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第4話 凍れる牙

白銀の静寂は、鉄と油の臭い、そして地鳴りのような重低音によって無惨に引き裂かれた。 ノルズガルドを護る最後の関門、「白銀砦」。その険峻な崖の合間に築かれた関を、今、漆黒の津波が埋め尽くそうとしていた。 地平の彼方、雪煙を割って現れたのは、黒鉄の帝国の圧倒的な「暴力」の結晶であった。 整然と列を成す数千の魔導機甲兵。その金属の関節が駆動するたびに大気は不吉な軋みを上げ、巨大な台車に載せられた魔導砲の砲身が、獲物を狙う冷徹な獣の瞳のように砦を睨み据える。 軍勢の中央、ひときわ異彩を放つ漆黒の愛馬。その上には、漆黒の軍服を纏った「シュハール」が悠然と佇んでいた。彼の背後には、黒地に黄金の獅子が吼える巨大な軍旗が翻っている。風に煽られる旗の音が、これから始まる略奪と蹂躙を、凍てつく大地へ宣言しているかのようであった。 対する白銀砦の城壁の上。カーツは抜き放った大剣を天に掲げ、全身全霊をもって叫んでいた。 「――集団同調、開始! 水晶石、出力最大!」 カーツの号令とともに、配置された騎士たちが一斉に自身の武器に埋め込まれた石に精神を集中させる。瞬時、砦の前面に蒼白く輝く巨大な魔導障壁が展開された。 降り注ぐ雪を瞬時に霧散させ、帝国の放つ重圧を真っ向から押し返す「不落の盾」。障壁越しに見えるカーツの姿は、冷気と魔力の奔流を纏い、まさに北の守護神そのものの気高さを放っていた。カーツは、黄金の獅子の旗の下に座す「影」を見据え、奥歯を噛み締める。 (シュハール……。貴公の首を落とさぬ限り、この戦は終わらぬ) カーツは、敵の総大将が正面に鎮座していることに、武人としての高揚と、一抹の「安堵」さえ覚えていた。奴がここにいる限り、戦場はここであり、自分が盾を支え続ける限り、背後の王都は安全なのだと。 だが、漆黒の馬上に座している「シュハール」は、声を発することも、面を上げることも許されない、ただの影武者に過ぎなかった。本物の覇王が仕掛けた、この戦場で最も残酷な「欺瞞」が、今、人知れず牙を剥こうとしていた。 ************** 漆黒の軍勢が白銀砦を包囲し、轟音とともに絶え間ない砲撃を開始したその時。 戦場から遥か離れた東方の断崖絶壁、「神の拒絶」と呼ばれる氷壁に、音もなく動く死の行軍があった。 そこは、王都「水晶宮」の背後に聳え立つ、垂直に切り立った氷の絶壁である。 一年を通じて太陽の光さえ届かぬ影の地。猛烈な下降気流が全ての侵入者を奈落へと叩き落とし、絶え間なく鳴り響く氷河の軋みは、侵入者の精神を内側から削り取る。ノルズガルド人さえも「生身で近づく者は狂人、登ろうとする者は死人」と断じる死の領域であった。 その垂直の氷壁に、鋼の鉤爪を叩き込み、一歩ずつ這い上がる狂王がいた。 シュハールである。 彼は今、白銀砦に展開させた数万の大軍を、カーツの意識を釘付けにするためだけの「使い捨ての囮」として置き去りにし、自らは数百の精鋭のみを率いて、この過酷極まる垂直の死路を突き進んでいた。 「……陛下、もはや限界です。指の感覚がありません!」 背後で、屈強な帝国兵の一人が、血を吐くような声を漏らした。 防寒用の外套さえ邪魔だと脱ぎ捨て、黒い軍服一枚で氷壁に取り付くシュハールの姿は、もはや人のそれではない。荒れ狂う下降気流が彼の身体を岩肌から引き剥がそうとし、鋭利な氷の粒が頬を切り裂き、血を凍らせる。だが、シュハールの黄金の瞳だけは、暗闇の中でらんらんと狂気に燃えていた。 シュハールは、凍傷で黒ずみ、感覚の消失した指先を、無理やり氷の裂け目にねじ込んだ。 骨が軋む音さえ心地よいと言わんばかりに、彼は笑っていた。 「限界だと? 結構なことだ。その限界の先でしか味わえぬものがある。……奴が、あのカーツが今この瞬間も、命を削って『正義』のために盾を護っているというのに。この俺が、ぬくぬくと安全な馬上などで奴を待てるわけがなかろう」 彼の行動を突き動かしているのは、戦略的な合理性ではない。それは「所有」という名の、底なしの渇愛であり、狂気であった。 カーツは「守護」のために己を律し、騎士の鑑としての清廉な行動を貫いている。それは、あまりにも眩しく、正しい。 だからこそ、シュハールはその「正しさ」を徹底的に蹂躙するために、自らもまた死の淵を歩まねばならないと考えていた。 最も信頼し、最も安全だと信じ込んでいる「背後」――そこから、絶望そのものとして姿を現すこと。それが、カーツという至宝の魂を屈服させるための、唯一にして絶対の儀式なのだ。 「陛下! 滑落者が――ッ!」 悲鳴とともに、一人の兵士が闇の底へと消えていった。だが、シュハールは一顧だにしない。 一歩間違えれば、数百メートルの高さから叩きつけられ、雪原の塵となるだろう。だが、彼にとってその死の恐怖は、ノルズガルドの絶望という最高のご馳走を引き立てるための、極上のスパイスに過ぎなかった。 氷壁を穿つシュハールの鉤爪が、岩肌を削り、火花を散らす。 カーツは「守護」のために、規定の戦術を、騎士の鑑としての美学を貫く。 対するシュハールは「略奪」のために、王としての矜持さえ捨てて、泥を啜り、指を凍らせ、崖を這う。 この決定的な「精神の歪み」こそが、二人の勝敗を分かつ残酷な境界線であった。 「……見えたぞ。水晶宮の尖塔だ」 ついに断崖を登り切ったシュハールの眼下に、灯火に揺れる無防備な王都が広がっていた。 正面の白銀砦では、今もカーツが「シュハール」の影を見据え、血を吐くような思いで障壁を維持しているはずだ。自分の背後に、死神が這い上がってきたことなど、夢にも思わずに。 「さあ、収穫の時間だ。……騎士団長不在の『檻』で、腐った貴族どもがどんな顔をして俺を迎えるか。想像するだけで、指の冷たさも忘れてしまうな」 シュハールは、凍りついた手で腰の黒剣を抜いた。その刀身が、月光を浴びて不吉な、それでいて艶めかしい輝きを放つ。 高潔な盾が、自らの正しさゆえに、そして背後への信頼ゆえに、唯一空けてしまった巨大な「穴」。 そこから、黒鉄の死神が静かに、そして確実な殺意を持って、無防備な聖域へと足を踏み入れた。 白銀砦を照らす魔導障壁の輝きは、未だ衰えてはいない。 しかし、その輝きが護るべきはずの本体は、既に内側から崩壊の秒読みを始めていた。

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