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第7話 堕ちた銀光

峡谷の出口から響いたのは、幼き王子の絶望に満ちた叫びだった。 やがて、猛吹雪の向こうから黒鉄の鎧を纏った兵士たちが現れる。その中心には、屈強な兵士に組み伏せられ、泥と雪にまみれたエリュシオン王子の姿があった。 「師匠……! ごめんなさい、師匠……っ!」 その光景を見た瞬間、カーツの魂を支えていた最後の一糸が断ち切れた。 大剣を杖代わりにどうにか立っていた彼の膝が、がくりと折れる。冷たい雪の中に突き立てられた拳が、無力感に震えた。 「……終わったな、カーツ」 シュハールは肩の傷口を押さえながら、勝利者の足取りで歩み寄る。その顔には、一国の王としての威厳など微塵もない。ただ、極上の獲物を仕留めた悦びに浸る、飢えた獣の笑みがあった。 「お前に選ばせてやる。この子供を今すぐここで切り刻み、お前も騎士の誇りと共に心中するか……あるいは、俺のものになるかだ。もし俺に忠誠を誓うなら、その子供の命だけは助けてやってもいい」 カーツは血の混じった息を吐き、シュハールを仰ぎ見た。 「……貴様の言葉を、信じろと言うのか」 「お前は狂王と呼ぶが、俺は嘘つきではない。これは王の約束だ。お前という『盾』が手に入るなら、こんな子供一人くらいどこへなりと逃がしてやる」 カーツは背後にいるエリュシオンを見た。王子の瞳は恐怖と涙で溢れている。 この子を救う道は、もはや一つしかなかった。騎士としての死よりも重い、生ける辱め。 「……分かった。約束は守ってもらう」 カーツは震える手で、生涯の友であった蒼い大剣を掴んだ。そして、それを自らの意志で、底の見えない峡谷の奈落へと投げ捨てた。 キィィィン……と、岩肌に当たる虚しい金属音だけが響き、誇りの象徴は闇へと消えていった。 「はははは! 見ろ、この様を! ノルズガルドの誇りが、俺の足元で頭を垂れているぞ!」 シュハールは狂ったように笑い声を上げた。その哄笑は吹雪を切り裂き、周囲の帝国兵たちさえも戦慄させるほどの狂気を孕んでいた。 「約束だ。ノルズガルドの兵よ、その子どもを抱えてとっとと失せろ。二度と俺の前に現れるな」 拘束を解かれた王子が、よろめきながらカーツに駆け寄ろうとする。だが、シュハールの配下に阻まれた。ルノーが泣きながら王子を抱きかかえ、教皇国の方角へと走り出す。 「師匠! 師匠! 行かないで!」 王子の叫びが遠ざかっていく。だが、カーツは一度もその顔を上げなかった。王子を見ることさえ、今の自分には許されない。泥にまみれ、首を垂れたまま、彼はただ静かに唇を噛みしめていた。 「おい、いつまでそうしている。連れてこい」 シュハールの冷酷な号令が下る。 兵士たちが、カーツの両手に重く冷たい枷を嵌めた。それだけでは飽き足らず、シュハールは自らカーツの首に太い鉄鎖を巻き付けると、それを手綱のように握りしめた。 「立て、敗軍の将よ。お前の新しい主が、帰還の路を案内してやる」 鎖が乱暴に引かれ、カーツの体が雪の上に引きずり出される。 数刻後。 かつて白銀の栄華を誇った王都、水晶宮。 そこにはもはや、美しき氷の都の面影はなかった。立ち昇る黒煙と、至る所に転がる兵士の亡骸。そして、勝者である帝国軍の軍靴の音が、石畳を無慈悲に叩いている。 その中央大通りを、シュハールが馬に跨り、悠然と進んでいた。 その後ろには、首に鎖を巻かれ、泥まみれのまま徒歩で引き立てられるカーツの姿があった。 「見ろ、あれが不落の騎士団長か……?」 「俺たちのために戦っていたんじゃなかったのかよ!」 道端にうずくまる敗残兵や、住処を失った民衆から、容赦ない罵声と礫が飛ぶ。 彼らにとって、カーツは自分たちを見捨てて逃げ、そして敵に降った裏切り者に他ならなかった。かつて彼を「神話の英雄」と称えた瞳には、今や激しい憎悪と軽蔑が宿っている。 シュハールは、背後のカーツが浴びる辱めを、極上の音楽でも聴くかのように愉しんでいた。 「どうだ、カーツ。お前が命をかけて守ろうとした連中だ。奴らの顔をよく見ておけ。お前が俺のものになった瞬間、お前は奴らにとって死神以下の存在になったのだ」 カーツは何も答えない。 ただ、首に食い込む鎖の重みと、石畳に散った民の血の色だけを見つめていた。 一歩進むたびに、騎士としての魂が剥がれ落ちていく。 水晶宮の玉座へと続く大階段。 燃え盛る都を見下ろしながら、シュハールは鎖を短く巻き取り、カーツの顔を強引に自分の方へと向けさせた。 「ようこそ、俺のノルズガルドへ。お前の地獄は、まだ始まったばかりだ」 夕闇に沈む王都に、覇王の勝ち誇った笑い声がいつまでも響き渡っていた。

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