4 / 11
第3話 崩落の序曲
ノルズガルド王国の王城「水晶宮」は、未だかつてない動揺に揺れていた。
本来であれば、魔導暖房の熱気で緩やかに保たれているはずの謁見の間の空気は、今や氷点下を突き抜けるかのように張り詰め、貴族たちの震える溜息が白く濁って消えていく。
「――黒鉄の軍勢が、国境を越えただと?」
老王の声は、驚愕に枯れていた。
その手元に握られた急報の書面は、王宮内の間諜が密かに流したものではなく、国境の守備隊から届いた紛れもない現実である。
それも、数機や十数機の威力偵察ではない。地平線を黒く塗り潰し、雪原を鉄の海へと変えるほどの「軍団」の進軍であった。
「馬鹿な……。今は『白の月(冬)』だぞ。この極寒の地を攻めるなど、正気の沙汰ではない!」
一人の貴族が、縋るような声を上げた。
ノルズガルドが「不落」を標榜する最大の根拠は、その険峻な地形にある。
大陸北端に位置するこの国は、一年を通じて寒冷な気候に晒されているが、冬ともなれば、その厳しさは「神の拒絶」とさえ称される。
国境から王都へ至る唯一の道には、険しい氷壁と深い雪谷が連なり、不慣れな軍勢であれば進軍するだけで兵の半数を凍死させる。
さらには、王都の背後には巨大な氷の絶壁が聳え立ち、天然の障壁として「水晶宮」を護り続けてきた。
「帝国が誇る魔導機甲兵といえど、この吹雪と氷結に耐えられるはずがない。奴らはただ、商人殺しの件で脅しをかけに来ただけだ。すぐに撤退するに決まっている」
「左様。我らには『水晶城』の防護壁がある。黒鉄の重火器といえど、この聖なる壁を貫くことはできぬ」
貴族たちの間に、安易な希望が波及する。それは、長年享受してきた平和という名の毒がもたらす慢心であった。彼らにとって、シュハールという男は「理屈の通じぬ野蛮人」であり、同時に「自分たちの常識の枠内に収まるべき敵」でしかなかったのだ。
だが、その楽観を裂くように、重厚な甲冑の音が響いた。
「――甘いと申し上げざるを得ません」
歩み出たのは、カーツであった。
その蒼い瞳には、王宮の熱気に浮かされる者たちとは対照的な、凍てつくような冷静さが宿っている。
「シュハールは、気候や地形で足が止まるような男ではありません。奴がこの『白の月』に兵を動かしたということは、帝国の魔導技術が、既にこの極寒を克服したという証左に他ならないのです」
「黙れ、騎士団長! お前はそうやって、戦火を煽って己の武勲を立てたいだけだろう!」
貴族の罵倒を、カーツは静かに聞き流した。
彼が危惧しているのは、自身の名誉ではない。
ノルズガルドを護る要衝「白銀砦」――王都へ至る唯一の関門。
そこに据えられた魔導防壁は、カーツの騎士団が展開する集団同調によって、大陸最強の硬度を誇る。
「陛下。白銀砦を抜かれれば、この水晶宮は逃げ場のない檻となります。直ちに追加の兵を砦へ配置し、近隣の民を避難させるべきです」
「……あ、相分かった。カーツよ、そなたに防衛の全権を預ける。白銀砦を……死守せよ」
王の言葉に、力強さはなかった。
それは信頼による委託ではなく、手に負えない現実をすべてカーツの肩に押し付けたに過ぎなかった。
謁見の間を辞したカーツが、自室へと戻る回廊を歩いていると、曲がり角から小さな人影が飛び出してきた。
「師匠!」
エリュシオン王子であった。
その幼い顔は青ざめ、震える指先がカーツの純白のマントを強く掴む。
「……本当なのですか? 黒鉄の軍が、すぐそこまで来ているというのは。本当に、戦争が始まるのですか?」
王子の瞳には、恐怖と、そしてそれ以上に「信じているもの」が揺らぐことへの不安が溢れていた。十四歳の少年が背負うには、歴史の動乱はあまりに重く、冷たい。
カーツは足を止め、跪いて王子の目線に合わせた。
戦場では無慈悲な死神とも化すその手が、今は慈愛に満ちた優しさで、王子の震える肩を包み込む。
「エリュシオン様。ご安心ください」
カーツの声は、低く、深く、そして揺るぎない確信に満ちていた。
「ノルズガルドの騎士は、盾でございます。民を、国を、そして陛下とあなた様を護るためにこそ、我らの剣はあります。たとえ吹雪が太陽を隠そうとも、私が白銀砦に立っている限り、黒鉄の軍勢がこの地を踏むことはございません」
「師匠……。勝てますか? あの、恐ろしい覇王に」
エリュシオンの問いに、カーツの脳裏を一瞬だけ、あのシュハールの黄金の瞳が掠めた。
あの男の振るう力は、単なる暴力ではない。すべてを呑み込み、塗り替えようとする根源的な「飢え」だ。
だが、カーツはそれをおくびにも出さず、王子の蒼い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「勝敗よりも大切なのは、護り抜くという意志にございます。このカーツ、命に代えましても、あなた様の未来に影を落とさせはいたしません」
その言葉は、王子への誓いであると同時に、自らの魂に打ち込んだ楔でもあった。
カーツは立ち上がり、騎士の礼を捧げると、そのまま一度も振り返ることなく歩き出した。
その背中を見送るエリュシオンは、まだ知る由もなかった。
守護を誓ったその誇り高き騎士が、間もなく「不落」という幻想と共に崩れ落ち、覇王の手によって、その美しさも、高潔さも、すべてを奪い尽くされる地獄が始まろうとしていることを。
北の盾は今、荒れ狂う冬の嵐の中、その身を挺して砦へと向かう。
それが、彼が「騎士」として在れる、最後の平穏な時間であった。
ともだちにシェアしよう!

