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第9話 ピー
「すご……」
朝食の準備をしていたら、そんな声が聞こえて、パッと振り返った。そこには、見慣れた……というほどたくさん話をしたわけじゃないけれど、それでも薬局によく来る彼がそこにいた。
かっこよくて、自分の部屋に彼がいるのが不思議な気がしてしまうくらい。
「あ、いや、朝食とか普段は全然作らないんだけど、お腹空いてるかと思って。けど、考えたら口切ってたから痛いかも……スムージーとかがよかったかも……」
スムージーの作り方は知らないけど。
「あー、口」
「あ、うん」
「はず……」
「?」
「いや、殴られたって知られた」
「! あ、いやっその、別に」
殴られたんだ。それは痛いだろうに。じゃあ、あのコーヒーのシミってつまりはそういう。なんというか殴られた拍子に転んで、みたいなドラマのようなワンシーンがパッと頭の中に浮かんでしまった。
彼は唇の端を指先で撫でてから、色々ごめんねって優しく笑ってる。そのアッシュグレーの髪は整髪料をつけてないからか、普段よりもラフな感じで、あどけなく見える。
「あ、じゃあ、その、とにかく朝ご飯をどうぞ、」
どうぞ食べてって言おうとしたところだった。
きっと昨日は色々なことがあったんだろうからお腹も空いてると思うし、朝ご飯をどうぞって。
メニューは大したことないよ。
目玉焼きにしようと思って失敗したスクランブルエッグと、レタスちぎったのと、ソーセージをただ炒めただけ。ご飯は炊いてなかったからパンにしてしまった。
その時、だった。
――ピンポーン。
「?」
朝の、まだ七時、だけど。
「ごめん、ちょ……」
あ……これ……とても嫌な予感。
「ごめんなさい。朝ごはん食べてて」
こんな朝早くに連絡なしで自宅に来てしまう人を一人知っている。ちょうどその人からもらったメッセージをずっと既読スルーしていたから。
きっと痺れを切らしたんだと思う。
「はいっ」
ほら、やっぱりそうだ。チャイムを鳴らすと自動で部屋に備え付けられているモニターに、そのチャイムのある玄関の様子が映し出される。
そこには良く見覚えのある、けれど、最近は会ってないから髪がすごく長くなっていることを知らなかった、僕の姉が映し出されていた。
「……はぁ」
タイミング、悪いなぁ。そう溜め息をひとつついて、渋々玄関を開けることにした。居留守を使ったって、しばらくそこでチャイムを鳴らし続けると思う。彼にしてみたら、何事だってなるだろうし。僕もしばらく鳴り続けるチャイムは居心地が悪いから。それなら玄関を開けて、今は知人が遊びに来ているからとでも言って追い返す方が良い。
「は、」
「ねぇ、今時、オートロックじゃないマンションってどうなの?」
「……」
仕方なく玄関を開けた瞬間、飛び込んでくる文句に溜め息をつくのすら忘れてしまう。
「それより、姉さん、朝だよ?」
「あなたがいつまでも返信くれないからでしょ?」
「……」
だって、返信したくなかったのだからしかたないでしょう?
それに、そちらにしてみたら僕は「異常点」だろうし、不治の病とでも思っていたでしょう? 僕が「ゲイ」であることは、病気なのだから。それなのに急にあんなに連絡をたくさん取られても、困るよ。今までずっと無視してたのにって。
「お父さんがね」
「……」
その話の切り出し方にずんと気持ちが重くなってしまった。
「少し最近、やっぱり歳なのか心細そうでね」
「あの」
「少しくらい親孝行しても良いじゃない? 学校だって一流なところ、行かせてもらったでしょう? 留学だって、全部。うちの会社に入る時だって、貴方のおかしなお願い聞いて、後継ってこと内緒で会社に。それが自分が男見つけるためだったなんて知らずに。あなたがそのゲイ? だってことを知った時のお父さんの気持ちわかる? 可哀想だと思わない? 実の親にそんなことしておいて」
「あのっ」
ここじゃ、聞こえてしまう。
中には彼がいるんだ。
玄関扉を少し開けて、中が姉さんに見えないようにしていたけれど、姉には想像もできないような小さなワンルームなんだ。すぐ背後にはこれから朝食をって思ってる彼がいる。
ここの話し声はきっと丸聞こえだろう。それでなくても、こんな朝早くに人が来たら何事だって思うだろうし。彼だって。
あ。
そういえば、彼の名前、まだ知らなかった。
いや、教えてもらうのも、どうなのだろう。
だってきっと明日からはただの薬局の店員と、ただのお客さんに戻るだろうし。それなら――。
「ねぇ、真咲聞いてる?」
「!」
「ゲイなんてすぐに治るわよ。結婚してみれば? 案外、簡単に治るかもしれなじゃない。あなた男子校だったし、だからでしょ? 女の人の免疫ないから。お父さんも男子校なんかに入れて失敗したって言ってた。それに今すぐ結婚してって言ってるわけじゃないんだし」
隠せばいいって簡単に言うけれど。姉さんは自分を殺すように隠し続けたことがないからそんな簡単に言えるんだよ。
治せばいいって思ってるでしょう? 病気だとまだ思ってるの?
本当の自分を隠し続けるストレスは? それは「別にいいじゃない」で済ませられる程度のものなの?
結婚だって、やっぱり、まだして欲しいって思ってるんだ……。
違うよ。病気じゃないよ。
これが僕なんだ。
相変わらずな自分の家族への偏見と、どうにもならない価値観に違いに溜め息を吐くこともできないくらいに、なんというか……呆れた。もうきっとここは同意できそうにはないなって。
だから今日はとりあえず帰って。メッセージにはちゃんと返事するからって。
「ねぇ、真咲ってば」
言おうとしたところだった。
「真咲、誰?」
今、その……心臓、飛び出すかと思った。
「「……ぇ」」
そう小さく呟いたのは姉と僕、二人同時だった。
「おはよーございます」
「え? 誰?」
いや、あの、僕も。
「あー、俺、真咲さんと付き合ってる……彼氏、です」
「「えっ」」
これもまた、二人同時に出た。素っ頓狂な声。
「俺たち、付き合ってるんで」
え? あの? へ? えぇ? ちょっ? 何を? 言って?
「あんま真咲から詳しくは聞いてないんですけど、でも、結婚? しないですよ? だって、俺と付き合ってるんで」
? このマークが百個くらい頭の中にひしめき合った。
「ね? 真咲」
あまりに頭の中がクエッションマークしか並んでなくて。
「ね、真咲」
ぎゅっと腰を引き寄せられ、頬に唇が触れた瞬間、思考回路が停止する音がした。
ピーって。
どこからか、そんな音が聞こえてきた。
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