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第16話 歪みゆく忠誠

春の陽光が降り注ぐ朝、カーツは柔らかな絹のシーツの中で目を覚ました。 かつて彼がノルズガルドで使っていた執務室よりも広く、豪奢な部屋。高い天井には緻密な彫刻が施され、足元には毛足の長い絨毯が敷き詰められている。 目覚めて最初に耳に届くのは、重厚な機械の地鳴りではなく、窓の外から聞こえる鳥のさえずりだった。 「……っ……」 身を起こそうとすれば、首元でジャラリと鎖が鳴る。その鎖は今、壁の頑強なリングに繋がれていたが、以前のように彼を冷たい床に縛り付けるほど短くはない。部屋の端から端まで歩き、窓の外を眺めることさえ許されるほどの長さが与えられていた。 そして、今の彼には「服」があった。 人としての尊厳を奪うための全裸ではなく、上質な生地で仕立てられた、飾り気のない漆黒の衣。それは囚人の服というよりは、高貴な身分の者に仕える小姓の装束に近い。 カーツは立ち上がり、窓辺へと向かった。 窓の外には、帝都ガルドラの全景が広がっていた。 機能的に区画整理された街並み、整然と行き交う魔導列車、そして遠目にも活気があると分かる市場の喧騒。ノルズガルドの古き良き、しかし停滞していた景色とは違う、圧倒的な「力」と「進化」がそこにはあった。 (……これが、あの男の統治する世界……) 認めざるを得なかった。自分たちを蹂躙したあの男は、破壊者である以上に、類まれなる有能な指導者なのだ。民は飢えず、街は輝き、国は脈動している。その事実を突きつけられるたび、カーツの胸には剣で貫かれるよりも鋭い痛みが走った。 部屋には、彼を退屈させぬためか、多くの書物が用意されていた。 手に取ってみれば、それは大陸各地の歴史書や、最新の魔導戦術、そして古今東西の剣技に関する技術書だった。 カーツは吸い寄せられるように、一冊の剣術書を開く。 そこには彼がかつて部下たちに説いたような、基本の構えや呼吸法が記されていた。 (懐かしい……。私は、かつて……このために生きていた……) 騎士として剣を振るうことの誇らしさ、規律を守り、強さを追い求めた日々。 その記憶は今の彼にとって、甘美な救いであると同時に、喉元を締め上げる毒でもあった。剣を持つことを許されず、ただ王の情欲を待つだけの「モノ」として生きる自分。 しかし、食事は日に三度、温かく栄養に富んだものが運ばれ、身体は毎日、香りの良い湯で清められる。 いつしか、カーツの誠実な心根は、この「恩寵」を裏切ることを拒み始めていた。 生かされ、服を与えられ、書物まで与えられている。ならば、自分もまた「役割」を果たさなければならないのではないか。 陽が傾き、空が紫紺に染まり始めると、カーツの内に奇妙な焦燥が沸き上がった。 夜が来る。「準備」の時間だ。 彼は自ら服を脱ぎ捨てると、誰に命じられるでもなく、棚に置かれた香油の瓶を手に取った。 騎士が戦場へ赴く前に武具を手入れするように、あるいは敬愛する主君に拝謁するための身だしなみを整えるように。 カーツは跪き、慣れた手つきで自らの内側を解し始めた。 「……っ、ふぅ……あ……」 三本の指を深々と沈め、入り口から奥までを念入りになぞる。 かつての自分が見れば絶望するであろうその光景も、今のカーツにとっては、王を迎えるための「神聖な儀式」に等しい重みを持ち始めていた。 解き、広げ、滑らかにする。 シュハールが不快を感じぬよう、そして自分という器が、彼の重厚な存在を余さず受け入れられるように。 汗ばんだ肌、荒くなる吐息。 恥辱がないわけではない。だが、それを上回る「忠誠」に似た使命感が、彼の指を動かしていた。 (これで……いいはずだ。あの方を……お待たせしてはならない……) 騎士としての忠義が、歪んだ形で「器」としての自覚へと昇華されていく。カーツの身体は、もはや自力では満足できぬほど、シュハールの侵略を待ち望むように疼いていた。 カツン、カツン。 待ちわびた軍靴の音が、廊下に響く。 扉が開くと、そこには帝王の威厳を纏ったシュハールが立っていた。 彼は窓辺で跪く、完璧に仕上がったカーツの姿を見て、満足げに目を細めた。 「『検分』の必要もなさそうだな。実によく馴染んでいる」 シュハールは壁のリングから鎖を外すと、首輪に繋がったその鎖を短く巻き取り、くいと引いた。 「来い、カーツ。今夜は俺の隣で、もっと深く教えてやる」 シュハールの寝室へと続く扉が開かれる。 鎖を引かれ、引き立てられるその姿は、客観的に見ればこの上ない屈辱の極みだった。 だが、カーツの胸は不思議と高鳴っていた。 首を締め上げる鎖の感触、主君の力強い歩み。そのすべてに、抗いがたい熱を覚える。 高潔なる白銀の騎士は、この夜には存在しない。 そこにいるのは、王の腕の中でしか眠れず、王の指でしか満たされない、今や完成されつつある「帝王の私物」であった。

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