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第8話 黒鉄の檻

ノルズガルドが陥落してから、わずかひと月の月日が流れた。 かつて「不凍の宝珠」と称えられた水晶宮は、いまや黒鉄帝国の冷徹な軍靴に踏みにじられ、その姿を変えつつあった。 王宮の深奥、かつては賓客を招いた豪華な客室の一室に、カーツは幽閉されていた。窓には鉄格子が嵌められ、部屋の外には常に二人の帝国兵が立っている。肉体の傷は、シュハールの命を受けた軍医たちの手によって驚くほど速やかに癒えていたが、それは決して慈悲ではない。彼を「完全な形」で手元に置きたいという、支配者の歪んだ執着の表れだった。 王都の再編は、恐怖を感じるほどの速度と効率で進んでいた。 かつてのノルズガルド王は、「名誉王」という虚飾に満ちた称号を与えられ、一命を取り留めていた。だが、それは情けではなく、帝国の傀儡としての役割を全うさせるための処置に過ぎない。実権はすべて、シュハールが任命した「黒鉄の執政官」の手に移り、ノルズガルドの法は帝国の法へと書き換えられた。 混乱に乗じて不正を働いていた貴族たちは、シュハールの命により、見せしめとして水晶宮の広場であっけなく処刑された。一方で、汚職に手を染めていなかった者たちも、その財産のほとんどを没収され、屋敷に蟄居を命じられた。 シュハールは、破壊者であると同時に、冷酷なまでに理性的な統治者だった。 彼は戦場にいた頃と同じ狂気を瞳の奥に宿しながらも、驚くべき手際で山積みの書類を捌いていく。 「……ふむ、この鉱山の採掘権も、すべて帝国の直轄に切り替えろ。反抗する者は一人残らず鉱奴に落として構わん」 執務室の椅子に深く腰掛け、シュハールは書類にサインを走らせる。その合間、彼は無意識に、自らの肩から胸にかけて刻まれた大きな傷跡を、愉しげに指先で撫でた。 カーツとの死闘で刻まれた、あの蒼い光の残滓。 包帯の下で疼くその痛みを感じるたび、シュハールの口角は微かに吊り上がる。傷跡は彼にとって、あの高潔な騎士を屈服させた「勝利の刻印」であり、手に入れた最高の戦利品を思い起こさせる甘美な刺激であった。 ある朝、突然その時は訪れた。 カーツは兵士たちに促され、幽閉されていた部屋を出された。廊下を引き立てられる際、首に巻かれた太い鉄鎖が、ジャラリと嫌な音を立てて石畳を擦る。 用意されていたのは、騎士団長としての正装でも、囚人としてのボロ布でもなかった。 それは薄い布地の、驚くほど簡素な白の服だった。装飾は一切なく、ただ機能的で、着る者の無防備さを強調するような出で立ち。そして足元は、冬の寒さが残る石床を直接踏みしめる「素足」であった。 「……行け。陛下がお待ちだ」 王宮の門前には、整然と並ぶ黒鉄の機甲旅団と、シュハールの愛馬が控えていた。 シュハールは馬上にあり、カーツがその前に引き立てられると、彼は満足そうに目を細めた。 「歩け、カーツ。俺の故郷まで、その足でな」 帰還の路は、カーツにとって生き地獄そのものだった。 シュハールの馬の後ろを、鎖で繋がれたまま歩かされる。直接的な暴力こそ振るわれないが、氷のように冷たい泥濘を素足で歩く苦痛と、民衆の好奇の目に晒される惨めさが、一歩ごとに彼の自尊心を削り取っていく。 国境を越え、ノルズガルドの領土を離れるその瞬間、カーツは一度だけ足を止め、北の空を振り返った。 (……どうか。民たちが平穏を保てますように。そして、エリュシオン様……貴方がどこかで、光を見失わずに生きておられることを) 心の中で捧げられた静かな祈り。 だが、そのわずかな希望を打ち砕くように、馬上のシュハールが冷たく言い放った。 「熱心だな、カーツ。だが、その祈りにどれほどの意味があるかな。教皇国は信心深く見えるが、その実は金に汚い強欲者の集まりに過ぎん。俺の金で寝返るような連中が、いつまであの子どもを匿うと思う?」 カーツは唇を噛み、鋭い視線を向けた。 「……シュハール、貴様……」 「睨むな。お前が俺に従い、生きている限りはあの子どもに手は出さん。……だが、もしお前が勝手に死ぬようなことがあれば、あとの保証はできんな」 シュハールはカーツの絶望を見透かし、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。 カーツは、いっそ今この場で舌を噛み切り、死んでしまいたいと願った。誇りを失い、敵の王に繋がれて生きる屈辱に耐えきれなかった。だが、彼が死ねば王子の命はない。死ぬことさえ許されないという残酷な現実が、彼を縛り付けていた。 やがて一行は、黒鉄帝国の帝都へと到達する。 そこに広がっていたのは、カーツが想像していたような黒煙に塗れた混沌ではなかった。 整然と区画整理された石造りの街並み、緻密に計算された蒸気機関の配管が街の毛細血管のように張り巡らされ、静かに、かつ力強く稼働している。無駄を削ぎ落とした機能美あふれる工業国家の姿がそこにあった。 (……これが、黒鉄。この圧倒的な力に、我らは立ち向かおうとしていたのか) 魔法と剣に頼ってきたノルズガルド。その古き良き伝統がいかに無力であったか。カーツはその先進的な街並みを目の当たりにし、己が国の無謀さを改めて突き付けられた。 帝都の民は、凱旋するシュハールに狂信的な歓声を送る。その背後で引きずられるように歩く「北の英雄」の姿は、帝国の偉大さを誇示するための格好の象徴だった。 たどり着いたのは、王の私室。 重厚な自動扉が閉じると、外の喧騒は遮断された。 室内は機能的で冷徹な美しさに満ちている。部屋の隅には、彼を繋ぎ止めるための頑丈な環が壁に打ち込まれていた。 シュハールは馬を下りた時と同じ足取りでカーツに近づくと、その顎を強引に持ち上げた。その手には、鈍い光を放つ黒鉄の首輪と鎖が握られている。 「……殺してくれ。……どうか、私を……殺してください」 カーツの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。それは弱さではなく、奪われ尽くした男の最後の慟哭だった。 シュハールは、その涙を親指で乱暴に拭い、狂ったような歓喜を込めてささやいた。 「殺してやるものか。お前は俺の渇きを潤すための、一生消えない傷跡だ」 カチリ、と重厚な金属音が響く。 カーツの首には、新たに冷たく重い黒鉄の首輪が嵌められた。 「今日から、お前は俺の忠実な奴隷だ。この鎖がお前の新しい法であり、俺の言葉がお前の神となる。……理解したか、カーツ」 カーツは激しい葛藤に身を焼きながらも、遠い地にいる王子の命を想い、屈辱に震える唇を震わせた。 「……は、い……陛下……」 覇王の満足げな笑い声が、静かな部屋に響き渡った。 騎士の誇りは足元の冷たい床へと沈み、永劫に続く隷属の夜が幕を開けた。

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