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第1話 氷嶺の盾

鳴り止まぬ地吹雪の咆哮を背に、カーツはノルズガルド王城「水晶宮」の重厚な鉄扉を潜った。大気を凍らせる外気とは対照的に、城内は水晶石の熱源によって春のような暖気に満ちている。だが、カーツの心は一向に解れることはなかった。 「……騎士団長、カーツ。ただいま帰還いたしました」 謁見の間。磨き抜かれた大理石の床に、甲冑から滴る雪解けの雫が点々と染みを作っていく。正面の玉座に座す老王へ跪くカーツの背中には、数多の視線が突き刺さっていた。それは英雄への称賛ではなく、特権階級の地位に胡坐をかいた貴族たちの、品定めするような、あるいは自らの利権を脅かす「番犬」への疎ましげな視線だ。 「よくぞ戻った、我が国の誇りよ。聞けば、国境の採掘場に現れた帝国の小隊を、一兵も欠かさず退けたとか」 王の言葉に、周囲の貴族たちから「左様、左様」と、薄っぺらな賛辞が漏れる。彼らが纏うのは、水晶石の輸出制限で得た莫大な富を注ぎ込んだ、贅を尽くした絹の衣装だ。その装束を揺らし、扇子で口元を隠しながら、一人の侯爵が皮肉げに口を開いた。 「しかし騎士団長、そう血気盛んになられては困りますな。帝国が欲しがっているのは我が国の石だ。適当に値を吊り上げ、適当に小出しにしていれば、奴らは勝手に干上がる。わざわざ戦場まで出向いて剣を振るうなど、野蛮な浪費に過ぎませんぞ」 扇子を揺らしながら、一人の侯爵が薄笑いを浮かべて口を挟んだ。 「その通りだ。帝国が動けぬよう、商才で首を絞める。それこそが賢者の戦い。現場の兵を少しばかり減らされた程度で、国家の危機だと騒ぎ立てるのは、騎士の面子を保ちたいだけの誇張ではないのか?」 (――何も分かっていない) カーツの胸の奥で、冷たい怒りが火花を散らした。 この贅沢に溺れた者たちには、国境の空気さえ想像できないのだ。 黒鉄の覇王、シュハールという男は、商取引の駆け引きなどで足止めできるような器ではない。奴の瞳に宿っていたのは、利権への渇きではなく、すべてを蹂躙し、塗り替えることへの絶対的な悦楽だった。 「……陛下。シュハールは、石を『買おう』としているのではありません。奪い取り、我ら全てを屈服させようとしているのです。奴の剣を一度でも受ければ、それが分かります。あれは、交渉のテーブルに着く者の振るう刃ではありません」 必死の訴えも、広間の熱気に霧散していく。 彼らにとって、シュハールは異国の野心家に過ぎず、カーツの言葉は「戦うことしか知らぬ武人の妄言」としか映らない。 「よい、よい。お前の忠義は分かっている、カーツ。だが、彼らの言うことも一理ある。まずは事態を見極めよう」 王の煮え切らない言葉。それは、軍事費の増大を嫌う貴族たちの顔色を伺ってのものだった。この国は、強固な水晶石の防壁と「北の盾」という個人の武勇に依存しすぎていた。内側からゆっくりと、贅沢という名の真綿で首を絞められていることにも気づかずに。 重い足取りで回廊へ出たカーツを、待ちわびていたのは一人の少年だった。 「師匠!」 弾んだ声とともに駆け寄ってきたのは、第一王子のエリュシオンだった。まだ十四歳。その瞳には、濁りのない尊敬の念が宿っている。 「エリュシオン様。……稽古の時間にはまだ早いかと存じますが」 「待ちきれなかったのです。父上たちが何を言おうと、僕は知っています。この国を、そして僕たちを本当に守ってくれているのは、師匠の剣だということを」 少年は、カーツの腰にある大剣の柄――そこに埋め込まれた、蒼く輝く水晶石を眩しそうに見つめた。エリュシオンにとって、カーツは騎士道の理想そのものであり、いつか自分が王座に就いた際、共に国を支えてほしいと願う唯一無二の存在だった。 「僕は、あなたに相応しい王になりたい。師匠が守る価値があると思ってくれるような、誇り高い国を築きたいんです。だから今日も、僕に剣を教えてください。あなたのような強さと、気高さに、少しでも近づけるように」 慕わしげに袖を引く少年の、その白く柔らかな手。この少年の純粋な誓いを守ることだけが、腐敗しゆく王国においてカーツが握りしめる、唯一の「騎士の祈り」であった。 だが。 その時、カーツの剣に埋め込まれた水晶石が、ふっと一瞬だけ不吉な鈍い色に陰った。 それは吹雪のいたずらか。それとも、遥か南方の黒鉄の玉座で、覇王シュハールが「獲物」を罠に追い詰めるための、最後の一手を指した合図だったのか。 高潔な騎士を囲む静寂は、まもなく訪れる地獄の前触れに過ぎなかった。

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