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第2話 静かなる包囲
黒鉄の帝国――首都・ガルドラ。
そこには、北方の王国が後生大事に守り続けているような「旧時代の情緒」は一切存在しない。
整然と区画整理された都市には、魔導工学の極致とも言える機能美を湛え、計算され尽くした魔導光の羅列が夜の闇を無機質に塗り潰している。巨大な魔導機械が立てる駆動音が、重厚な地響きとなって時折地表を震わせるが、一つの巨大な鋼の生命体が呼吸するような、冷徹な調和を保っていた。
その帝国の心臓部。機能性を極めた覇王の執務室において、シュハールは広大な演習場を見下ろしていた。
「……また、奴に斬られたか」
シュハールの手元にあるのは、最新鋭の魔導重装歩兵が纏っていた装甲の残骸である。
本来ならば、特殊合金を幾重にも重ねたこの装甲を容易く断ち切れる武器など、この大陸には存在しないはずだった。だが、そこに刻まれた断層は、驚くほど滑らかで、かつ鋭い。それは力任せの破壊ではなく、相手の魔力の流れを見極め、最小限の魔導エネルギーを刃の一点に凝縮させて解き放つ、「北の盾」カーツ特有の神業によるものだった。
シュハールは、その断面を慈しむように、手袋を嵌めた指先でなぞった。
シュハールが国境の前線に姿を現すのは、気紛れな視察などではない。
彼は漆黒の旗に描かれた黄金の獅子を掲げ、帝国の圧倒的な軍事力の象徴として戦場に降臨する。あえて自身の所在を明らかにすることで、ノルズガルド最強の騎士であるカーツを引きずり出し、その「盾」の硬度を、その剣筋の鋭さを、自らの得物で直接確かめるためだ。
数日前、雪煙の舞う国境の隘路で刃を交えた際、シュハールは確かに感じていた。
大型魔導兵器の砲撃を真っ向から受け流し、一歩も退かずに部下を守り抜くカーツの姿。返り血を浴びてもなお損なわれることのない、氷河のような高潔さ。
帝都の冷徹な合理性の中で、すべての事象を計算可能な「駒」として扱ってきたシュハールにとって、カーツという存在は、この世界で唯一、自分の予測を狂わせる「生きた熱源」であった。
(あの眼は、まだ私を見ていない。ただ背後の弱者を守ることだけを見ている)
それが、シュハールの征服欲を激しく逆撫でする。
自分と切り結びながら、その意識は国や民という「概念」に向いている。その視線を力ずくで自分だけに向けさせ、絶望に染め上げたいという衝動。それはもはや軍事的な関心を越え、暗く深い執着へと変質していた。
「陛下。潜伏中の間諜『梟』より、定時報告が届きました」
影から音もなく現れた側近が、虚空に多層的なホログラムを投影する。
映し出されたのは、ノルズガルド王宮内の隠し撮り映像と、改ざんされる前の財務報告だ。シュハールは、空中を舞う光の羅列を、冷淡な手つきで操作した。
「……無様だな。資源を独占し、富を蓄えた結果がこれか。豚に真珠、無能に水晶石というわけだ」
ホログラムには、国境での犠牲などどこ吹く風で、豪奢な晩餐会に興じるノルズガルド貴族たちの醜態が映し出されていた。彼らが纏う絹のドレス一枚の価格で、国境の防壁をどれほど強化できたか。シュハールの脳内の計算機は、瞬時にその差額と、それによって救えたはずの兵士の数を叩き出す。
さらに、数字は深刻な欠陥を露呈していた。ノルズガルドが誇る「水晶城」の防護壁の一部が、老朽化と予算の着服によって、機能の三割を喪失している事実。
「武力一辺倒の国――。周辺諸国には、我が国をそう思わせておけばよい」
シュハールが「野蛮な覇王」として振る舞い、正面突破の小競り合いを繰り返していたのは、緻密な「負荷テスト」の一環に過ぎない。
