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07.

 ひゅんと風を切って飛んでいった矢は、理想の軌道を外れ、鈍い音を立てて的の真横に突き刺さった。 (はぁ、今日もダメだな……)  四射のうち、的に(あた)ったのは一射のみ。俺は内心で嘆息(たんそく)しつつ、(つと)めて表情や姿勢は崩さないようにした。試合を想定した立稽古(たちげいこ)であからさまに落胆(らくたん)するわけにはいかない。  チーム内の全員が()終わり、一旦休憩となった。暑い中で全身の神経を研ぎ澄ませていると、激しく動かずとも汗だくになる。俺はジャージの胸元をパタパタさせながら水筒の麦茶を(あお)った。 「遥祐(ようすけ)が不調続きとか、珍しいこともあるもんだな」  一緒にチームを組んでいた三年生メンバーの一人が、汗を拭きながら軽い口調で話しかけてきた。 「わりぃ。ちょっと色々あって……」 「ま、大会近いし、誰だってナイーブになるっしょ」  からからと笑うチームメイトに、俺もつられて少し相好(そうこう)を崩す。的の前では一切ふざけないが、こういうときは空気が重くなりすぎないよう振る舞ってくれる、いいメンバーだ。 「遥祐、元部長なだけあって根っから真面目だもんな~。あんまり悩みすぎるとハゲるぞ?」 「うっせ、ほっとけ」  (ひじ)で突いてくるチームメイトに軽口を叩き返す。集中が切れがちな分、無意識に力んでしまっていたが、少し緊張がほぐれた気がする。  とはいえ、不調の要因である悩みは、そう簡単に解決しそうにない。  盛大に失恋したあの日から、ナギと会わないまま三日が過ぎた。  ナギはバスケ部の朝練があり、俺はいつもよりさらに遅くまで自主練しているので、すれ違うのも当然だ。むしろ、顔を合わせずに済む理由があって少しホッとしていた。 (今ナギと会っても、冷静でいられる自信がない)   肩にかけたタオルで顔の汗を拭うついでに、目元を覆って息を吐く。  恋に破れても、これまで積み重ねてきた想いを急に忘れられるわけじゃない。目も当てられないほど肥大化した感情を、ただ持て余すばかりだ。  しかも、俺は気づいてしまった。  ナギが口にしていた、付き合っている人はいないけど好きな人はいる、という言葉の意味に。 (あれはつまり、〝セフレ〟ってことじゃねぇか?)  ナギは交際関係にない誰かに片想いをしている。そして、そのうえでセックスだけはしている――となれば。突飛な想像だが、現状はそうとしか考えられない。    その〝誰か〟については知る(よし)もない。が、告白をしたら困らせてしまうような相手なら、社会的立場のある大人という可能性もある。  しかし、家と学校を往復する生活のナギが、そんな人物と偶然出会ってセフレになるとは思えない。 (まさか出会い系アプリとか、そういう……ナギにかぎってそんな……)  俺の妄想はどんどん嫌な方向へと流れていく。ナギのことを信じたいが、絶対にないとは言い切れない。幼馴染だからってプライベートのすべてを共有しているわけじゃないんだ。  ここまで来ると、自分の失恋うんぬんより、ナギへの心配のほうが勝ってくる。 (あいつ、悪い大人に(だま)されたり利用されたりしてないだろうな)  ナギは昔から変な奴に目をつけられやすい。目鼻立ちが整っていて色白で、子どもの頃は小柄だったから、通学路で鼻息の荒いオッサンだの露出魔だのに遭遇することも少なくなかった。  今のナギはそこいらの成人男性より大柄で力も強い。一方的にねじ伏せられることはまずないだろう。  しかし、口八丁手八丁で巧妙に丸め込まれて、相手に言われるまま身体を許してしまっていたら。その結果がだとしたら。 (さすがに考えすぎだろ、俺)  タオルを被ってわしゃわしゃと頭を掻きむしる。この三日間、ずっとこんな調子だ。勉強にも部活にも身が入らない。  