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第39話 落ちないってば

 早く、落ちてね。  なんて言って、ニコッと笑ってた。  昨日、お店に宇野が来て、そしたら、柴くんも来て。  僕はカンガルーのペン立てをいただいて、そして。  姉の前で恋人のフリをしてもらう、のではなく。  本物の恋人になりたいと言われた。  ――いやぁ、落ちないなぁって思って。  落ちないでしょう?  ――早く、落ちてね。  だから。  ――パシンッ!  …………痛い。  これ、僕の新しい洗顔方法なのだろうか。つい、思わず、思い切り顔を水ごと叩いちゃうのだけれど。スッキリするし、邪念が払われる感じがしていいのだけれど、これすると洗面所がビシャビシャになっちゃうので、色々大変で。 「……」  でも、だって、柴くんが変なことを言うから。  落ちてね、なんて。 「おはよ、葉山さん」 「! おっ、おおっ、おはよう」 「……」 「な、何」 「いや。トイレットペーパー、そろそろなくなる」 「あ」 「大丈夫」  ひぇぇ……。 「場所、知ってるよ」  そう言うと朝から爽やかなイケメン柴くんがすっと僕の至近距離まで詰め寄ると、さっと手を伸ばした。 「っ」  だから、ね。あの、近いんだってば。これ、すごく。あとで僕がトイレットペーパーくらいやっておくので、その。 「そうそう、あの時も、思った」  何がですか。 「髪が少し濡れてて、色っぽいなぁって」  な、何言ってるんですか。 「おかしいなぁ、仕事で、あーこうしたら色気出そうだなって男性相手でも思うことはあるんだ。仕事でさ、メイクとかする時に。そういう仕事なんで。でもそれは仕事で、その人の魅力をどうやって引き出すかって話の時のことでさ、で」 「……」  そこで僕の頭上へと手を伸ばした柴くんがトイレットペーパーを一つ取ると、また、ニコッと笑った。そのゼロに近い距離感に身を縮める草食動物みたいに固まってる。 「色気を引き出すのと、色っぽいなぁって思うのは違うからさ」  そう? そうです? どっちも似てる気がしますけど。 「いや、全然違うでしょ。その人の魅力を分析して引っ張り出すのと、その人の魅力に引き寄せられるのとじゃ。んで、真咲さんのこと、色っぽいって思ったんだ。男相手にそう思ったの初めてだったから、不思議だなぁって思ったけど」 「!」 「きっともうあの時には惹かれてたのかもね」  し、知りません。 「ね? 真咲さん」 「!」  し、知りませんってば。けれど、柴くんはにっこりと微笑んで、僕のバシャバシャと派手に散らかして濡らした前髪をその長い指で摘んでる。 「!」 「前髪に泡がくっついてる」  あ、なんだ。髪の泡を取ってくれただけなのか、僕はてっきり、キスでも――。 「! っ、!」  キスされるのかと思ったけど、違った、ってホッとしたら、それも違って、やっぱりキスされるのかと思った。背の高い柴くんが腰を落として、僕と視線を合わせてくれる。柴くんの真っ直ぐに射抜くような眼差しは少し苦手だ。ドギマギしてしまう。  ふいっと視線を逸らそうと思った、ところだった。  柴くんの端正な顔が近づいて、本当に数センチ。  溜め息を今ついたら、吐息が柴くんに触れてしまう。そんな近いところで、唇がすぐそこ、おーいなんて大きな声を出したりしたら、誤ってキスしてしまいそうな距離。そして瞬きをしたら、睫毛が触れてしまいそうな距離に、君の顔が――。 「早く、落ちてね」 「!」  キスできてしまいそうな距離でそっと低音で囁かれた。  昨日と同じ言葉が僕に、触れた。 「あ、今日、俺、早めに上がるから迎えに行くね」 「い、いいっ、ってば、大丈夫っ」 「いや、俺が迎えに行きたいだけだから。デート」 「ひぇ」 「っぷ」  また昨日みたいに笑ってる。  そうはいかないんだってば。そんなことでは困るんだってば。  ないよ。僕に柴くんがを引き寄せられるだけの魅力なんて、卑下するわけじゃないけど、ないです。 「真咲さん、シフトにイレギュラーが入ってなかったら明日休みでしょ?」  なんで、それを。 「そりゃーもう一緒に生活してけっこう経つもん。ルーティーンくらいわかるよ。明日はいつも休みになってる日。だから、夜遅くても大丈夫でしょ? 俺はどうにでもなるし。だからデート」  もう一緒に過ごすようになって随分経つ。あの時、補充したトイレットペーパーは使い切ったし、僕のシフトスケジュールも把握できちゃう。  あの時は僕は君に惹かれてしまいそうで慌てて否定してた。気のせいですって。  けれど今は大いにに認めてる。  あの時は柴くんは僕のことを同居人って思ってた。  けれど今は――。  早く、落ちてね。  なんて言って、キスできてしまいそうな距離で僕を覗き込んでくる。 「あとで連絡する。っていうか、朝飯できたよ」 「え? あ、ごめ、僕やるのに」 「いやいや料理もできる男アピールの一貫だから」 「!」 「早くおいでねー」  そう言って、大きな手をひらひらと踊らせてる。 「……」  あの時は、まだ全然、だったのに。  今はこんなで――。 「お、落ちないってば……もぉ」  次のトイレットペーパーを変えるタイミングで、僕は、どうなっているんだろうって、ちょっと考えてから、落ち着けるようにともう一度、顔を洗い直してた。

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