正面から圧力をかけ続ければ、ノルズガルドの内部構造はどう歪むか。貴族たちは防衛を強化するのか、それとも騎士団に責任を押し付けて保身を図るのか。
結果はシュハールの予想を上回るほどに惨めだった。彼らは「北の盾」という最強の個人の武勇に甘え、その盾が摩耗していくことさえ無視して、内側で利権を貪り続けている。
そして、シュハールは最後の一手を指した。
数日前、ノルズガルド領内で発生した帝国の豪商殺害事件。
それは、シュハールが放った「餌」に、飢えた豚が食いついた結果に過ぎない。
シュハールが送り込んだ商人は、無礼と強欲で知られた男であった。
彼はノルズガルド貴族に莫大な賄賂を提示した。表向きは「水晶石の優先供給」を求める懇願だったが、その実、それは「貴族個人が国の資産を横流しし、私腹を肥やすための裏帳簿」そのものだったのだ。
強欲に目が眩んだノルズガルドの貴族と、その秘密を共有する商人、諍いが起きる可能性は五分とシュハールは踏んでいた。
結果、シュハールが投げ入れた石は期待以上の波紋を生んだ。
揉め事の末に秘密をばらすと言い募る商人を、ノルズガルドの貴族が惨殺した。
「他国の平民など殺しても罪にならぬ」というノルズガルド貴族の傲慢さが招いた事件。
これこそが、シュハールの望んだ結末であった。
「陛下。殺害の現場の証拠は烏たちが押さえております。ノルズガルド側は隠蔽を図っておりますが、我が国は既に『動かぬ証拠』を回収しております」
側近が、冷徹な報告を口にする。
「よかろう。野蛮な隣国が、我が国の臣民をなぶり殺しにした。これ以上の対話は無用。残るは、鉄による謝罪のみだ」
シュハールは片頬を吊り上げて笑った。
「……ノルズガルド王は、まだ貴族会議という名の演劇を続けているのか?」
「はい。カーツ騎士団長の増援要請は、閣僚たちによってことごとく否決されました。彼らは未だに、陛下が求めているのは一部の採掘権の譲歩であり、適当なところで手打ちにできると思い込んでいます」
シュハールは、デスクの上に置かれた自身の漆黒の剣に手をかけた。
国境での邂逅。カーツの蒼い瞳が、自身の漆黒の瞳と真っ向からぶつかったあの瞬間。
あの騎士は、自分が守ろうとしている国が、内側からどれほど救いようもなく崩壊しているか、その死臭を確かに感じ取っていたはずだ。それでもなお、彼は盾を捨てず、汚泥の中で独り、光を放ち続けていた。
その強靭な精神が折れる瞬間。
守るべき民に裏切られ、誇りとしていた騎士道を足蹴にされたとき、あの蒼い瞳がどのような絶望を宿すのか。それを想像するだけで、シュハールの胸の奥には、熱い飢餓感が突き上げてくる。
「あの国を、その慢心ごと焼き払う。だが……あの騎士だけは、灰の中に埋もれさせるには惜しい」
シュハールは窓の外、遥か北方の空を見据えた。
そこには、自分たちが信じる「不落」という幻想に安住する、無防備な白銀の国がある。
帝国がもたらすのは、死ではなく、絶対的な「秩序」による再定義だ。
「カーツ。お前を縛る古い誇りと、その身を削るだけの無意味な忠誠は、俺がすべて断ち切ってやろう。……すべてを失い、空虚な『物』となったお前を、俺の伽藍で、俺だけのものへと焼き直してやる」
シュハールの口元が、獲物を前にした冷酷な悦楽に歪んだ。
執務室を出るシュハールの背後で、数千、数万という魔導機甲兵の起動音が、帝都の地下から地鳴りのように響き渡る。
整然と、かつ無慈悲に。
黒鉄の軍団が、高潔な騎士を地獄へと誘うための進軍を開始した。
それはもはや戦争ではなく、覇王による「収穫」の始まりだった
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