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第6話 断崖の残照、あるいは絶望の序曲

白銀砦を包む空が、不自然なほど赤く染まっていた。 それは朝日の輝きではない。背後の王都「水晶宮」から立ち昇る猛火が、ノルズガルドの冬空を無慈悲な朱に染め上げているのだ。 「……王都が、燃えている……?」 前線で剣を振るっていた騎士の一人が、愕然とした声を漏らす。その視線の先、不落を誇った水晶の尖塔が、ゆっくりと黒煙の中に没していくのが見えた。カーツは機甲兵の心臓部を貫いた大剣を引き抜き、その光景を凝視した。全身を氷のような寒気が駆け抜ける。 「団長! 城壁に伝令が!」 駆け上がってきたのは、王城の守備に残してきたはずの腹心、ルノーだった。その鎧は無残に砕け、顔は煤と血に汚れ、必死の形相で叫んでいる。その腕には、恐怖で顔を白くしたエリュシオン王子がしがみついていた。 「ルノー! 城で何があった!」 「シュハールです……! 奴は狂っている……! 奴自ら数百の兵を引き連れ、あの『神の拒絶』を越えて玉座の間に現れたのです!」 「……何だと……?」 カーツの思考が一瞬、凍りついた。目の前の雪原には、依然として黄金の獅子の旗が翻り、漆黒の馬上の主がこちらを睨んでいる。だが、その輪郭は雪煙に霞み、一度も声を上げてはいない。 正面にいるのは、自分たちをここに縫い止めておくための精巧な「影」に過ぎなかったのだ。 「陛下は……王はどうされた!」 「分かりませぬ! 城内は火の海、陛下は……おそらく無事では済みますまい。閣下、もはや一刻の猶予もありません! 王子を連れて教皇国へ向かうのです! あそこなら、水晶石の権益を守るために神官たちが我らを受け入れてくれるはずです!」 「……馬鹿なことを言うな! 王を、民を置いて私だけが逃げろと言うのか!」 カーツは燃え盛る王都を振り返った。あの中にはまだ、彼が守護を誓った主君が、そして助けを待つ民がいる。騎士団長として、今すぐ引き返し、あの炎の中に飛び込むべきではないのか。 だが、ルノーは血の混じった涙を流しながら叫んだ。 「戻れば全滅です! 今、ノルズガルドの血脈を絶やすわけにはいかない! エリュシオン様を、この国の未来を繋げるのは、閣下、貴方しかいないのだ!」 「師匠……行かないで……!」 王子の小さな手が、カーツの返り血に汚れたマントを掴んだ。その震える温もりが、カーツの心に重くのしかかる。王を救うために戻るべきか、王子を救うために逃れるべきか。高潔な騎士の魂が、二つの「守護」の間で無惨に引き裂かれようとしていた。 「……全軍に告ぐ。砦を死守せよ。私はこれより、少数の精鋭を率いて王子を聖地へと護送する。――これより我らは、古の禁路、『獅子の這い路』を抜ける!」 カーツは苦渋の決断を下した。それは逃亡ではなく、いつか再起するための種火を守る戦いだと自分に言い聞かせて。 「獅子の這い路」は、切り立った断崖の縁を縫うように走る、死の細道である。かつて王国の開祖が窮地を脱したとされるその道は、激しい吹雪が視界を奪い、一歩踏み外せば底の見えない奈落が口を開けている。 カーツは怯える王子の手を強く、しかし優しく包み込んだ。 「エリュシオン様。よくお聞きください。騎士の剣は敵を倒すためにあるのではなく、愛するものを守り抜くためにあります。たとえ今日、我らが故郷を離れようとも、貴方の心にノルズガルドの誇りがある限り、この国が滅びることはありません。私は貴方の剣となり、盾となり、必ずや光ある場所へお連れしましょう。ですから、どうか……前だけを見つめてください」 王子の瞳に、わずかながらの決意が灯る。 だが、その尊き誓いを嘲笑うかのように、背後から地獄の底を叩くような足音が響いた。 「……追いついてくるとはな。あの狂王め」 雪煙の中から現れたのは、シュハールだった。 彼は王都を壊滅させた勢いそのままに、自ら先頭に立ってこの険路を追撃してきたのだ。その軍服は裂け、氷壁を登った際の傷口からは生々しい血が滴っている。だが、その黄金の瞳は、獲物を追い詰めた獣のような至悦に輝いていた。 「逃がさんぞ、カーツ。お前の『守護』も、その子供の未来も、すべて俺が食い尽くしてやる」 シュハールの声は、冷気を帯びた熱を孕んでいた。 カーツはエリュシオンをルノーたちに託し、断崖の橋の上で一人立ち塞がった。 「獅子の這い路」の峡谷を繋ぐ天然の石橋。 吹き荒れる猛吹雪が、二人の男を白銀の牢獄へと閉じ込めていた。 「ルノー、王子を連れて行け! 振り返るな!」 「師匠! ダメだ!」 「誓いをお忘れなきよう、エリュシオン様。……さあ、狂王シュハール! 貴様の野望、この私という壁に阻まれるがいい!」 王子の悲鳴が遠ざかるのを背中で聞き届けた瞬間、カーツの意識は極限まで研ぎ澄まされた。 