今日も今日とて憂鬱(ゆううつ)な気分のまま、俺は散々な結果で立稽古を終えた。予選大会はもう目の前だ。このままではチームの足を引っ張ってしまいそうで、そのプレッシャーがさらに重く心にのしかかる。  俺が空回りしていると察したのだろう、顧問から「自主練はやめときなさい」と告げられてしまった。道具を片付け、渋々と帰り支度をする。 (家着いたら風呂入ってさっさと寝よう)  明るいうちに下校するのは久々だ。焦る気持ちはあるが、集中できないのに身体だけ酷使しても仕方がない。 (まだ六時過ぎだし……気分転換に本屋でも寄ってくか)  漫画の新刊をしばらくチェックできていないし、大学受験の参考書も見ておきたい。そういえばシャーペンの芯が残り少なかった気がする。あと、自習用のノートも……。  つらつらと考えながら弓道場を出た俺は、そこで思わぬものを目にして足と思考を止めた。 「ナ、ナギ……?」  弓道場入口の正面に生えている松の木――その根元に寄りかかって、制服姿のナギがすやすやと寝こけている。数日前にもこんな光景を見たような。  俺の声と気配を察知したらしく、ナギはパチリと目を覚ました。「ふわぁ」と大きなあくびをしながら伸びをし、俺のほうを見て軽く片手を上げる。 「お疲れ、よーちゃん。今日は早いね」  寝起きのぽやぽやした顔のまま、これまた数日前のように話しかけてくる。なんだか時間が巻き戻ったみたいだ。 「おまえ、なんでここに……バスケ部の練習は?」 「終わった、っていうか、なんか先輩たちに心配されて帰されちゃった」 「えっ、どこか具合でも悪いのか?」  俺は思わずナギに駆け寄った。額に手を当ててみるが、熱があるわけではないようだ。 「風邪とかじゃないよ。おれがいつもよりボーッとしてたから、だと思う。『そんなんじゃ怪我するぞ』ってコーチに怒られた」  ナギは話しながらシュンと肩を落とした。どうやらこいつも俺と同じような理由で早退させられたらしい。体調が悪くて休んでいたわけじゃないと知り、少し安堵(あんど)する。 「だったら、こんなとこにいないで早く帰れよ」  寄り道しようとしていた自分を棚に上げて促す。しかしナギは、ふるふるとかぶりを振ってから立ち上がった。 「よーちゃんのこと、待ってた」 「な、何の用だよ……」  俺は一歩後ろに下がってナギから視線を逸らす。いつもの癖で世話を焼いてしまったが、距離を置いている最中なのをすっかり忘れていた。  そよ風が吹く静寂の中、ナギの視線が刺さる。表情を直視できないまま時間だけが過ぎていく。 「……これ、母さんからもらったんだけど」  先に沈黙を破ったのはナギだった。スラックスのポケットからごそごそと何か取り出し、俺の前に差し出す。少しシワのついた小さな紙切れが四枚。 「コンビニのクーポン券、か?」 「うん。唐揚げと、フラッペが百円引き。今日が使用期限だからって」  ナギ母の気遣いか、あるいは使いきれなかった券がもったいなかったのか。今朝、学校へ行く前に押しつけられたという。 「ナギの母ちゃん、ポイ活とか割引券集めとか好きだもんな」 「おれ一人じゃ全部は使えないし……よーちゃん、一緒にどう?」  こてん、とナギが首を傾げて見つめてくる。 (くっ、ここで甘えん坊おねだり仕草をしてくるか)  俺は内心ぐらつきそうになりながら、反射で頷いてしまわないよう必死に堪えた。いくらナギが可愛いからって簡単に甘やかしてはいけない。 「別に、誘うのは俺じゃなくてもいいだろ。クラスメイトとかバスケ部の奴とか」 「え……よーちゃん以外に、誘える人……?」  ナギは心の底から不思議そうな顔をして考え込んでしまった。  こいつ、もしかしてマジで友だちいないのか? それはそれで心配だ。というかナギは昔から他人に興味がなさすぎる。 (つうか、それこそ〝好きな人〟とやらに声かけるべきだろ)  そう思ったが口には出せなかった。