部屋の中はまだ暗かった。枕元に置いていたスマホを手に取り、指紋認証のロックを開く。ダークモードの画面に浮かんだ時刻は午前5時ちょっと過ぎ。起床には少し早い時間だ。ナギの部屋のカーテンは一級遮光なので、初夏の朝でも光は入ってこない。  まだ、物音がする。耳を澄ましてみると、それはナギが寝ているベッドのほうから聞こえた。  ごそごそと布が擦れる音と、荒い呼吸音のような――寝ぼけていた俺は、そこでやっと覚醒した。 「ナギ?」  四つん()いの格好で、おそるおそるナギのベッドに近づく。  ナギは昨夜と同じ、壁側を向いて背中を丸めたポーズのままだ。少しはだけた布団から長い脚が露出している。 「ん……はぁ、あ、ふう……っ」  不規則で短い呼吸に合わせてナギの肩が動く。全力疾走したあとのような息の仕方だった。その中にときおり、何かを堪えるような声がまざる。素足の爪先がきゅっと丸まっては開いてを繰り返し、全身の緊張を訴えていた。  ナギがうなされている。そう思って、さっと血の気が引いた。 「ナギ、おい、大丈夫か」  俺は慌ててベッドの端に膝で乗り上げ、ナギの肩を揺すって起こそうとした。  しかし、その手がぴたりと止まる。 「ぁ、う、はぁっ……あ、んんっ……!」  間近で聞いたナギの声は、俺の知らない響きをしていた。  鼻に抜けるような細くて高い声。乱れた呼吸と溶け合って(かす)れたそれが、なんだか女のように(つや)っぽい。  俺が動けなくなったのは、声だけのせいじゃなかった。ぐちゃぐちゃになった薄い掛布団から覗くナギの手が、あらぬところで動いていたからだ。  胸元を押さえているように見えた左手は、骨ばった長い指の先で、Tシャツの上からくりくりと押しつぶすように捏ねている。  どこを、って。 (自分で、乳首いじってんのか……?)  位置的に、そうとしか考えられない。ゆるいシャツ越しでも分かるほどの豊かな胸筋――その頂にぷっくりと浮かぶ突起(とっき)を、ナギの指は狙い澄まして擦ったり(はじ)いたりしている。 「あっ、ん……や、そこ、いい、それすき……っ」  喋った。俺の心臓がドクンと飛び上がる。 (ね、寝言?)  一瞬ナギが起きたのかと思ったが、目は閉じたままだ。それなのに、右胸の乳首をいじめながら頬を赤く染めて感じ入っている。  これはいったい、どういう状況なんだ。  訳が分からなすぎて目が回りそうだった。夢を見ているのは俺のほうなんじゃないのか。試しに頬をつねってみる。……痛い。 (……俺、とんでもないものを見てしまったのでは?)  パニック状態になった頭は、一周回ってほんの少しだけ冷静さを取り戻す。  この際、ナギが眠りながら乳首オナニーにふけっていること自体は、一旦(いったん)置いておくとしよう。こいつにだってプライベートはある。おまえって乳首で感じるんだ、とか考えてはいけない。  ここは何も見なかったことにして布団に戻り、寝たふりを(つらぬ)くべきだ。俺は爆睡していて何の物音にも気づかなかった。そう、それでいい。  俺はナギの胸から目を逸らし、そろりと後ろに下がろうとした――が。  視線を動かしたことで、俺はナギのもう片方の手がある場所を見つけてしまった。 「はっ?」  思わず、すっとんきょうな声が漏れる。咄嗟に自分の口を塞いだが、そのまま硬直して棒立ちになった。  ナギの右手は、背中側から腰の下へと伸ばされ、短パンの()き口から中へと突っ込まれている。布越しにもぞもぞと動く大きな手は、どう見ても尻の穴あたりに触れていた。 (こ、こういうときは普通、ちんこいじるもんじゃねぇの)  男子なら誰でも、自慰をするとなれば陰茎を(しご)くだろう。それが一番手っ取り早くて気持ちいいと知っている。  しかしナギは、肝心の性器をほったらかしにして、なぜか尻の穴に指を抜き()ししているようだった。服に隠れてはいるが、ぐち、くちゅ、とわずかに水音が聞こえてくる。 (後ろ、濡れて……?)  俺はかぶりを振った。女じゃあるまいし、そんなわけがない。でも、それなら、このいやらしい音は何だ。  我知らず、ごくりと(つば)を飲み込む。布団に戻ろうとしていたはずなのに目が離せない。  下半身を見てしまえば、当然、にも意識がいってしまうわけで。 (()ってる)  ナギの股間にはしっかりとテントが張られていた。体格に見合った立派なモノが、下着と短パンの布を押し上げて窮屈そうにしている。  あのナギが。食欲と睡眠欲だけに全振りして、性欲のせの字も感じさせない、ナギが。