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第73話 散歩
壱都くんの様子にとても違和感を感じた。
ナナミさんとリコさんしか知らないけれど、それでも彼は女性のことを苗字で呼ぶことはなくて、もしも、苗字で呼ぶにしても、もっと親しげな雰囲気になると思うから。
今、ステージの上でハサミを踊らせるようにカットをしていく彼女を見つめながら、苗字を呼んだ壱都くんには、すごく違和感があった。
何か、彼女と――。
「!」
その時、拍手が観客席の方から沸き起こって、その瞬間、壱都くんの表情がこわばっていく。僕は慌てて、ステージへとまた視線を向けた。
彼女のカットが終わったようで、ゆっくりとこっちへ向かって歩いてくる。
「……久しぶり」
しっとりと落ち着いた声がそう言った。
「……久し、ぶり」
そう、壱都くんの声が返事をして。
「復帰、したんだ」
と、沈んだような声で壱都くんが呟いた。
彼女は一体誰、なんだろう。会場はすごく盛り上がってる。ステージ上で彼女に髪を切ってもらっていた女性はスッと立ち上がると、観客席の並ぶ中、真っ直ぐに伸びているステージの先へと歩いて行くのが見えた。ここからは、その先端部分まで見ることはできないけれどとても盛り上がっているのは、拍手の大きさで伺えた。
「もう復帰してからけっこう経つよ」
「……そっか」
親しい?
「それより、そっちは?」
壱都くんのこと?
「俺は……」
よそよそしい感じがする。けれど、嫌い合っているとかでもない気がする。
「今、楽しくカットできてるよ」
そう、壱都くんが言った瞬間、彼女の表情が変わった。
少し強張っていたんだ。表情も声も、それは周辺の空気までもヒリつかせていたけれど。
「そっか」
楽しくしていると壱都くんが言った瞬間、空気が柔らかくなった。
「私も」
ほら、また、もっと柔らかくなった。
「今は楽しくカットしてる」
何が二人の間にあったのか。
「もしかして、あなたのカットって……」
ふと彼女が僕に視線を向けた。
「ぇ、あ、壱都くんに……」
「へぇ、そうなんだ……よかった」
「?」
よくわからないけれど、よかった、の?
「楽しくやれてるんなら」
えっと。
「楽しいよ。あの時は、そんなふうにはあんまり思えてなかったけど」
彼女はじっと壱都くんを見上げた。まるで、その言葉が本当かどうか確かめるように、見定める視線は鋭くて、隣にいた僕は緊張してしまいそうになったけれど。
「この仕事をしていて楽しいって思えるようになった」
でも、壱都くんがそう言って笑ってくれたから。
「……そう、なら……よかった」
よくわかってないけれど、二人の間に何があったのちっともわからないけれど。
よかった、と思えた。
「三」
え、も、ほんと、に?
「二」
ひぇ……。
「一」
ちょ、本当に?
「いってらっしゃい」
その言葉に思わず、返事をしてしまいそうになった。
ぎゅっと口を結んで、ポンって優しい手がそっと押し出してくれる。
一歩進んだ先は光が溢れていて、キラキラとしていた。
前を見ながら、ただ歩くだけ、なんだけど、今、僕、どうやって歩くのかすら頭の中からスポーンって抜けてしまいそうなんだけど。右足、左足、右、左、足を交互にとにかく出して行くだけ。足元を見て歩きたいけれど、その足元には自分をじっと見つめる眼差しがたくさんあるのがちらりと視界の端に映ったから、とにかく前を見ることにした。でないと緊張で足が絡まってしまうと思う。
あ。
「……」
壱都くんが、追いかけて来てくれた。
ステージ袖から僕の背中を押してくれて、そのまま駆けて、観客先に来てくれた。大忙しい、だよね。僕と並行して歩くように、視界の右端に壱都くんがいるのが見える。
ただそれだけで緊張よりも楽しいが勝った。
まるで並んで歩いているみたい。壱都くんはこのフロアの端を、僕はステージの上を歩きながら。
ただそれだけで、一緒に並んで歩いてるみたい。
ただ歩いてるだけだけど。
でも、ふわりと気持ちが翻って、夏の爽やかな風の中をハタハタと大きく羽ばたこうとするシーツみたいに、大きく気持ちが広がっていく。
見てもらいたいと、思った。
壱都くんに素敵にしてもらった自分を。
好きじゃなかった自分のことを。
認めてあげられなかった自分のことを。
彼が見つけて引っ張り出してくれた僕の良いところをしっかり見てもらいたくなった。
ここにいる人たちに。
素敵でしょう? って。
そう、セイくんの衣装も素敵だ。そろそろやってくる夏が楽しみになるような軽やかな生地は、すごく本当に軽くて、着ているとその軽さに、気持ちもふわりとしてくる。
あ。
えっと、ここで。
はい。
Uターン。
壱都くんがくるりとターンしたのを視界の端で見つけて、僕も真似るように踵を返した。あとは来た道を戻るだけ。クセのある毛先が跳ねて踊るくらいに、ステップを刻んで歩いてく。ステージ袖から出てきた後に、中央の道との曲がり角でもう一度振り返った。
お辞儀をして、顔を上げて。
一歩二歩、と進んでいく。五歩目で、袖の黒いカーテンのところに到着した。
「ふぅ……」
「おかえりー」
わ、もうここまで戻ってきてくれた。
壱都くんは足が長いから? ツイさっきまで観客席のいるフロアで一緒に歩いていてくれたのに、もうここで僕のことを迎えてくれる。
「ただいまっ」
嬉しくて。
「? 楽しかった?」
つい笑ってしまったんだ。だって、壱都くん、ワープ? って思ってしまうくらい、瞬間移動するから。でも、魔法じゃない、のは見てわかる。いつも完璧な君が。
「楽しかったよ」
前髪を乱しながら君が僕を出迎えてくれたことが嬉しくて、つい。
「すごく楽しかった」
笑ってしまったんだ。
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