そんなことを言ったら、昼休みの告白イベントを盗み聞きしたと白状しているようなものだ。  まぁ、今日いきなり気軽に誘える関係ではないのかもしれない。年が近ければともかく、相手が大人ならコンビニデートは難しいだろうし。  ナギはじっとして俺の答えを待っている。こうも健気(けなげ)だと無碍(むげ)にしづらい。  俺はしばし逡巡(しゅんじゅん)したのち、()びたロボットじみたぎこちなさでクーポン券を受け取った。 「ちょうど腹減ってたし、いいけど」 「……! ありがと、よーちゃん」  ナギはへにゃっと眉を下げ、花びらがほころぶように笑う。子どもの頃からまったく変わらない無垢(むく)な表情に、オレの胸はぎゅうと締めつけられた。 (くそ、こんなんずりぃだろ……)  突き放せるわけがない。俺はずっと前から、それこそナギと出会ったばかりの頃から、この笑顔に心を奪われている。  ナギが無邪気に笑って、穏やかな顔で眠れるように。ずっとそう願いながら守ろうとしてきた。  でも、それは、俺自身の寂しさや空虚を埋めるための行為にすぎない。  根底にあるきっかけは、たぶん。  俺が小学校六年生のとき、母さんが病気で死んだことだ。  母さんは何年も闘病生活をしていて、俺が物心つく前から入退院を繰り返していた。  成長する俺とは反対に、母さんは会うたびに()せこけていく。それでも俺の前ではいつも気丈に振る舞い、「病気が治ったら、お父さんと三人で旅行しようね」と笑ってくれた。  子ども心に覚悟はしていた。いつそのときが来てもおかしくないと。  親父に言われたことがある。「今のうちに母さんに甘えておきなさい」と。  俺は甘えるよりも、なんとかして母さんを助けたかった。苦しいときは励まして、夜中だろうと病室のベッドに寄り添いたかった。  けど、俺には何もできなかった。  何も。  気づけば、黒い服を着た親戚や母の知り合いたちに囲まれて、「遥祐くん、かわいそうに」と、同情の眼差しを向けられていた。  かわいそうって、なんだろう。俺は無力で、これっぽっちも母さんの役には立てなかったのに。  涙は出てこなかった。親父の隣で、葬儀の参列者にぺこぺこと頭を下げている俺を、誰もが「かわいそうに」と言った。耳にタコができそうなほど聞いた。俺はただ聞き流していた。 「遥祐、凪沙(なぎさ)くんが来たよ」  親父に言われてやっと、俺は目の前にナギがいることに気がついた。 「挨拶はもういいから、始まるまで凪沙くんとあっちで遊んでなさい」  俺は大人しく頷いて、慣れない葬儀場に戸惑っているナギの手を引いた。最後に触った母さんの手とは違い、温かくて柔らかかった。  葬儀場の中庭で、俺は少しだけナギと話をした。どんな会話だったかはよく覚えていない。あの日も澄み渡る青空で、黒いスーツに陽射しが突き刺さるようだった。  俺が何か喋っている最中だった。ナギが突然、(せき)を切ったように泣き出したのだ。  驚いて心配する俺を、ナギはなぜか強く抱きしめてきた。そして、ぼろぼろ泣いてしゃくり上げながら言った。 『おれはずっと、よーちゃんのそばにいる』  その言葉だけは、今でもはっきりと思い出せる。  灯火のような一言だった。急速に色彩を失っていった世界の中、ナギの淡い髪の色が鮮やかに見えて、ナギの体温が唯一の()り所のように思えた。  あの瞬間に形を持った俺のエゴは、あまりに大きくなりすぎてしまった。  性的な欲求も、恋心も、ナギを通して心の穴を埋めようとした幼い願望のなれ果てだ。 (やっぱ最悪だな、俺)   我知らず自嘲の笑みが漏れる。むしろ俺のほうがナギに甘やかされているくせに。 「じゃあ、行こ。よーちゃん」  嬉しそうに笑うナギが、俺の手を握って引く。  もう柔らかくはない大人の手だけれど、相変わらず温かかった。

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