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第43話 林檎

 一瞬誰だろうって、思った。  名前を呼ばれて、振り返って、どこかで見たことあるけど、と一瞬考えた。  でも、それは仕方のないこと、なんだ。 「久しぶりっていうのもあれだけどさぁ」  だって一度しか会ってないから。  あ、けれど、少し思い出してきた。 「あの後、あの晩のことをさぁ、他のバーで話してさぁ。案外、本当に遊んでるんだね。知ってる奴がいたよ。お前のこと」  そう、馴れ馴れしい口調だった。  セックスは、まぁ、気持ちよかったけど、距離の詰め方が好みじゃなった。 「だから、あんまり名前、言わないほうがいいかもねぇ」  でも、人違い? こんなに語尾をダラダラと伸ばすような話し方だったっけ。  一度しかしてないからそんなに詳細まで覚えてない。  そんなに顔までちゃんとは覚えてられないし、セックスしかしてないから、そんなにたくさん話してないんだ。話し方のクセを覚えるほど、会話なんてしてない。  覚えてるのは、馴れ馴れしく「泊まるだろ?」なんて言われたことと。 「ほらさぁ」  一晩だけの関係なのに、翌日にも残るような印を、キスマークをつけてきたこと。  ルール、ってわけじゃないけど、マナー、でしょう? だって、僕はこの人が、僕の前に誰を抱いてたのかなんて知らないし、その後誰としたのかも知らない。それだけの関係な相手にキスマーク、確認もせずにつけるなんてって思う。 「じゃないと、次の相手、見つけにくくなっちゃうよ?」  忘れてた、わけじゃないよ。  僕がそういう人間だったってこと。  セックスはその場限りの相手と済ませるような、奴だったってこと。だって、恋愛をする気なかったから。 「今日の相手は……イケメンじゃん。ラッキー?」  あーあ。  まさに、因果応報だ。 「今日の相手は知ってる? 君が白状な奴だって。俺、あの晩さぁ、一人でさぁ」  恋愛なんてものは存在しない、おとぎ話、そう思って、ドライに、欲求だけ満たせればいいって思ってたのに。今、違うかもしれないって。  ううん。  違っててもいいから、ちょっとの間だけかもしれないけれど、それでもって、手を伸ばしかけた瞬間にさ。  “いらないって言っていたしょう?“  そう言って、神様に目の前にあった真っ赤な林檎を持って行かれてしまったみたいだ。  少しでいいから、やっぱり食べてみたいって、口にしたいと手を伸ばした瞬間、あんなに食べない、いらない、美味しくないと拒絶してたくせにって、取り上げられてしまった。  だって、初めての一個が美味しくなかったから。  食べたら、甘くて、美味しいと思ったけれど、それは飴でコーティングされた外側だけだったんだもの。薄く、うすーく伸ばして満遍なく塗りたくられた喉が乾きそうなほどに甘い飴の味だったんだもの。食べていったら、本当の林檎はカスカスで甘味なんて少しもなくて、ただ硬い、味気のないものだった。  だから、もういらないって思った。  飴なら、いくらでも個包装になって、色々な味のものがたくさんある。わざわざ、最初の一口しか美味しくない林檎飴なんてものじゃなくていい。ただの飴で充分甘くて美味しいって。  そう思ってた。でも――。 「まぁ、そっちの彼? も、楽しみなよ。一晩だけ、しか無理らしいからさぁ」  でも、柴くんのくれた林檎はすごく赤くて、真っ赤で、甘酸っぱいいい香りがしてたから。 「あは、」 「それ、あんたが下手なだけだったんじゃん? それと、あんたがダサすぎて、イヤだっただけだと思うよ」 「は?」  食べてみたくなったんだ。 「は? は、こっち」 「はぁ?」  一口でいいから。  食べてみて、美味しくないかもしれないけれど、それでも食べてみたい。すぐになくなってしまうかもしれないけれど。 「あと、その心配いらないから」 「はぁぁ?」 「次の相手、とか、必要ないから」 「!」 「それじゃ」  それでも、食べたいって。 「おいっ、なんなんだよっ」  そう思って手を伸ばした。 「あ、あのっ、ねぇ、柴くんっ?」  どこに向かってるんだろう。また助けてもらってしまった。姉さんがうちに朝突然来たとき。それから薬局で、来店いた方に怒鳴られた時。 「あのっ、ごめんっ、さっきの。えっと、あの、本当、ごめんね。っていうか、僕、そういう奴だから、柴くんとじゃ似合わないっていうか。っていうか、そもそもきっと気の迷いだと思うよ? ほら、色々あったから、なんか、女性は懲り懲りって一瞬なっただけで。本当に一瞬だと思うし。だから、目覚めたでしょ? 僕じゃ、ダメだと思うよ。もったいないよ。ありきたりな言い方だけど、不潔、でしょ? 柴くん、もっとさ。僕なんかじゃなくてさ。本当、もったいなさすぎるから」  そして、今日で三回目になる。助けてもらったの。  かっこ悪いよね。  ダサいし。  いわゆる、淫乱? ってやつでしょ? 最低でしょ? でも、これまでは全然それでいいって思ってたんだ。本当に。すると思ってなかったし、恋愛なんて。ましてや、ストレートでこんなにかっこよくて優しい柴くんとなんてさ。恋愛とか考えるのも、手を伸ばすのも、本当は烏滸がましいっていうかさ。 「ごめんねっ、イヤな思いさせて。でもこれで柴くんは気の迷いが治ると思うし。あ、部屋は全然いてもらっても大丈夫。もちろん、出ていくのも全然、いつでも」  本物の林檎は僕にはもったいないよ。林檎味の飴で充分だよ。 「いつでも」 「別に、気の迷いじゃないよ。不潔だとも思ってない。もったいなくないし。目なら覚めてるよ」 「っ」 「起きてるよ、ほら」  そう言って、柴くんが掴んでくれていた手を、クン、わずかに引っ張った。 「ね?」  本物の林檎。  僕は、それいらないって言ったのだから。神様に、そんなものは美味しくないに決まってる、どうせ、飴細工で最初の一口しか美味しくないんだからいらないって、言ったのだから。  もう、食べちゃダメ。 「真、」 「でも」  食べさせてもらえないかもしれないけど。 「…………好き……です」  でも、一口でいいから。 「あの」  今だけでもいいから、あとでやっぱり僕のじゃないって取り上げられてもいいから。 「柴くんのこと、好き」  この林檎が食べたいって。 「好き」  手を伸ばした。

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