乳首と尻穴を(いじ)りながら()がって、ちんこを勃たせているなんて。  俺が呆然としている間も、ナギのオナニーは続いていた。 「んぁ、あっ、は、うぅ……や、もっと、ぉ」   ぎゅうっと胸の突起をつまんで引っ張り、息を吐いて大きく震える。尻穴をまさぐる指の動きも激しくなり、ぐちゅぐちゅと先ほどよりもはっきり粘ついた水音が響いた。  こんなにも必死に快楽を追い求めながら、ナギは勃起(ぼっき)に触ろうとしない。服の下で痛いほど張り詰めているだろうに。  かく、かくん、とナギの腰が揺れる。すっかり布団がずり落ちてしまい、その痴態(ちたい)を隠すものはなくなった。 「っあ、んん……も、むりっ……おなかたりない、おく、ついてよぉ……っ」  ナギは子どもが嫌々をするみたいに小さく頭を振って、舌足らずな涙声を漏らす。  ぐずぐずに溶けた言葉を聞いた俺は、頭を鈍器(どんき)で殴られたような衝撃で息が止まった。 (誰に、言ってんだよ……)  これは、ただの自慰(じい)行為じゃない。ナギは本当に夢を見ているんだ。  快楽に(おぼ)れ、身も心も乱されながら、誰かに抱かれる夢を。 「はぁ、ぁっ、だめ、いっちゃう、おく、ほしいのにっ……」  焦らされ、じわじわと高められて、満たされないまま絶頂に導かれる。そんな意地悪すらも(よろこ)んで受け入れてしまうナギの身体。  恍惚(こうこつ)として(とろ)けた声と表情は、夢の中でナギを(みだ)らに(もてあそ)ぶ何者かへと向けられている。   俺は、ただ立ち尽くしていた。  つい昨日の晩、ようやく自覚したばかりの感情が、胸の奥で行き場なく彷徨(さまよ)う。  ――ナギが好きだ。  でも、ナギはもう、他の誰かのものになっていたのか。  頭の中が真っ白になる。当たり前に繋いでいると思っていた手を放されて、置いて行かれてしまったような気分だ。 「っは、ぁ、んん~~……ッ!」   ナギはビク、ビクッとひときわ大きく身体を震わせた。勃起で張っている布地に、じわっとシミが滲んで広がっていく。どうやら、乳首と尻穴への刺激だけでイってしまったらしい。 (あ……)  俺は後ろに一歩よろめいた。ばくばくと早鐘を打つ心臓が口から飛び出しそうだ。  見たくない、見ないほうがいいと思う一方で、淫らに乱れるナギの姿に釘付けになる。  頬や(うなじ)には汗で髪が張りつき、はくはくと呼吸する口から赤い舌が覗く。いじめられた乳首が服の下でどうなっているのか、尻の穴には指が何本突っ込まれているのか、想像してしまう。  俺の知らないナギを、俺の知らない誰かに変えられてしまったナギを、無理やりにでも(あば)き立てたい。そんな衝動が湧き上がる。  しかし、俺が感情に突き動かされるより早く、夢は終わりを告げた。 「ぅ、ん……」  ナギの瞼が重たげに開く。やばい、と俺は思ったが、固まったまま動けなかった。 「よー、ちゃん……?」   しかも名前を呼ばれた。気づかれている。俺がここでずっと見ていたこと。  いよいよ逃げ場がなくなって硬直していると、ナギはゆっくり瞬きをして、しなやかな猫のように上体をよじった。そして、その目がぼんやりと俺を捉える。 「ナギ、これは――」 「…………え、あ、……ッ⁉」  やっと覚醒したらしいナギは、目を真ん丸に見開いて、ベッドを壊しそうな勢いで飛び起きた。短パンから抜いた手を後ろに隠し、逃げるように壁際へと後ずさる。 「よ、よーちゃ……なんで……や、ちが、あの」  ナギはうろうろと目を泳がせ、顔を赤くしてうつむいた。  互いに言葉が続かず、あまりにも気まずい沈黙が早朝の部屋に満ちる。壁掛け時計のチクタクという針の音がやけにはっきりと聞こえた。  先に口を開いたのは、意外にもナギのほうだった。 「……お、おれ、なんか、変なこと言ってた?」  思いがけない問いに、俺は「えっ?」と少し上ずった声を上げる。  変なこと、というのは、もしかして。 『おなかたりない、おく、ついてよぉ……っ』  『だめ、いっちゃう、おく、ほしいのにっ……』  ついさっき聞いた、ナギの懇願(こんがん)が耳の奥によみがえる。俺はその声を振り払うように頭を横に振った。 「いや、俺は何も」  我ながら下手な嘘だ。けど、「全部聞いてました」なんて言えるわけがない。  俺を上目遣いに見たナギは、震える唇をぎゅっと引き結んだ。みるみるうちに顔の赤みが増していく。  あっ、と俺が思った直後、ナギの目から涙が零れ落ちた。 「……っごめん、気持ち悪かった、よね……」  溢れた涙がぽろぽろと頬を伝い、しわくちゃのTシャツを濡らす。  