大剣を正眼に構え、重心を低く落とす。その蒼い瞳は、猛吹雪の向こうに立つ黒鉄の死神だけを捉えていた。 「……いい目だ、カーツ」 シュハールが、血塗れの黒剣を無造作にぶら下げたまま歩み寄る。 「お前のその高潔さが、絶望の淵でどのように濁るのか。それをこの手で、直接確かめたかった」 シュハールの踏み込みは、予備動作すら感じさせない「瞬間」の爆発だった。 一足飛びに間合いを潰し、黒剣を斜め下から切り上げる。カーツは大剣の腹でそれを辛うじて受け止めるが、伝わってきたのは、常人の筋力では説明のつかない「殺意の重さ」だった。 ガギィィィィンッ! 火花が雪中に飛び散る。 「ぐっ……!」 「どうした、騎士団長! 守るべきものがある者の剣は、もっと鋭いはずだろう!」 シュハールの猛攻が始まった。 氷壁を登り、爪を剥がし、限界を超えた肉体が生み出すその一撃一撃は、洗練された剣術というよりも、獣の蹂躙に近かった。右からの薙ぎ払い、反転しての刺突、さらには返しの刃での斬り上げ。黒い閃光が、カーツの周囲を縦横無尽に走り抜ける。 カーツは防戦を余儀なくされていた。 大剣という重量級の武器を使いながらも、シュハールの超速の連撃を最小限の動きで弾き返す。だが、一撃凌ぐごとに、腕の骨にヒビが入るような振動が全身を走る。 シュハールの振るう黒剣が、カーツの肩当てを掠め、純白のマントを無残に切り裂いた。 「……はぁっ、はぁっ……!」 「冷えてきたな、カーツ。お前のその熱い正義の血で、この雪を温めてくれ!」 シュハールの笑みは、もはや人間のそれではない。 彼は自らの左掌から溢れる鮮血を黒剣に塗りつけ、魔力を暴走させた。刀身がどす黒い輝きを帯び、周囲の空気が不吉に震える。 カーツもまた、覚悟を決めた。 (ここで終わらせる。この狂気を、これ以上先に進ませてはならない) カーツは自身の生命力を強制的に魔力へ変換し、大剣に宿らせた。武器に埋め込まれた水晶石が、王都を照らしていたあの障壁と同じ、神々しいまでの蒼光を放ち始める。 「――騎士の誇りにかけて。シュハール、貴様を討つ!」 カーツが地を蹴った。 重厚な大剣が、光の帯となってシュハールを襲う。 シュハールはそれを正面から受ける愚は犯さない。身を屈め、影のように床を這ってカーツの懐へ潜り込む。だが、カーツはそれを読んでいた。 斬撃の勢いを利用して旋回し、大剣の石突きでシュハールの顎を突き上げる。 「ぐ、おっ……!」 シュハールの頭が跳ね上がる。そこへ、カーツの渾身の縦一文字が振り下ろされた。 ドォォォォォォォンッ! 石橋の床が粉砕され、轟音が断崖に反響する。 シュハールの肩から胸にかけて、蒼い光が深く刻まれた。黒い軍服が弾け飛び、鮮血が舞う。 しかし、シュハールは倒れなかった。 それどころか、肩口から血を噴き出しながら、彼は歓喜に顔を歪めていた。 「……素晴らしい! この痛み、その決意! やはりお前は、俺に喰われるために生まれてきたのだ!」 シュハールの放つ正面からの斬撃が、カーツの脇腹を深く抉った。 「あ、がっ……!」 カーツの口から鮮血が溢れる。 互いに致命の一撃を交換し合いながら、二人はなおも剣を止めることはなかった。 一撃を放てば、肉が断たれる感触が手に伝わる。 一撃を受ければ、命の灯火が削られる音が耳に響く。 高潔な騎士と狂気の覇王。相反する二つの魂が、血と鉄と雪の中で、もはや区別がつかないほどに混ざり合っていた。 二人の刃が激しく噛み合い、至近距離で視線が火花を散らす。 互いに力も付きかけたその時だった。 シュハールは、力でカーツを押し込みながら、その耳元に毒を吐くように囁いた。 「……無駄だ、カーツ。お前は、俺の手の平の上で踊ったのだ」 「……何だと?」 「この道を我らに教えたのは教皇国の神官だ。つまり……お前が今、必死に王子を逃がしたその道の先――峡谷の出口は、既に我が帝国の軍勢が封鎖している」 「……な、に……」 カーツの蒼い瞳から、一気に血の気が引いていく。 剣に宿っていた蒼光が、その絶望に呼応するように、弱々しく明滅した。 「お前は失敗したのだ。都を焼かれ、今また、唯一の希望さえもこの俺の用意した『檻』へと送り出した。……お前の『守護』など、最初から何の意味もなかったのだよ」 「……あ、ああ……」 カーツの腕から力が抜ける。 高潔な騎士が、自らの命を削って築き上げた「正しさ」のすべてが、シュハールという一人の男の狂気と執念によって、塵のように踏み躙られた。 「さあ、見ろ。お前の絶望の終着点を」 シュハールの歪んだ笑い声が、吹雪の中に溶けていった。 断崖の先、峡谷の出口は荒れ狂う冬の嵐の中で、断末魔のごとき唸り声をあげていた。

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