64 / 73

第64話 普通の世界

 今だけ、でもいいからと、柴くんの手を取った、のになぁ。 「……」  手、いつか離さないといけなくても、って思ってたはずなんだけど。ずっと、なんて贅沢なことは本当にちっとも思ってなかったんだ。なのに、ね。  今は、もう。  ちっとも離したくない。  柴くんのあったかい手を。 「……んー……真咲さん?」  そーっと、手を握ったけれど、仕事をするための大事な手だからか、柴くんは目を覚ましてしまった。薄く目を開けて、僕を見つけると、どうしたの? って不思議そうに顔を寄せてくれる。 「ごめん、柴くん、まだ、起きる時間じゃないよ」 「……ん」  そして、僕のことも引き寄せながら、また、すぅ、って眠った。  僕も、まだ一緒に寝ていたい。ずっとこうして、柴くんと。 「っ」  でも、それがいつ終わっちゃうんだろうって、今はそれがすごく気になってしまって。寝るのすら、惜しいような気がしてきた。  寝たら、その間、柴くんのことを見ていられないから、柴くんに触れたりできないからもったいないなって、思ったんだ。 「おやすみなさい……」  そう、思ったんだ。 「……すごい」  そう思わず声が出ちゃった。  ナナミさん、はすごい有名なダンサーさんだった。僕はそういうの疎いからちっとも知らなかったけれど、検索してみたら、ナナミさんのダンス動画がいっぱい出て来た。天才、って、コメントでもすごく褒められてる。でも、わかるよ。うん。確かに天才って、僕も思う。ダンスのことなんてわからないけれど、わからない僕からしてみても、すごく上手いってわかる。  軸がブレなさ過ぎって褒められてた。  音間も半端じゃないって。彼女のダンス動画にはたくさんのコメントが寄せられていた。  そもそもはダンス一本の人だったらしく、初期の動画はダンスばかりだった。すごく有名な海外アーティストのバックダンサーとして活躍していた。その頃のダンス練習風景動画がすごく人気になって、日本へ帰ってきてから、歌を動画に載せ始めてた。そしたら歌も上手くて。  ダンスも歌も。  才能の塊みたいな人だった。  そして、今、あの赤い髪色になった彼女はピークなんじゃないかってくらいに、メディアにも注目されている。  そんな赤い髪をメイクしてあげたのが柴くんだった。  柴くんが、彼女の本当の魅力を見つけてあげた。 「お疲れ様でーす」 「!」  薬局の休憩室の片隅でじっと動画を眺めていた僕は、突然入ってきた、藤野さんにパッと顔を上げた。 「お疲れ様、です」  その声に、現実に引き戻してもらって、ふっと、肩に力が入ってたことに気がつく。 「今日、病態生理学あったんですよー。私、結構得意で」  病態生理学、か。懐かしい。僕も結構得意だったっけ。 「でも、頭をぐるぐる使った後って、甘いもの食べたくなるじゃないですか? ドーナツを三つも食べちゃって」  それも、ちょっとわかる、かも。覚えることの多い基礎薬学の勉強の時はよく甘いものを食べていた。  四年生は五年生へ進めるための試験もあるから、毎日忙しくて。 「あ、そうだ。この前、私、バイト中に行列作っちゃって、もう焦っちゃって。パートさんに助けてもらってなんとか、って感じだったのに、そのあとはもう全然暇で」 「あ、あるよね。そういうの」 「あれってなんなんでしょうねー。本当にものすごい行列になっちゃったのに」 「うんうん」  大きく頷きながら、藤野さんと一緒に薬局において、あの、混んでる時と混んでない時の波はなんなのかって話してた。 「不思議ですよねー」 「うん」  他愛のない話。けれど、僕にはちょうどよくて、ちょうどすごくわかりやすくて。 「あ、あれ、どうなりました? ソファベッド」  きっとこんな他愛のない話は、柴くんのいる世界ではない話なんだろうって思う。ナナミさんのいる世界に至っては、まるで別世界のように思えるんじゃないかな。さっきたくさんあった練習動画。練習、のはずなのに、なんだかかっこいいんだ。どこにも「平凡」がない感じがした。一分、一秒、彼女は表現者で、どこを切り取っても絵になる気がした。ただの練習風景でさえ、素敵って、コメントがあったもの。  若い子たちの憧れ、なんだと思う。  そんな彼女が柴くんのことを好き。  そんな彼女の魅力を柴くんなら最大限に引き出してあげられる。 「あー、ソファベッド……」 「私、すごく良いの見つけたんです。これなんですけど。もうパッと見、ベッドだなんて思えないんですけど。撥水加工されてるし、汚れもつかないし」 「……」  買おうかなって思ってた。  柴くんと一緒に眠るには、僕の使っている一人用のベッドは狭すぎるから。  けれど、部屋は狭いから、大きなベッドを買ったら、もうベッドしか置けなくなってしまう。引越しは流石に大袈裟かなって思う。  それなら昼間はソファになるベッドって、藤野さんにアイデアをもらったんだ。  とても良いアイデアだと思った。  けれど。 「まだ、少し考え中、かな……」  けれど、柴くんがいなくなった後は、もうそんな大きなベッドはいらないから。  今は、少し、探してなかった。  柴くんと一緒に使うソファベッドは。 「部屋、狭いし」  探すのを、やめていた。

ともだちにシェアしよう!