ナギが泣くところを見るのは、いつぶりだろう。俺は焦りと驚きで頭がいっぱいになってしまい、慰めの一言すら発せなかった。  ナギはぎこちない動作でベッドから降り、避けるように俺の横を通り抜けた。 「ごめん、顔、洗ってくる……」  二度も謝り、早足で部屋を出ていく。俺の背後でバタンとドアが閉まった。  しばらくその場に突っ立っていた俺は、急に身体の力が抜けて布団の上に尻もちをついた。無意識に止めていた息を吐き出す。 (ナギ、泣いてた)  愕然(がくぜん)として額を押さえる。  泣かせてしまった。俺の分かりやすい誤魔化しなんて、あいつにはきっと通じてない。何してんだよおまえ、と笑うなり怒るなりしたほうが、まだ傷は浅く済んだかもしれないのに。  子どもの頃から変わらない、ナギの泣き顔。顔を真っ赤にして静かに涙を零し、小さくしゃくりあげて。あんなに大きくなっても、寝顔と同じくらい無防備に晒してしまうのか。  途端、心臓が嫌な跳ね方をした。 「――あっ」  ずくん、と腰が重く(うず)く。下半身に目をやると、俺の股間も硬く盛り上がってしまっていた。 (俺、いつから勃って……?)  股下のゆるいハーフパンツだから分からなかった。ナギのオナニーを見たあたりから(きざ)していたのかもしれない。  はっ、はっ、と(さか)りのついた犬みたいな呼吸が漏れる。  はしたなく善がるナギの姿が、熱を持って甘く蕩けた声が、怯えたように縮こまって泣く顔が――頭から離れない。  だめだ、やめろ、という理性の訴えを無視して、俺はパンツの中から勃起をまろび出させた。腹につきそうなほど()り立って先走りを垂らしているそこを、無我夢中で扱き上げる。 (ナギ、ナギ……ッ)  胸の内で名前を呼びながら、ずりずりと裏筋を擦って、ぬるついた敏感な亀頭も手のひらで刺激する。脳まで響くような気持ちよさに、腰がカクカクと揺れるのを止められない。 「ふっ、う、んぐ、ふ――……ッ」  情けない声が漏れそうになり、歯を食いしばって左手で口を塞ぐ。  こんなのおかしい。だめに決まってる。分かっているのに、思いきり出したくてたまらない。想像の中で乱れるナギにぶっかけて汚したい。邪な欲望が風船のように膨らんでいく。 「ナギ、~~……ッ」  名前を口に出した次の瞬間、俺は射精してしまっていた。びゅるっと吐き出されたものをギリギリで手のひらに受け止める。近頃忙しくて溜まっていたせいか、量が多くてなかなか出し終わらない。 「ん、うッ……はー……はぁ……」  ようやく射精が収まり、俺は息も絶え絶えになりながらティッシュで精液を(ぬぐ)った。 (……最悪だ)  俺の欲望を煮詰めたようなドロドロを片付けているうちに、すさまじい自己嫌悪が襲いかかってくる。  幼馴染の痴態をオカズにして、幼馴染の部屋で抜いてしまった。何かの罪に問われても文句は言えない。本当に最悪だ。 (どうすっかな、これ……さすがにここで捨てるわけにいかねぇし)  ティッシュの塊を前に溜息をつく。考えた末、自分のバッグにあったコンビニのレジ袋に突っ込んで口をきつく縛った。学校へ行く前に自宅へ寄って、洗濯物を置いてくるついでに捨てるしかない。  どっと疲れて、俺は布団の上に倒れ込んだ。ナギはまだ戻ってきそうにない。当然だ。俺だって今、どんな顔してあいつと話せばいいか分からない。 (……ナギ、付き合ってる奴がいるのか)  まったく、これっぽっちも気づかなかった。毎日のように顔を合わせていたのに。  ナギの様子からして、相手はたぶん、男だ。  男同士でセックスするときは尻の穴を使うのだと、どこかで聞いたことがある。つまりナギは、どこぞの男に、乳首と尻穴だけで気持ちよくなれるくらい抱かれていた、と。 「嘘だろ……」  嘘だと思いたい。あるいは夢か幻だと言ってほしい。  しかし実際、同性の幼馴染に恋をして自慰のオカズにしてしまう俺みたいな奴もいる。ナギに彼氏がいても、そいつとセックスしていても、別におかしくはないのだ。 (つうか、これって失恋なのか)  ぼんやりと天井を見上げながら思う。ほんの数時間前に自覚した気持ちは、あっけなく砕け散った。しかもかなり無惨(むざん)な形で。  自己嫌悪は虚無に変わる。チクタクと規則正しい針の音を聞きながら、俺はスマホのアラームが鳴るまで無心で天井の木目を数えていた。

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